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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

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光禅寺の最上義光の墓

山形県山形市の光禅寺には、最上義光の墓があります。

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最上義光が菩提寺にするため建てたお寺で、当時は広大な寺領を有し、
義光の御霊屋もありましたが、明治の大火で全て焼失してしまったそうです。


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最上三代~義光、嗣子家親、嫡孫義俊の三代のお墓があります。
場所は本堂の左手奥にある墓域の中です。すぐわかります。


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こちらが義光のお墓。明治の大火で焼失した後、有志の寄付を募って、
大正2年(1913)に「義光公没後300年」の記念として復興されたものです。
お墓の隣には殉死した4人の家臣の墓碑も並んでいました。

陰謀家でダーティな感じに描かれることの多い最上義光ですが、
実は家臣からも民からも慕われた人で、今でも山形県民のヒーロー!


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藩祖義光と二代家親、三代義俊の法号と享年が書かれています。


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義光のお墓のとなりに並んでいるのが奥が家規、中が義俊の墓碑。
二代は早死に、三代はアレレすぎて取りつぶし、と色々残念なのがツライとこです。



近くには、義光の嫡男 義康のお墓がある常念寺や駒姫の眠る専称寺もあります。

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| 武将の墓 | 14:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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真如寺の武田信興の墓

千葉県木更津市の真如寺には武田信興のお墓があります。


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武田信興さんは室町時代中期に下総を支配していた真里谷城の城主だった人。
武田信玄の甲斐武田氏と同じ一族なんです。もちろん家紋も同じ武田菱。



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真如寺はその武田信興さんが開基となった曹洞宗の歴史あるお寺。
お墓は裏山にあるそうなので、本堂の右手の方に進んでいきます。



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本堂の裏には池があり、すぐ裏山もありました(写真右手の部分)。
登り口から続いている道の奥へ進んでいきます。そんな時間かかりません。



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ありました~裏山には歴代住職の墓所もあるんだけど、単品なのが信興さんのお墓。
正月3日の寒い薄曇りの日なので、なんだか裏さみしい雰囲気増してます。



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階段はここなんだけど墓石の向きは逆なんですね・・・どうなってるんでしょ?

武田信興さんは甲斐武田から独立して、上総武田氏を興した武田信長の孫。

2代目を子の信高が継ぎ、3代目を継いだ信興が真里谷(まりやつ)と姓を改め、
真里谷武田氏の祖となり、真里谷城を本城として北条や里見と争いました。

勢力を築き、安定させた信興は子の信勝に家督を譲ると永正8年(1511)死去。

その後、信勝、信清と3代で最盛を極めるものの、4代目の世継ぎを巡って内争があったり、
北条に敗れたりして次第に勢力が衰え、北条に臣従するような形になっていたところ、
小田原征伐があり、北条方として攻められた真里谷城は落城。真里谷氏は滅亡しました。



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真里谷信興さんのお墓・・お正月飾りがあって普段から手入れされてる感じね。
一大勢力を築きながら消えてしまった真里谷氏・・全盛期を築いた信興さんの心やいかに。


信興さんがいた真里谷城はこの真如寺から4キロくらい。
木更津少年自然の家キヤンプ場ってのが城跡なので目指してセットでどうぞ!



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| 武将の墓 | 17:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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専称寺の駒姫の墓

山形県山形市の専称寺には最上義光の娘、駒姫の墓があります。

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専称寺は浄土真宗のお寺で、元は高擶(天童市)にあったものを
駒姫の菩提を弔うため義光公がこの地に移したそうんだそうです。


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駒姫は最上義光の二女。東国一の美しさといわれる美貌の持ち主だったことから
関白・豊臣秀次に側室にしたいと望まれ、15歳で上洛しました。

義光は何度も断ったようですが、秀次は時の権力者である秀吉の甥で関白。
しつこく求められて断り切れず、シブシブ駒姫を京へ上らせたと言います。


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駒姫のお墓は墓所のさらに奥まった場所にあって少し分かりづらいのですが、
境内にちょいちょい案内標が立っているので、見つけるのは難しくありません。


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こちらが駒姫さんのお墓。

駒姫が上洛して最上屋敷に入ると、ほどなく秀次は謀反の疑いで高野山へ追放。
秀吉の命で切腹させられ、さらに妻子までも連座で処刑を命じられます。

義光は娘の助命嘆願に奔走。正式な側室になる前ということで家康を始め、
諸大名からも同情と嘆願が上がったにも関わらず、助命はなりませんでした。

三条河原に引き出された女子供は、妻子や乳母も含めて30数人におよび、
駒姫は正式な側室でもないのに、11番目に処刑されたと伝わります。


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墓石の後ろにある小さな丸い石が、元のお墓なんだそうです。

罪をきる 阿弥陀の剣にかかる身の なにか五つの 障りあるべき

駒姫の辞世の句。「罪を着る」「罪を切る」ってかけてるんですよね。
美しいだけでなく、かしこくてしっかりした女性だったと思いますね。

何度も断ったついでに、あと1ヶ月か2ヶ月くらい粘ったり、
するする詐欺で上洛をのらりくらり先伸ばしてたらね・・・ホントに気の毒です。


近くには父、最上義光の墓がある光禅寺や、駒姫の兄、 義康の眠る常念寺もあります。
義光さんの素敵銅像がある山形城とセットでぜひ!





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| 武将の墓 | 15:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本宗寺の石川数正の墓

愛知県岡崎市の本宗寺には石川数正のお墓があります。

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本宗寺は薬医門の佇まいが重々しい浄土真宗本願寺派のお寺です。

蓮如上人が応仁 2年(1468)創建したお寺ですが、永禄 6年(1563)の
三河一向一揆で拠点になったことから、家康に徹底的に破壊された後、
家康の叔母、妙西尼の願いにより、現在の場所に再建されました。
妙西尼は家康の生母於大の方の姉で石川数正の母親。家康の叔母です。

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こちら本堂・・昭和43年に火災により本尊の阿弥陀如来像などとともに焼失し、
昭和48年に鉄筋コンクリートで再建されたものなんだそうです。違和感あるw

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本堂の左手にお墓発見!墓域の奥の方じゃなく分かりやすくて助かりました。
墓所に供養塔・・分かりやすいどころか、念入りに碑が立っています。

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こちらが石川数正と母の妙西尼のお墓。妙西尼の墓が正面に来てまして、
肝心の数正さんは右。数正さんのは後付けですね。間違いないですw

家康の従弟として子供の頃から小姓として従い、酒井忠次と共に家康を
支えていた数正でしたが、小牧長久手の戦の後、突然家康の元を出奔し、
秀吉に仕えてしまいます。本能寺の変後、秀吉側との交渉を任されてるうち、
秀吉に籠絡されたとか、あえて秀吉側について家康を支えるためだったとか・・
色んな説を聞きますが、理由ははっきり分かってないんですよね。

