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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

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光禅寺の最上義光の墓

山形県山形市の光禅寺には、最上義光の墓があります。

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最上義光が菩提寺にするため建てたお寺で、当時は広大な寺領を有し、
義光の御霊屋もありましたが、明治の大火で全て焼失してしまったそうです。


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最上三代~義光、嗣子家親、嫡孫義俊の三代のお墓があります。
場所は本堂の左手奥にある墓域の中です。すぐわかります。


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こちらが義光のお墓。明治の大火で焼失した後、有志の寄付を募って、
大正2年(1913)に「義光公没後300年」の記念として復興されたものです。
お墓の隣には殉死した4人の家臣の墓碑も並んでいました。

陰謀家でダーティな感じに描かれることの多い最上義光ですが、
実は家臣からも民からも慕われた人で、今でも山形県民のヒーロー!


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藩祖義光と二代家親、三代義俊の法号と享年が書かれています。


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義光のお墓のとなりに並んでいるのが奥が家規、中が義俊の墓碑。
二代は早死に、三代はアレレすぎて取りつぶし、と色々残念なのがツライとこです。



近くには、義光の嫡男 義康のお墓がある常念寺や駒姫の眠る専称寺もあります。

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| 武将の墓 | 14:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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正源寺にて鮭延秀綱の墓参り

山形県最上郡真室川にある正源寺には、鮭延秀綱のお墓があります。

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お寺は線路を超えたところに。タイミングが良ければ奥羽本線が見られますよ。
鮭延さんのお墓は総門をくぐらず、左手の墓域を進んだ奥の方です。


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境内の外だし案内板とかも特にないので、下調べしてなかったら見つからなかったかも。
お墓の前までくると標柱が立っているので一安心です。


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横手城主小野寺氏に仕えた佐々木貞綱の子として生まれた鮭延さんは
庄内大宝寺氏の侵攻を受けた際に捕らえられ、幼少期は小姓として仕え、
その後、大宝寺から解放されると、家督を継いで鮭延城主となりました。

天正9年(1580)、出羽を平定した最上義光の侵攻を受けると激しく抵抗するものの、
調略による切り崩しを受けて降伏。本領を安堵されて最上氏に仕えると、
最上領北方の要として、旧主小野寺氏攻略など交渉や戦の両面で活躍しました。


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慶長5年(1600)、関ヶ原に呼応して起きた慶長出羽合戦では直江兼続率いる
上杉軍2万に包囲された長谷堂城へ救援に駆けつけ、
城将志村光安を助け、獅子奮迅の働きで上杉軍の本陣に迫る活躍をします。

関ヶ原の後、最上義光がこの戦功により57万石の大大名になると、
秀綱も真室城1万1500石を与えられ、重臣として最上家を支えていきます。
しかし義光の跡を継いだ家規が36歳で亡くなると、家督をめぐって家中は対立。
お家騒動に発展し、最上家が改易されると、秀綱は老中土井利勝の預かりとなりました。


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土井利勝預かりになった鮭延さんには、乞食をしてでも殿を養いたいって家臣が
20人もついてきて、晩年までずっと支え続けたんですってよ。
かなり貧しい時もあったみたいだけど、肩寄せあって清く正しく暮らしていたそう。


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「正保3年6月古河卒去」の文字が。鮭延さんが亡くなったのは茨城県古河市。

鮭延さんは後に土井利勝に5000石で召し抱えられるんだけど、支えてくれた家臣に
全部分け与え、自分は家臣の家を1日置きに転々として暮らす晩年を送りました。

鮭延さんは生年がハッキリしないんだけど、おそらく享年は80代かと。
家臣たちは大いに悲しみ、鮭延寺(けいえんじ)にお堂を建て菩提を弔ったそうな。

武勇に秀でつつ、温厚篤実で家臣に慕われた鮭延さん。ステキ武将すぎ。

古河市の鮭延寺にも鮭延さんのお墓があるので、そっちもお参りにいかないとね。

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| 武将の銅像 | 16:03 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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真如寺の武田信興の墓

千葉県木更津市の真如寺には武田信興のお墓があります。


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武田信興さんは室町時代中期に下総を支配していた真里谷城の城主だった人。
武田信玄の甲斐武田氏と同じ一族なんです。もちろん家紋も同じ武田菱。



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真如寺はその武田信興さんが開基となった曹洞宗の歴史あるお寺。
お墓は裏山にあるそうなので、本堂の右手の方に進んでいきます。



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本堂の裏には池があり、すぐ裏山もありました(写真右手の部分)。
登り口から続いている道の奥へ進んでいきます。そんな時間かかりません。



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ありました~裏山には歴代住職の墓所もあるんだけど、単品なのが信興さんのお墓。
正月3日の寒い薄曇りの日なので、なんだか裏さみしい雰囲気増してます。



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階段はここなんだけど墓石の向きは逆なんですね・・・どうなってるんでしょ?

