武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

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妙行寺の加藤清正の銅像

名古屋市の中村公園にある妙行寺には加藤清正の銅像があります。

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妙行寺は加藤清正の生誕地にあって、慶長10年(1610)の名古屋城築城の時、
清正が余った余材を寄進して再建したというお寺。清正の信仰した日蓮宗。

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境内正面に清正銅像があります。この銅像は熊本城にも名古屋城にもあるけど、
数ある武将銅像の中で一番かっこいいエクセレントクラスのものだと思っています。

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加藤清正に会ったことなんてあるはずないんだけど、イメージ通りって思っちゃう。
出来ばえが素晴らしいから、どんだけ見てても本当ーーに見飽きないんだよね。

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名古屋城にある銅像と違うのは、兜に前立てがあるところ。
佇まいも加藤清正らしいけど、この面構えも「ぽい」んだよね。ほんとに。ほんとーに。

こうしてブログを書いていても写真に見とれてしまうわ。



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| 武将の銅像 | 23:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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医王寺の山本勘助の供養塔

富士宮市の医王寺には山本勘助のお墓があります。

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医王寺は奈良時代に創建されたといわれる古いお寺で戦国期に真言宗から浄土宗に改宗。
幼稚園も併設されている現在、古刹なのになんだかほのぼのした感じです。
山門には柵があって、ちびっこが出ちゃうからちゃんと閉めなきゃいけないのよw

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本堂の右手裏に進むと「山本勘助供養塔」の案内が。コレ本当に助かるのよ!!
大河ドラマ「風林火山」の時は参拝者が多かったようだけど人は全然いませんw

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真ん中あたりにある一番小さいのが勘助の墓・・というか供養塔。

山本勘助は富士市山本の吉野氏の三男として生まれたと伝わっていて、
吉野氏の分家である比奈山本氏が江戸時代に医王寺の檀家になったことから、
供養塔が建てられたようです。この反対側は山本氏のお墓が並んでました。

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分かりづらいんだけど供養塔には「鉄巌道一禅定門」と刻まれていました。

吉野氏の三男として生まれた源助は12歳で三河大林氏の養子となりましたが
大林氏に実子ができたため35歳の時に離縁し、名を「勘助」と改め、諸国へ旅に出ます。
今川への仕官を望むも叶わず、52歳で武田信玄に仕え百貫の知行取に出世しました。

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供養塔の並びには大河ドラマ「風林火山」の時に建てられた石碑とミニ勘助像が。
信玄の元で参謀として活躍した勘助でしたが、永禄4年(1561)川中島の戦いで
上杉軍に啄木鳥戦法の裏をかかれ、八幡原にて討死。享年69歳。


勘助は実在したとか否かって話もあるけど、ワタクシは断然実在派(?)ですw

諸国をめぐり兵法、剣法、天文学にも通じていたという勘助さん。
隻眼で足が不自由、風貌も冴えなかったといわれますが男は中身が大事!!
逆境をバネに、辛いことも耐え抜いて生きた強くかしこい人だと思います。



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| 武将の墓 | 08:30 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

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西山本門寺の織田信長の首塚

静岡県富士宮市の西山本門寺には信長の首塚があります。

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西山本門寺は法華宗興門流のお寺で創建は康永2年(1343)。武田家や千葉原家、
水戸家出身の上人がいたり、徳川家の庇護や水尾天皇の姫常子内親王の帰依を受け
下馬下乗の禁礼を建てることを許されたりもした立派なお寺なんだそうですよ。

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庫裏の横に案内板がありました。裏か!裏にいけばいいんだね!!(前のめり)

本能寺で討死した信長サマの首を本因坊算砂(日海上人)がここに埋葬させた・・
西山本門寺ではそういう話(伝説?)になっていて、首塚が築かれたんです。

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進んでいくと見えるあのブルーシートはなに? 
まさか首塚・・いや首は柊の根本だもんね・・・って、
あの先にあって今は入れないってオチはなかろうな・・

と不安におののきながら進みます。

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ババーン! これが信長サマの首塚とされる大柊。すごい姿になってます。
柊は成長が遅くて、大物になるにはなかなか年月がかかるらしいです。
年取ると葉っぱの刺もなくなって丸くなるんだってさ。県指定の天然記念物。

ちなみにブルーシートかかってるのは宝物殿みたいなのの修築だったw

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本因坊の意を受け、原志摩守宗安が炎上する本能寺より持ち出した信長の首を
ここ西山本門寺に納めて首塚を築き、魔除けに柊植えたと伝わっているようです。

信長サマの亡骸は見つからず、日本史最大のミステリーと言われたりもしますが、
光秀に首をとられないように外に持ち出されたってのは自然なのかもしれないね~


後延ばしになっていた信長サマの首塚にやっとお参りできてワタクシ満足!