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数正さんは家康が関東移封された後、松本10万石に封され、息子の康長と共に
松本城や城下町を整備。文禄2年(1593)松本で亡くなりました。享年61歳。
墓所は松本の正行寺にありますが有名武将のお約束。生まれた所にも供養塔ね。

歴史を後から見ているワタクシに数正さんの立場や考えは図れないけど、
一廉の武将が何かしらの信念を持って決断したこと・・ただ静かに合掌。



岡崎は德川所縁の寺や家臣所縁の地も多いので色々セットで回れます。

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| 武将の墓 | 08:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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法泉寺の武田勝頼の墓

山梨県甲府市の法泉寺には武田勝頼のお墓があります。

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鐘楼のある山門は寛永14年(1637)建立、甲府市の指定文化財。


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墓所は本堂左手。案内があるので助かる。階段を登って先にあるようです。


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法泉寺殿武田勝頼公之墓の標柱と勝頼軍団戦死将士供養塔があります。

天目山で自刃した勝頼の首は信長の命で京の六条川にさらされますが、
不憫に思った法泉寺の快岳禅師が京に行き、首を譲り受けて甲斐に戻ります。
本能寺の変後、織田軍が撤退すると山桜を植えて勝頼を葬った・・という。


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法泉寺を勝頼の菩提寺と定めたのは本能寺の変後、甲斐を治めた家康。
武田領の民心をつかもうっていう腹黒い目的があったんでしょうねw


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隣には武田信武の墓も。信武は甲斐武田中興の祖と言われる人。
足利尊氏に従って甲斐守護になって・・勝頼からだと10代遡るのかな。


近くには大泉寺や東光寺、甲斐善光寺など武田史跡が目白押し。セットで!

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| 武将の墓 | 12:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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願成就院の北条時政の墓

静岡県韮山市の願成就院には北条時政の墓があります。

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文治5年(1189)、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立した真言宗のお寺。

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北条時政は北条政子のオヤジ。ワタクシは超嫌い。
だって大好きな御家人畠山重忠さんを殺した憎ーい奴なんですもの。

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頼朝の死後、2代頼家を暗殺して、有力御家人も失脚させて3代将軍を実朝にし、
執権として幕府の実権を握った挙句、後妻の牧の方にそそのかされて実朝を嫡し、
牧の方の娘婿、平賀朝雅を将軍にしようと画策して畠山さんも殺した○○ジジイよ。

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いい気になってた時政でしたが、平賀朝雅の将軍就任に反対する娘の政子、
息子義時によって出家させられ伊豆に追放され、生涯を終えました。

頼朝を担ぎ出すところまでは頑張ったけど、後生の悪いおっさんです。



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| 武将の墓 | 11:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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常勝寺の池田父子と森長可の墓

愛知県長久手市の常照寺には池田恒興と森長可のお墓があります。

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こじんまりしたお寺です。本堂の左の通路を進んで墓所に向かいます。

秀吉VS家康が戦った小牧長久手の戦いで壮絶な討死をした
秀吉方の武将、池田恒興と庄九郎、鬼武蔵の三武将のお墓があるのです。

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狭い通路から急にぽっかり広がった墓域を入ってすぐの左片隅にひっそりと。
開けた側には立派な墓石が並んでるけど、それに惑わされないようにw

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素朴すぎる手書きの案内が泣かせる。紀伊守は勝入の長男庄九郎のこと。
どれが誰のか墓石か分からないけど、書いてある順なのかね?
にしては大きさが逆な気もするけど、細かいことはまあいいかw

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小牧長久手の戦いはわちゃわちゃしてて何だかよくわからない戦だけど、
死にもの狂いで戦って散った秀吉方の三武将のシーンはやっぱり山場。
じっくり描いてる小説を読むと泣けちゃいますね。






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| 武将の墓 | 12:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大泉寺の武田信虎の墓

甲府市の大泉寺には武田信虎の墓があります。

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大泉寺は大永元年(1521)、信虎が天桂禅師を招いて開山した曹洞宗のお寺で、
法号「大泉寺殿泰雲存康大庵主」に因んで大泉寺とし菩提寺としたそうです。


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本堂左手の方に武田三代の御霊廟があります。
孫子の旗が武田ゆかりの地って感じを盛り上げてます。


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自分を追放した息子と家を滅ぼした孫と三代として並ぶ信虎の心はいかに?
でも何にせよ、戦国○○三代の中では1,2を争うインパクト


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霊廟の真裏にお墓があります。真ん中が信虎、右が信玄、左が勝頼だそうです。


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48歳で追放された後、一度も国に戻ることのなかった信虎は信玄の死後、
天正2年(1574)には子逍遥軒(信廉)が城代を務めていた高遠城に身を寄せ、
同年3月5日に病没しました。享年82歳。


葬儀はこの大泉寺で行われました。


暴君だったとか信晴(信玄)を廃嫡しようとしたとか色々言われているけど、
甲斐を統一して領土を広げたイケイケですからやっぱすごい武将ではありますよね。


近くには武田勝頼のお墓がある法泉寺や武田義信の眠る東光寺など
武田めぐりマストなお寺がわんさとあります。是非セットで!


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| 武将の墓 | 08:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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東光寺の諏訪頼重と武田義信の墓

甲府市の東光寺には諏訪頼重と武田義信の墓があります。

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東光寺は臨済宗に帰依した武田信玄が開いた「甲府五山」の一つに数えられる名刹。


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お二方のお墓は本堂裏を上がった墓域の中にあります。


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階段を上ったところに、武田義信、諏訪頼重と二人のお墓が並んでいました。
前にスペースなさ過ぎて、二つ並んで正面からの写真が撮れなかったけど(*°∀°)=3


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まずは手前にある武田信玄の長男、義信さんのお墓からお参りします。

義信は信玄と正室三条夫人との間に生まれた長男。武田の跡取りとして養育されましたが、
家臣とともに信玄の追放を画策するも露見し、ここ東光寺に幽閉されました。

2年後の永禄10年(1567)10月、死去。享年30歳。死因や真相はわからないのだとか。


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諏訪頼重は信濃諏訪郡の領主。武田信虎の娘禰々(ねね)を正室に迎えて
武田との関係を強化していましたが、天文11年(1542)、父信虎を追放して方針転換した
晴信(信玄)によって桑原城を囲まれます。頼重は抵抗するものの、開城すれば
兵を引くという和議を受け降伏。甲州に送られ、東光寺で自害させられました。


井沢元彦の野望がこの辺のところ面白かった!