武田信興さんは甲斐武田から独立して、上総武田氏を興した武田信長の孫。

2代目を子の信高が継ぎ、3代目を継いだ信興が真里谷(まりやつ)と姓を改め、
真里谷武田氏の祖となり、真里谷城を本城として北条や里見と争いました。

勢力を築き、安定させた信興は子の信勝に家督を譲ると永正8年(1511)死去。

その後、信勝、信清と3代で最盛を極めるものの、4代目の世継ぎを巡って内争があったり、
北条に敗れたりして次第に勢力が衰え、北条に臣従するような形になっていたところ、
小田原征伐があり、北条方として攻められた真里谷城は落城。真里谷氏は滅亡しました。



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真里谷信興さんのお墓・・お正月飾りがあって普段から手入れされてる感じね。
一大勢力を築きながら消えてしまった真里谷氏・・全盛期を築いた信興さんの心やいかに。


信興さんがいた真里谷城はこの真如寺から4キロくらい。
木更津少年自然の家キヤンプ場ってのが城跡なので目指してセットでどうぞ!



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| 武将の墓 | 17:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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長浜市下多良にて大谷吉継の首塚

長浜市下多良には大谷吉継の首塚があります。

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場所は住宅街の入り口にある下多良神社の裏手に広がる広大な畑のど真ん中!
農道に大型車は入れないので車で行くなら神社にとめて案内板を見てゴー!です。


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関ヶ原で西軍として奮戦するも、小早川秀秋の裏切りによって敗北を悟った吉継は、
首を渡すまいと家臣、湯浅五助の解釈で自害。吉継の甥の僧、祐玄が首級を綿の袋に入れて
敦賀への逃亡の途上にこの地に埋め隠したと伝わり、地元の人が大切に守ってきたそうです。

奥にうっすら見えるのが石田三成が捕縛された伊吹山。
眺めているとフィールドの規模や空気感を感じられる気がします。


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案内板には平成23年って書いてあって、訪れる人が増えて整備されたようです。
義を重んじ、友情を貫いた吉継さんは、現在だって人気ある武将ですもんね。

関ヶ原の時には東軍に加わるつもりのところ、親友である三成に説得され、
無謀と知りながら西軍につき、それでも最期まで全力でその義を貫いてます。

病気で盲目な上、体も不自由だったので輿の上から指揮したっていうけど、
多勢を相手にしながら、大谷隊はめっちゃ強かったですよね・・・泣けますわ。


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覆屋の中には小さな五輪塔がありました。本当に首を埋めたとか埋めてないとか
そういうことはどうでもよく、偲ぶ人たちの気持ちが続いてるってとこが大事。


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ちなみにこちらが下多良神社。ワタクシはナビに出なくて一発でたどり着けず、
車で近隣を徘徊した後、ようやくたどりつきました。まぁワタクシだけだと思いますがw


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下多良神社についてしまえば、首塚への入り口には案内があるので安心!


前から気になっていたので、お参り出来てよかったです。


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| 武将の討死地 | 09:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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専称寺の駒姫の墓

山形県山形市の専称寺には最上義光の娘、駒姫の墓があります。

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専称寺は浄土真宗のお寺で、元は高擶(天童市)にあったものを
駒姫の菩提を弔うため義光公がこの地に移したそうんだそうです。


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駒姫は最上義光の二女。東国一の美しさといわれる美貌の持ち主だったことから
関白・豊臣秀次に側室にしたいと望まれ、15歳で上洛しました。

義光は何度も断ったようですが、秀次は時の権力者である秀吉の甥で関白。
しつこく求められて断り切れず、シブシブ駒姫を京へ上らせたと言います。


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駒姫のお墓は墓所のさらに奥まった場所にあって少し分かりづらいのですが、
境内にちょいちょい案内標が立っているので、見つけるのは難しくありません。


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こちらが駒姫さんのお墓。

駒姫が上洛して最上屋敷に入ると、ほどなく秀次は謀反の疑いで高野山へ追放。
秀吉の命で切腹させられ、さらに妻子までも連座で処刑を命じられます。

義光は娘の助命嘆願に奔走。正式な側室になる前ということで家康を始め、
諸大名からも同情と嘆願が上がったにも関わらず、助命はなりませんでした。

三条河原に引き出された女子供は、妻子や乳母も含めて30数人におよび、
駒姫は正式な側室でもないのに、11番目に処刑されたと伝わります。


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墓石の後ろにある小さな丸い石が、元のお墓なんだそうです。

罪をきる 阿弥陀の剣にかかる身の なにか五つの 障りあるべき

駒姫の辞世の句。「罪を着る」「罪を切る」ってかけてるんですよね。
美しいだけでなく、かしこくてしっかりした女性だったと思いますね。

何度も断ったついでに、あと1ヶ月か2ヶ月くらい粘ったり、
するする詐欺で上洛をのらりくらり先伸ばしてたらね・・・ホントに気の毒です。


近くには父、最上義光の墓がある光禅寺や、駒姫の兄、 義康の眠る常念寺もあります。
義光さんの素敵銅像がある山形城とセットでぜひ!





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| 武将の墓 | 15:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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