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| 武将の墓 | 12:30 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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天麟院の五郎八姫の霊廟

宮城県松島にある天麟院には五郎八姫の霊廟があります。

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天麟院と並びにある松島観光スポットとして有名な瑞巌寺、円通院と並んでますが
ひっそりとした佇まいです。五郎八姫の霊廟を拝めますが拝観料がないのでホッとしますw

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五郎八姫は伊達政宗と正室愛姫との間に生まれた長女で、結婚して15年経って
やっと生まれた子供でした。案内板には男名を付けると男子を授かることから
五郎八と名付けたとありますが、政宗が男の名前しか考えていなかったので
五郎八のまま読みだけ「いろは」にしたなんて説も聞いたことがあります。

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参道を登っていくと・・オーマイガーッツ! 修復中で全く見えないじゃないか!
と思ったけどシートのすき間があるのでちょいとのぞいてみちゃうことにします。 ※2014年時点

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霊廟に行き、すき間からシートの中をチラッとのぞくと上から声がして仰天!!
怒られるのかと思ったら「見学?入って見たらいいよ」と気さくなオジサン。

改修ではなく霊廟自体の建て替えたそうで、オジサンは漆を塗っているそうです。
当初は黒の予定だったそうですが住職さんの好みでこの色になったのだとか。
ここまで何度も塗り重ねて・・漆って乾燥した時期の方が乾きにくいんだって。
まだ壁の部分もむき出しだけど漆が終わったら白漆喰でキレイになるそうです。

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建て替え中のこのタイミングだからこそ扉あけっぴろげで中が丸見え!
普通の時だったら多分、扉は閉まっていてちゃんと墓石見えないと思うの。

五郎八姫は13才で家康の六男、高田61万石の松平忠輝の正室となりますが、
元和2年(1616)、大阪夏の陣の遅参などを理由に忠輝は改易されてしまいます。

五郎八姫は忠輝と強制的に離縁させられ、20代前半から68歳で亡くなるまで生涯
独身を貫き、仙台で暮らしました。五郎八姫さんはとても聡明な人だったそうで、
政宗は男に生まれなかったことを惜しんだなんて話も残っています。

こちらの霊廟は元は伊達家4代藩主綱村によって創建されたようですが
五郎八姫はキリシタン。リアルにお骨があるようだけど納得してるかなw


天麟院の並びには政宗の正室(五郎八姫の生母)愛姫の霊廟がある瑞巌寺、
政宗の孫 光宗の霊廟がある円通院もあります。セットでどうぞ。





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| 武将の墓 | 13:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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愛宕山の片倉家廟所

宮城県白石市の愛宕山には片倉家廟所があります。

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白石城からほど近く。あたご茶屋というお店を目指してやってきました。
だいたいどの辺か目星をつけて走ればデカい看板があるので見逃さないw

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入り口を登って行くと駐車場があります。ここに止めて片倉家廟所とか、
喜多さんや田村清顕の墓なぞを歩いて廻るわけです。

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駐車場には案内図もあるので安心。実際歩いたところ距離は大してないけど、
登っておりて・・で体力ないワタクシにはちと難儀w せっかくなんで頑張ります。

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しばらく坂を上がっていくと案内が出てきて平坦に。
愛宕山は一般の方の墓地にもなっているようでお墓を抜けていく感じです。

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遠かったらどうしよう~と心身ともに疲れる間もなく、片倉家歴代廟所に到着!
杉の老木に囲まれてひっそりな佇まい。まるで結界が張られているような雰囲気よ。

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片倉景綱や二代目の重長はさきほどお参りしてきた傑山寺に葬られましたが、
三代景長が白石城の見える愛宕山を選んで廟所とし、分骨して改葬したんだそうです。

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廟所の横には景綱に仕えて殉死した6名のお墓もありました。改葬した廟所でも
景綱の側にわざわざ殉死者の墓も建ててやるっていう片倉家の気持ちがいいよね。
景綱はあの世に行っても城を見守り、慕う家臣は死してなお傍らに寄り添う・・

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初代景綱から10代宗景までの城主が祀られています。伊達吉村公息女というのは
七代村廉の夫人。主家である伊達家の姫様なのでここに一緒に葬られたのだとか。
景綱さんの左右に並ぶ歴代藩主の墓標・・・阿弥陀如来坐像並びすぎこわいしw
廟内には石畳が敷かれています。周りの玉垣は花崗岩なのだそうですよ。

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こちらがセンター初代景綱さんのお墓。ここの墓標は阿弥陀如来坐像です。
枯れた杉の葉、ひからびた花・・定期的にお手入れされてるんじゃなさそうな。


せっかく来たら喜多さん、田村さんはもちろん、
傑山寺の片倉小十郎の一本杉墓標もお見逃しなく。 

 writen by あも 武将の銅像と墓参り~http://amoyoroshi.blog.fc2.com/


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| 武将の墓 | 12:25 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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