甲府市内だけに周辺には武田関連の濃い史跡が目白押し! 計画的にセットで見てください。


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| 武将の墓 | 11:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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逍遥院の武田信廉の墓

甲府市の逍遥院には武田信廉の墓があります。

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住宅街に溶け込んだ山門。車でうっかり通り過ぎそうになってしまいました。


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こちらのお寺では案内とかもなく、事前に調べてなかったら見つけられなかったかもな。
場所は本堂左に行ってすぐ。正確には墓じゃなく祠なんだって。


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武田信廉は信玄の末弟で武田二十四将の一人。
信玄と姿が似ていたことから影武者を務めていたとも言われます。

勝頼の代には飯田城代や大島城代などの重要拠点を任され、
天正3年(1575)には長篠合戦にも参陣。一族の重鎮として支えましたが、
天正10年(1582)、織田徳川による甲州侵攻が始まると甲斐に退却するも、
後に織田軍にとらえられ、甲斐府中で処刑されました。享年51歳。


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絵画が得意な人で「絹本著色武田信虎像」や「武田信虎夫人像」など
現存するいくつかは、国重要文化財に指定されてるほどの腕前。

信玄の死後、追放されていた父信虎を引き取って世話したというし、
ヘタレじゃないにしても武人には向かない優しい人だったんだろうなぁ。




近くには甲斐善光寺や東光寺など武田史跡が目白押しです。セットで是非!


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| 武将の墓 | 15:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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興徳寺の蒲生氏郷のお墓

会津若松市の興徳寺には蒲生氏郷のお墓があります。

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興徳寺は大通りを入った商店街の奥にあって少々分かりづらかったよ。

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境内は狭いので奥に進めば目指すところはすぐ見つかります。

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利休七哲の一人だった氏郷さんの辞世の句は評価が高いんだって。

~限りあれば 吹かねど花は散るものを 心短き春の山風~

花はいつか散るのに春の山風はこんなにも短気に散らすものよ・・・って(泣)

悟りの境地だよ。40歳で無念だったろうけど、そういうの全然におわない。

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墓所に行きます。右側には氏郷公顕彰碑やお墓の説明、肖像画なんかもあります。

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氏郷死去の翌年、子の秀行が建塔した五輪塔で遺髪が納められています

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司馬遼太郎の「街道をゆく」で「姿が実にいい」と書かれている五輪塔。
当時は霊屋もあったんだけど、戊辰戦争で燃えちゃったんだって・・泣

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お墓の後ろでは氏郷が建てた頃の鶴ヶ城七層天守も見られます。


市内には子の秀行、孫の忠郷のお墓もあります。蒲生三代セットで!



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| 武将の墓 | 10:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大輪寺にて甘利昌忠の墓参り

i韮崎市には武田家臣甘利昌忠のお墓があります。

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せっかく韮崎武田めぐりに来たなら大輪寺にも立ち寄らないとね。

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甘利昌忠のお墓は本堂左手奥を入った正面墓域内にあります。

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センターのは昌忠の三男で父を開基として大輪寺を創建した慶受院日国聖人の墓碑。

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甘利昌忠は上田原合戦で討死した甘利虎泰の嫡男で13才で
虎泰の跡を継いで武田信玄に仕え、譜代家老衆として活躍しました。

昌忠も猛将と言われた父と同じくなかなかのツワモノ。
その豪傑ぶりを今に伝える「馬糞汁」というエピソード。

武蔵松山城攻めの際、腹を撃たれて深手を負った家臣に鉄砲傷に効くと
いわれる芦毛馬の糞をとかした汁を飲ませようとした昌忠。
家臣に「そんなの飲むなら死んだ方がまし!」と拒否られると
「生き延びて主君に仕えるのが家臣の務めじゃないか!」と叱り飛ばして
汁を二口飲んでみせ「うまし!」。それを見た家臣がしぶしぶ汁を飲むと
痛みが引いて命を取り留めたそうな・・・ちょw どうかしてるw

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部下からも信玄からの信頼も厚かったという武田有力家臣なのに没年不詳。
落馬により不慮の死を遂げたと言われていますが解せないのよね、なんか。

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大輪寺とその周辺は甘利氏の居館跡とも言われています。


韮崎市で武田めぐりをするならこちらもぜひ訪れてください。
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| 武将の墓 | 12:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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自元寺にて馬場信春の墓参り

山梨県北杜市の自元寺には馬場信春のお墓があります。

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まずは旧馬場屋敷から移築してきたという門から。
当時、夫人が暮らしていたことから夫人の紋である笹りんどうがついてます。

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自元寺は元亀元年(1570)に建立された曹洞宗のお寺。馬場美濃守信春開基。

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馬場信春のお墓は本堂の左手の方へ進んでいったところにあります。

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天正3年(1575)5月、長篠の戦いで討死した馬場さんの形見が届けられ、
お墓を建てて菩提寺としました。ご位牌も安置されているそうです。

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これまでいくつかある馬場さんのお墓へお参りしているワタクシですが、
自元寺は墓だけでなく馬場さん自身が建立したお寺ってことに加えて、
近くには馬場を名乗る前、教来石屋敷跡もあるのでより思い入れます。

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少し車を走らせると教来石屋敷跡。ビューファーム鳥原を目指すとよいですね。

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この館跡は発掘調査で教来石氏が馬場を名のるまでのものと判ったそうです。


馬場さんのお墓参りほぼコンプリート。気が済みました。


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| 武将の墓 | 15:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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龍岸寺にて真田信尹の墓参り

山梨県北杜市の龍岸寺には真田信尹のお墓があります。

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ちょっとわかりづらいところで迷った末の到着。静かな里の中にあるお寺です。

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信尹のお墓は本堂の左手裏の墓域。真田丸が始まって案内がついたようです。

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信尹さんのお墓は一番右奥。お花が活けられているので分かりやすい。
信尹夫妻(正室は馬場信春の娘)幸政、幸信の三代が眠っています。

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真田信尹は兄昌幸と共に武田信玄に仕えましたが、信玄の命で加津野家を継ぎ、
加津野市右衛門を名乗って勝頼の近侍として活躍しました。

天正10年、武田家が滅亡後は真田姓に戻り、信尹を名乗って徳川に仕えます。
関ヶ原、大阪の陣などの戦功により甲斐で4千石を与えられ、
知行地の大蔵村に居住し、寛永9年(1632年)5月、86歳で死去しました。

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真田丸効果でものすごく訪問する方が増えたそうで前日も団体さんがバスで。
ワタクシが訪れる少し前も年配のグループがお参りに来ていたそうです。

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こちらのお寺の奥様が本当にとても素敵な方で、声をかけてくださったので
信尹のことはもちろん、真田丸で信尹を演じる栗原英雄さんが訪れていることなど
気さくに色々とお伺いしました。詳細は興味があれば本家ブログでご紹介してますので・・


大河って(私は見ないけど)その時ばっかり人がこぞって訪れてるけど
元から観光地としてメジャーとかじゃない限り、終るとそれっきりとかも多い。
今回は真田丸放映中のGW中だったけど人がいないタイミングでよかったです。



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願成寺にて武田信義の墓参り

山梨県韮崎市には武田の祖、武田信義のお墓があります。

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武田初代当主信義さん菩提寺のこちらが願成寺。韮崎武田めぐりマスト!

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山門入ったところにある武田家家臣招魂の碑。武田のルーツだから大事な演出。

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廟所は本堂の左手奥でわかりやすい。
「武田信義之墓 山梨縣」と書かれた立派な石柱と綺麗な説明版があります。

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撮り忘れたけど右手の石灯籠隣には「信義公八百回忌之塔」があるからお見逃しなく。

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中には入れないので、ここからガン見したり、手を合わせたりしますよ。

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真ん中がもちろん信義さんの。向かって左が夫人、右が乳母姫のお墓。
鎌倉時代初期の塔形として完全に近い形で資料的にも貴重なものなんだって。

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こちらは武田氏累代の廟所。新羅三郎義光からの義清、清光、そして4代信義。
それから代々続いて19代信玄、勝頼、信勝で滅亡しますね・・・・つらっ。

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こちらは武田氏初代信義さんから数えた数字でかかれていました。

武田めぐりのマストです。



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医王寺の山本勘助の供養塔

富士宮市の医王寺には山本勘助のお墓があります。

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医王寺は奈良時代に創建されたといわれる古いお寺で戦国期に真言宗から浄土宗に改宗。
幼稚園も併設されている現在、古刹なのになんだかほのぼのした感じです。
山門には柵があって、ちびっこが出ちゃうからちゃんと閉めなきゃいけないのよw

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本堂の右手裏に進むと「山本勘助供養塔」の案内が。コレ本当に助かるのよ!!
大河ドラマ「風林火山」の時は参拝者が多かったようだけど人は全然いませんw

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真ん中あたりにある一番小さいのが勘助の墓・・というか供養塔。

山本勘助は富士市山本の吉野氏の三男として生まれたと伝わっていて、
吉野氏の分家である比奈山本氏が江戸時代に医王寺の檀家になったことから、
供養塔が建てられたようです。この反対側は山本氏のお墓が並んでました。

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分かりづらいんだけど供養塔には「鉄巌道一禅定門」と刻まれていました。

吉野氏の三男として生まれた源助は12歳で三河大林氏の養子となりましたが
大林氏に実子ができたため35歳の時に離縁し、名を「勘助」と改め、諸国へ旅に出ます。
今川への仕官を望むも叶わず、52歳で武田信玄に仕え百貫の知行取に出世しました。

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供養塔の並びには大河ドラマ「風林火山」の時に建てられた石碑とミニ勘助像が。
信玄の元で参謀として活躍した勘助でしたが、永禄4年(1561)川中島の戦いで
上杉軍に啄木鳥戦法の裏をかかれ、八幡原にて討死。享年69歳。


勘助は実在したとか否かって話もあるけど、ワタクシは断然実在派(?)ですw

諸国をめぐり兵法、剣法、天文学にも通じていたという勘助さん。
隻眼で足が不自由、風貌も冴えなかったといわれますが男は中身が大事!!
逆境をバネに、辛いことも耐え抜いて生きた強くかしこい人だと思います。



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西山本門寺の織田信長の首塚

静岡県富士宮市の西山本門寺には信長の首塚があります。

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西山本門寺は法華宗興門流のお寺で創建は康永2年(1343)。武田家や千葉原家、
水戸家出身の上人がいたり、徳川家の庇護や水尾天皇の姫常子内親王の帰依を受け
下馬下乗の禁礼を建てることを許されたりもした立派なお寺なんだそうですよ。

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庫裏の横に案内板がありました。裏か!裏にいけばいいんだね!!(前のめり)

本能寺で討死した信長サマの首を本因坊算砂(日海上人)がここに埋葬させた・・
西山本門寺ではそういう話(伝説?)になっていて、首塚が築かれたんです。

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進んでいくと見えるあのブルーシートはなに? 
まさか首塚・・いや首は柊の根本だもんね・・・って、
あの先にあって今は入れないってオチはなかろうな・・

と不安におののきながら進みます。

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ババーン! これが信長サマの首塚とされる大柊。すごい姿になってます。
柊は成長が遅くて、大物になるにはなかなか年月がかかるらしいです。
年取ると葉っぱの刺もなくなって丸くなるんだってさ。県指定の天然記念物。

ちなみにブルーシートかかってるのは宝物殿みたいなのの修築だったw

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本因坊の意を受け、原志摩守宗安が炎上する本能寺より持ち出した信長の首を
ここ西山本門寺に納めて首塚を築き、魔除けに柊植えたと伝わっているようです。

信長サマの亡骸は見つからず、日本史最大のミステリーと言われたりもしますが、
光秀に首をとられないように外に持ち出されたってのは自然なのかもしれないね~


後延ばしになっていた信長サマの首塚にやっとお参りできてワタクシ満足!




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天麟院の五郎八姫の霊廟

宮城県松島にある天麟院には五郎八姫の霊廟があります。

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天麟院と並びにある松島観光スポットとして有名な瑞巌寺、円通院と並んでますが
ひっそりとした佇まいです。五郎八姫の霊廟を拝めますが拝観料がないのでホッとしますw

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五郎八姫は伊達政宗と正室愛姫との間に生まれた長女で、結婚して15年経って
やっと生まれた子供でした。案内板には男名を付けると男子を授かることから
五郎八と名付けたとありますが、政宗が男の名前しか考えていなかったので
五郎八のまま読みだけ「いろは」にしたなんて説も聞いたことがあります。

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参道を登っていくと・・オーマイガーッツ! 修復中で全く見えないじゃないか!
と思ったけどシートのすき間があるのでちょいとのぞいてみちゃうことにします。 ※2014年時点

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霊廟に行き、すき間からシートの中をチラッとのぞくと上から声がして仰天!!
怒られるのかと思ったら「見学?入って見たらいいよ」と気さくなオジサン。

改修ではなく霊廟自体の建て替えたそうで、オジサンは漆を塗っているそうです。
当初は黒の予定だったそうですが住職さんの好みでこの色になったのだとか。
ここまで何度も塗り重ねて・・漆って乾燥した時期の方が乾きにくいんだって。
まだ壁の部分もむき出しだけど漆が終わったら白漆喰でキレイになるそうです。

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建て替え中のこのタイミングだからこそ扉あけっぴろげで中が丸見え!
普通の時だったら多分、扉は閉まっていてちゃんと墓石見えないと思うの。

五郎八姫は13才で家康の六男、高田61万石の松平忠輝の正室となりますが、
元和2年(1616)、大阪夏の陣の遅参などを理由に忠輝は改易されてしまいます。

五郎八姫は忠輝と強制的に離縁させられ、20代前半から68歳で亡くなるまで生涯
独身を貫き、仙台で暮らしました。五郎八姫さんはとても聡明な人だったそうで、
政宗は男に生まれなかったことを惜しんだなんて話も残っています。

こちらの霊廟は元は伊達家4代藩主綱村によって創建されたようですが
五郎八姫はキリシタン。リアルにお骨があるようだけど納得してるかなw


天麟院の並びには政宗の正室(五郎八姫の生母)愛姫の霊廟がある瑞巌寺、
政宗の孫 光宗の霊廟がある円通院もあります。セットでどうぞ。





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| 武将の墓 | 13:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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愛宕山の片倉家廟所

宮城県白石市の愛宕山には片倉家廟所があります。

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白石城からほど近く。あたご茶屋というお店を目指してやってきました。
だいたいどの辺か目星をつけて走ればデカい看板があるので見逃さないw

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入り口を登って行くと駐車場があります。ここに止めて片倉家廟所とか、
喜多さんや田村清顕の墓なぞを歩いて廻るわけです。

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駐車場には案内図もあるので安心。実際歩いたところ距離は大してないけど、
登っておりて・・で体力ないワタクシにはちと難儀w せっかくなんで頑張ります。

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しばらく坂を上がっていくと案内が出てきて平坦に。
愛宕山は一般の方の墓地にもなっているようでお墓を抜けていく感じです。

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遠かったらどうしよう~と心身ともに疲れる間もなく、片倉家歴代廟所に到着!
杉の老木に囲まれてひっそりな佇まい。まるで結界が張られているような雰囲気よ。

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片倉景綱や二代目の重長はさきほどお参りしてきた傑山寺に葬られましたが、
三代景長が白石城の見える愛宕山を選んで廟所とし、分骨して改葬したんだそうです。

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廟所の横には景綱に仕えて殉死した6名のお墓もありました。改葬した廟所でも
景綱の側にわざわざ殉死者の墓も建ててやるっていう片倉家の気持ちがいいよね。
景綱はあの世に行っても城を見守り、慕う家臣は死してなお傍らに寄り添う・・

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初代景綱から10代宗景までの城主が祀られています。伊達吉村公息女というのは
七代村廉の夫人。主家である伊達家の姫様なのでここに一緒に葬られたのだとか。
景綱さんの左右に並ぶ歴代藩主の墓標・・・阿弥陀如来坐像並びすぎこわいしw
廟内には石畳が敷かれています。周りの玉垣は花崗岩なのだそうですよ。

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こちらがセンター初代景綱さんのお墓。ここの墓標は阿弥陀如来坐像です。
枯れた杉の葉、ひからびた花・・定期的にお手入れされてるんじゃなさそうな。


せっかく来たら喜多さん、田村さんはもちろん、
傑山寺の片倉小十郎の一本杉墓標もお見逃しなく。 

 writen by あも 武将の銅像と墓参り~http://amoyoroshi.blog.fc2.com/


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| 武将の墓 | 12:25 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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瑞巌寺の伊達政宗正室愛姫の墓

宮城県松島の瑞巌寺には伊達政宗の正室愛姫の廟所があります。

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松島の目抜き通りの喧騒と打って代わり、案外静かです。
拝観料が700円とお高いので価値観ない人は素通りしています。

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平成の大修復をやってるようです。平成20年から平成30年までΣ(゚Д゚)!
本堂自体の拝観はできず、御本尊や政宗の位牌は仮本堂に移されているみたい。

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本堂が観られないのでいきなり庫裡。庫裡は禅宗寺院の台所にあたる建物。
大屋根の上に煙出しが乗っているのが見えます。遠めに見ても巨大な庫裡です。

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庫裡を抜けてグルグル回り仮本堂になってる大書院にやってきました。
お! なんとこんな間近で、しかも全部横並びで一度に見られるとは!!
三代開山木像、その奥が御本尊。そしてその奥が政宗、2代忠宗の位牌。
3代綱宗以降の位牌は別室にギッシリ並んでましたw 早死にする人が多い伊達家です。

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こちらが政宗さんの位牌。「瑞巌寺殿前黄門貞山利公大居士」と書かれてます。
瑞巌寺を建立した功績によって名づけられました。黄門は中納言の中国名。
大居士の後には「神儀」とあって、大名への位号で神と同義なんですって。

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政宗さんの正室、愛姫の御霊屋。万治3年(1660)に3代藩主綱宗によって造営され、
平成18年(2006)から3年かけて復元。創建当初の豪華絢爛な形姿が甦りました。

愛姫は三春城主田村清顕の娘で、政略結婚により12歳の時に政宗に嫁いで以来、
57年、政宗に寄り添った才色兼備の夫人。後に松平忠輝に嫁いだ五郎八姫や
2代忠宗を産んでいます。愛姫は政宗の死後、落飾して陽徳院を称し、
70歳で亡くなるまで17年間、夫政宗の菩提を弔ったそうです。

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総黒漆塗りに金、極彩色の装飾・・失われていた飾り金具も復元されているそうで、
当時もこんな豪華さだったと思うとすごい!お孫ちゃんの綱宗君ガンバったのねw
随所に田村家の家紋である三つ巴が施されているのも気が利いてると思いました。


瑞巌寺の並びには天麟院、円通院と見どころが並びます。セットでぜひ。



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| 武将の墓 | 09:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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革秀寺の津軽為信の霊屋

青森県弘前市の革秀寺には津軽為信の廟所があります。

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革秀寺は曹洞宗のお寺で津軽藩の菩提寺。慶長12年、2代藩主津軽信枚創建。
観光エリアから少し離れているのに、人が結構いたのにはびっくり。

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こちらが本堂。全国でも珍しい簡素な萱葺きの方丈形式で国重文。

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本堂の左手にある津軽為信霊屋は事前申し込みをしないと入れません。
ワタクシはもちろん申込なんかしてないので・・土手によじ登ることにしますw

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柵沿いに土手みたいなところをよじ登り、霊屋の正面にたどり着きました。
が・・うーん見えづらい! 申込制にする必要あるのかな?と首をかしげます。

元は南部氏に属していた為信さんでしたが、南部晴政死去による跡目争いで南部氏が
衰えたのを機に、謀略を持って一大勢力を築き、大浦為信から津軽為信に改めました。

為信さんは政治感覚が優れていたんでしょうね。勢力を築いた後は秀吉を取りまく
中央の大名とも親交を持ち、小田原攻めの時にもイチ早く参陣して秀吉に謁見し、
所領を安堵されました。関ヶ原では秀吉の小姓をしていた嫡男を西軍につかせて
自身は東軍につき、どちらにしろ家名を残す真田と同じ策でしぶとく生き残りました。

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土手の上をおどおどしながら少し横っちょの方に移動すると少し、
やっと少しまともに極彩色の霊屋の姿が見えました・・でも遠っ!

慶長7年(1602)、為信さんは病気の嫡男信建を見舞う為、京に入って死去。
享年58歳。(信建は父信為さんの到着を待たずに病死)

2代津軽信枚によって建てられた当時は質素な作りだったようですが、
文化年間の修理によって現在の極彩色な霊屋になったそうです。


予約して中に入れてもらいたかったけど行くのが盆の最中だったのでね。
まぁ何とか見られたので良しとしましょうw


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| 武将の墓 | 12:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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瑞鳳殿の伊達政宗の廟所

宮城県仙台市の瑞鳳殿には伊達政宗の廟所があります。

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この日は残念ながらなかなかの雨で、しょぼくれた写真が残念なんですが。

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入場券買って進むと、まずは伊達政宗の霊屋「瑞鳳殿」の入口が見えてきます。
左奥に見えるのが副葬品やら何やら貴重なものが見られる資料館。
写真は撮れませんが、なかなか面白いものが見られますよw

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瑞鳳殿は嘉永13年(1636)5月24日、江戸桜田屋敷で亡くなった伊達政宗の霊屋です。

政宗の遺命で翌年この地に造営されたもので、桃山様式の豪華絢爛な廟建築として
昭和6年に国宝に指定されましたが、昭和20年の空襲で惜しくも焼失してしまいます。
現在の建物は昭和54年に再建されたもので、防災面を考え鉄筋コンクリートなんだって。

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霊屋の下には墓室があって、再建する時に調査をしたら政宗の遺骨は完全な形で
発見されたそうです。政宗さんは身長159.4cm、血液型はB型なんだって!
当時の平均からすると標準身長。でもB型ってのはなんか分かる気がするー!!

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霊屋の隣には殉死した20人の宝篋印塔が並んでいます。江戸で亡くなった政宗が
この地に埋葬された後、切腹したのだとか。主従は3世・・いや~すごいねw
ちなみに許可を得ず勝手に切腹しても殉死者としては扱われないそうですよ。

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こちらは二代伊達忠宗の霊屋「感仙殿」と三代伊達綱宗の霊屋「善応殿」です。
門をくぐると二代、三代の霊屋は左右に並んでます。こちらは向かって右の感仙殿。
政宗のような龍頭瓦は載ってないです。こちらも戦災で焼け昭和60年再建されたました。
善応殿側から感仙殿。こちらも再建されたものですが善応殿は資料が乏しくて
綱宗公が好んで描かれた「鳳凰」と「牡丹」が装飾に採用されたんだそうな。


いやぁ・・・しかし雨で残念過ぎた。


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| 武将の墓 | 15:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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西念寺の仙石秀久の墓

長野県佐久市の西念寺には仙石秀久の墓があります。

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西念寺は永禄3年(1560)に建てられた信玄開基の浄土宗のお寺。
こちらにはゴンベ・・もとい仙石秀久のお墓があります。
正直、ゴンベはワタクシ的に残念すぎて全く萌えない武将ですw

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ゴンベのお墓は本堂の左手の方にあります。さくっと行ってみましょう。

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こちらがゴンベこと仙石秀久のお墓。自分が小諸を治めている時から庇護して
菩提寺と決めただけに、鴻巣にある勝願寺よりもかなり立派です。

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仙石秀久は豊臣最古参の家臣で淡路洲本5万石、讃岐高松10万石と出世しますが、
九州攻めの際、本隊到着を待てという秀吉の命に従わず、長宗我部親子や
十河存保の反対を押し切って勝手に先発隊だけでの出撃を決めます。
が結果、戸次川の戦いで長宗我部信親、十河存保は討死、島津に大敗します。

この時、ゴンベはさっさと、しかも無断で四国に逃げ帰ってしまったため
怒った秀吉に所領没収の上、高野山に追放されてしまいました。

が、天正18年(1590)小田原征伐が始まると浪人を集め家康の後押しを受け
陣借り参戦し、早川口攻略の功により大名に復活。信州小諸5万石を賜り、
藩主として小諸城や城下町、街道を整備しました。

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宝篋印塔ちょっと傾いちゃってますけど・・隣りはゴンベの弟、政直の五輪塔。
政直は乱心してこのお寺に蟄居させられ、そのまま亡くなったらしいです。

秀久は慶長19年(1614)、江戸から小諸へ帰る途中の武州鴻巣で病没し、
上田の本廟やここ西念寺、願勝寺(分骨)などに葬られました。

円覚院殿宝誉道樹大禅定門。享年63才。


近く(同じ岩村田宿)には信玄のお墓がある龍雲寺があります。セットでどぞ。


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| 武将の墓 | 12:50 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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大雄寺の伊達成実の廟所

宮城県亘理の大雄寺には伊達成実の廟所があります。

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大雄寺(だいおうじ)は曹洞宗のお寺で亘理伊達家の菩提寺です。
山門は文政年間に建てられたもので、亘理町の指定文化財なんだとか。
仁王さんもいる八脚門の立派なもの。寒いのでチラ見で進みます。

慶長7年(1602)亘理に入った伊達成実が福島にあった陽林寺を亘理城下へ移し
雄山寺としたのが始まりなのだとか。1646年に79歳で成実が亡くなるとここに葬られ、
以降、亘理伊達家代々の菩提寺となり、大雄寺に改名されたそうです。

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本堂の左手の方にある駐車場の奥に霊屋があります。
墓石と違って霊屋の場合はやっぱり近くには寄れない感じです。

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こじんまりした空間。柵に丸かぶりの正面にあるのが成実さんの霊屋です。

伊達成実さんは伊達政宗の従弟。幼名を時宗丸といい、政宗の父輝宗が
烏帽子親になって12歳の時に元服。藤五郎成実と名乗りました。

武勇の誉れ高く、政宗の父輝宗が二本松城主畠山義継に殺されたことに
端を発した人取橋の戦いでも成実はひとり踏みとどまって政宗が逃げるのを助け、
摺上原の戦いでも敵の側面を急襲して劣勢の味方を救うなどの武功を上げました。

そんなイケイケの成美さんの兜の前立ては百足。「決して後ろに退かない」
という百足の習性にあやかったものなんだってさ。さすが根性すわってる!

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柵から手を突っ込んで写真を撮ってみたけれど・・いい角度で手が入らないw
成実さんの霊屋は県指定重要文化財で、中には位牌と木像が安置されてるそうな。

秀吉に小田原への参陣を求められた時、成実さんは「今から行っても遅いから、
行って辱めを受けるより残って天下の優劣を争った方がいい、恐れることがあるか」
くらいのことを言って片倉景綱と対立したと言われます。結果、政宗は景綱の意見を
聞き入れて小田原に参陣、成実さんは黒川城の留守居・・大局を見る目は智の景綱
の方が上なんだろうけど、自分が正しいと思ったことはハッキリ言うってのは、
後戻りはしないという生き様の成実さんらしいのかな~なんて勝手に思います。

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殉死した方々の供養塔も一緒に。何人も追い腹切るのね。
あちこちで見るけどやっぱ殉死ってのはホントありえないわ・・

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こちら右が成実パパ実元さん、左にあるのが4代実氏さんの霊屋。
実氏さんは亘理伊達家中興の祖と言われた名君だったそうですよ。

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こちらが霊屋の隣にあるその他城主と奥方たちの墓所。怖いほどひっそり~
歴代廟所とかっていうのはどこに行っても独特の空気感があります。


11月初旬の東北。雨で寒いお参りでした。


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| 武将の墓 | 16:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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常在寺の斉藤道三の供養塔

岐阜城近くの常在寺には斉藤道三の供養塔があります。

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常在寺は日蓮宗のお寺で、斎藤道三以後三代の菩提寺となっています。
こちらには供養塔があるとのことで立ち寄ったんだけど、
国重文の斉藤道三・義龍父子の肖像画も所有しているんだそうです。

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住職さんがいらっしゃると拝観料を払って肖像を見られると聞いたのですが、
お盆の最中でしたからね・・人がいる気配がなく今回は供養塔だけ探すことに。

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本堂の右手の方に道三の供養塔を見つけました。ヤブ蚊がめっちゃすごいです!

斎藤道三は僧侶から還俗して油売りとなり、寺院のつてを頼って守護大名の土岐氏の重臣
長井長弘の家臣となり主君筋を次々と倒して美濃一国の大名にのし上がったと言われます。
美濃のマムシ、戦国の梟雄と呼ばれ、下剋上の代名詞みたいに言われる御仁です。

最近は実は油売りじゃなかったという説もあるようですが、どっちにしても
成りあがったのは間違いないので、ワタクシ的にはその辺はどうでもいい的なw

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道三は濃姫を信長に嫁がせた後、息子義龍に家督を譲るのですが義龍や家臣に
隠居させられ、やがて追放されてしまいます。道三が信長贔屓であったことや、
裏切りや謀略で手段を選ばずのし上がった事実に家臣の支持を失ったためとも、
また道三が弟を溺愛したため義龍自身の危機感が加わったことも原因と言われます。

父子は長良川の戦いで対峙しますが、追放された道三に味方する家臣は少なく、
道三は美濃一国譲り状を織田家に届けさせた後、義龍に討ち取られました。享年62歳。

常在寺は斉藤道三以降三代の菩提寺とのことですが、こちらにあるのは供養塔。
菩提寺なのになぜ墓じゃないのか分からないけど、ヤブ蚊がすごいのでサッと合掌w

この後は墓碑があるという道三塚に向かいました。
常在寺からは離れていますがセットで見るのがおすすめです!



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| 武将の墓 | 10:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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信楽院の蒲生氏郷の遺髪塔

滋賀県蒲生郡日野町の信楽院には蒲生氏郷の遺髪塔があります。

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信楽院は奈良時代に聖武天皇の勅願により開創されたと伝えられるお寺。
2014年お盆時期は工事中で古刹の雰囲気はまったく感じられませんでしたw

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境内も狭くて本堂もすっぽり覆われ全く見えないので、さっさと遺髪塚に向かいます。
境内入って左の墓域の奥なんだけど、お盆でお墓詣りの人が多いので墓地の写真はなし。

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京で亡くなった氏郷さんの遺髪が、ここ日野と所領だった会津で供養されたんだそうです。
享年40歳。芳名は「昌林院殿高岸宗忠大禅定門」。会津にも同じ遺髪塔があります。

聡明さにあやかりたいわ~と思いながら、凛々しい若武者をイメージしておもむろに合掌。


近くにある氏郷産湯の井戸や雲雀野公園の氏郷銅像もお見逃しなく。


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| 武将の墓 | 07:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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覚範寺の伊達政宗生母保春院と伊達宗清のお墓参り

仙台市の覚範寺には伊達政宗の生母保春院と伊達宗清の墓があります。

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覚範寺は天正14年(1586)伊達政宗が父輝宗の菩提寺として創建したお寺で
伊達家と共に岩出山、仙台愛宕山に移って焼失し、慶長7年(1602)この地に
再建されました。で・す・が・ 非業の死を遂げた政宗パパのお墓はありませんw


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本堂の左手の方の道を進むと「藩祖政宗公生母保春院殿御墓所」の案内発見!
案内ないと墓の中ウロウロしすぎるのも何か気が引けるし探すのも大変なんだ。


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左の大きい供養塔が宗清さん、右の小さな墓石が保春院のお墓です。

保春院は山形城主最上義守の娘で義姫といい、米沢城主伊達輝宗に嫁いで
政宗と小次郎を生みますが、政宗を嫌って小次郎を当主にしようと画策。
政宗を毒殺しようとしたも言われる気位が高くて気の強い印象の女性です。

後継者争いで政宗が弟小十郎を成敗すると義姫は最上家へ出奔しますが、
晩年、最上氏の改易により仙台に戻って間もなく亡くなりました。享年76歳。

政宗の三男宗清は飯坂宗康の養嗣子となり黒川郡吉岡3万石を領しますが、
寛永11年(1634) 後継ぎのないまま35歳で亡くなりました。


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保春院は仙台に戻って1年足らずで亡くなっています。
宗清は父政宗が亡くなる2年前に逝ってしまいました。

二人を一緒に仙台城下に葬ったのは政宗なり何かしら思いがあったのかもね。


近くには伊達政宗の霊屋 瑞鳳殿や仙台城、支倉常長のお墓がある光明寺などもあります。



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| 武将の墓 | 12:17 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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当信寺の阿梅の墓

宮城県白石市の当信寺には幸村の娘、阿梅さんのお墓があります。

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こちらは白石城の二の丸大手二の門だったもの。明治7年(1874)白石城解体の際、
専念寺に売却され、その後、当信寺山門として移築されたものなのだそうです。
2階に「眼象窓」を設けたり、開口を無くするなどの工夫がしてあります。

P1100885_R (2)

当信寺は法然上人によって開かれた浄土宗の寺院で、白石が蒲生氏から片倉氏に移った時、
現在の場所に移りました。片倉家二代重長公の後妻、真田幸村の娘阿梅の方の菩提寺です。
本堂の右手の脇を進んで行くと墓所があります。

P1100887_R.jpg

阿梅さんと大八さんのお墓。裏庭のような場所に入るとすぐ見えて分かりやすい。

元和元年(1615)の大坂夏の陣の際、討死の覚悟を決めた真田幸村は敵将ながら
智勇を見込んだ片倉重長に阿梅、阿菖蒲、おかね、大八の4児を託しました。

遺児たちは白石城二の丸でひそかに養育され、後に阿梅は重長の後妻となり、
阿菖蒲は田村定廣に嫁ぎ、大八は片倉守信と名乗って伊達家に仕えました。
おかねさんは詳しく分からないのですがどうも早逝したようですね・・・

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人の形をしたのが阿梅さんのお墓。西国生まれの阿梅さんは西国人が多く通る
街道近くに埋葬されたいと願い、奥州街道沿いにあった当信寺に葬られました。

享年78歳。法号は泰陽院殿松源寿清大姉。大八さんは58歳で亡くなっています。

阿梅さんは両親の位牌もこの当信寺に安置したそうだから、こうして静かに
眠りについた今も、亡き父母のことを思っているのかもしれませんね。

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阿梅さんの墓石は如意輪観音像で、頬杖をついて瞑想している姿が
歯痛のため頬を押さえているように見えることから、墓石を削って飲むと
虫歯に効くとの迷信が生まれたらしく・・相当削られてると見ました(泣)


阿梅さん白石では有名なので、白石城とセットで立ち寄ってください。
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| 武将の墓 | 16:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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蕃松院の依田信蕃の墓

長野県佐久市の蕃松院には依田信繁の墓があります。

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龍岡五稜郭の近くにある蕃松院。背後の山は信蕃さんの城だった田口城。

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元は明法寺と呼ばれ元亀の頃に戦火で焼かれ、現在の場所に移されました。
天正11年依田信蕃が討死すると信蕃の子で小諸城主の松平康国が供養のため
居館跡に堂宇を再建し、戒名を取って蕃松院と改めました。曹洞宗の古刹です。

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本堂は平成になって修理されてるらしいのでモダーンな感じで。
お墓参りをするには本堂の左手の方に進んで案内通りに行けばよし。

P1100693_R.jpg

依田信蕃は佐久の豪族で武田氏に仕えた武将。元亀3年(1573)岩村城攻略戦で、
700の手勢で5000の織田勢を破る戦功を上げ、勇知を認められます。

天正3年(1576年)には父信守と二俣城を守っていましたが長篠の合戦後、
二俣城奪還を狙う徳川に包囲されると籠城し、わずかな手勢ながら抵抗します。

8月には二俣城の東にあった武田の拠点である諏訪原城が落とされ依田信守も病死。
信蕃は守り続けますが12月、兵糧が尽きると全ての城兵を助けることを条件に開城しました。

おりしも開城の日は雨。信蕃は雨の中、蓑笠を着た姿で退去するのは見苦しいとして、
雨が上がった翌日、整然と城を明け渡し、高天神城に退去しました。

天正10年武田家滅亡の直前には城将として田中城に入り、再び徳川軍と対峙します。
家康はすでに武田を離反していた穴山梅雪に勧告を届けさせ「信州に本領を与える」と
交渉しますが信蕃は「主家の安否が分からぬうちに寝返るのは臣下にあらず」とこれを拒否。
勝頼自刃の後ようやく開城し、自領の佐久郡芦田に引き上げました。

家康は二俣城、田中城での信蕃の堂々たる爽やかな武人ぶりに惚れたんでしょうね。

旧武田家臣に強硬姿勢を取る信長に家臣にすると呼び出され、諏訪の織田信忠の陣に
向かおうとする信蕃に「殺されるから行くな、自分のところへ来い」的な書を送り、
家臣になる話をつけると、ほとぼりがさめるまで・・と二俣の小川郷にかくまうんです。

そして本能寺の変後、信蕃は旧武田家臣の取り込みや北条との戦いで活躍。
家康の信頼を得て佐久に領地をもらった後、岩尾城攻略でやんちゃして討死・・

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左が信蕃さんのお墓。ともに岩尾城攻略で討死した弟信幸と仲良く並んで・・

ものすっごいビッグネームな超メジャー武将じゃないかもしれないけど
ワタクシ依田信蕃になぜだかとても惹かれてしまうんですよね~

真田丸・・ちらとくらいは、名前くらいは出るんでしょうかww


色々語りたいことはあるんだけど、墓参りのエントリーなんでこのくらいでw


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| 武将の墓 | 17:12 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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俵藤太(藤原秀郷)の墓

群馬県佐野市には俵藤太(藤原秀郷)のお墓があります。

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ムカデ退治で有名なアノ彼。佐野市は秀郷さんが築城した唐沢山城があってゆかりの地。
とはいえ・・場所が分かりづらかったこと。そもそもナビでドンピシャ目指せないので、
近くにある「道の駅たぬまどまんなか」を目印に接近。そっからグーグルマップに切り替え、
じわじわ近づくんだけど、入口になる角が狭すぎて分からず行ったり来たり怪しいワタクシ。
うろつくこと数分・・車1台やっとの生活道路を通り住宅街に入ることに気付いた次第w


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秀郷さんは平安中期の武将で、「平将門の乱」の時に本拠地へ攻め込み、
将門をみごと討ち取って乱を鎮圧した武勇の人。秀郷さんはこの功により従四位下を与えられ、
下野守、武蔵守、鎮守府将軍に任じられました。

また伝説として残っている有名な「ムカデ退治」というのは・・

瀬田の唐橋の上に大蛇が横たわっているのを見て、他の者が恐れて通らない中、
秀郷さんは大蛇を踏みつけて橋を渡ります。実はこの大蛇は琵琶湖に住む龍の化身。
龍は肝っ玉の据わった秀郷さんに悩まされている三上山のムカデ大事をお願いします。
秀郷さんはさっそく三本の矢を持って三上山に向かい、三本目の矢で見事ムカデを退治。
退治のお礼に龍から俵などを貰ったことから「俵藤太」と呼ばれるようになりました。

ってやつですね。ムカデにビビる龍もどうかと思うけど、まぁそれはおいといて。
大蛇を踏みつけ大ムカデをやっつけ、かの将門さえも蹴散らす秀郷さんはブラボー!


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源氏平氏に次ぐ武家の名門として小山氏・結城氏・佐野氏・藤姓・佐藤氏・太田氏・・
嫡流はもちろん後裔を称した人を含め、秀郷さんには後裔氏族がたくさんいます。
お墓も佐野市のこの場所とは別に、群馬県伊勢崎市にもあるんだそうですよ。


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一説によると「当時の」イケメンでもあったらしい秀郷さん・・・
強い、名門、イケメンと来たらそれはモテモテだったことでしょうねw


機会があれば伊勢崎市の方のお墓にも巡礼しようと思います。


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| 武将の墓 | 20:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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