武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

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興徳寺の蒲生氏郷のお墓

会津若松市の興徳寺には蒲生氏郷のお墓があります。

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興徳寺は大通りを入った商店街の奥にあって少々分かりづらかったよ。

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境内は狭いので奥に進めば目指すところはすぐ見つかります。

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利休七哲の一人だった氏郷さんの辞世の句は評価が高いんだって。

~限りあれば 吹かねど花は散るものを 心短き春の山風~

花はいつか散るのに春の山風はこんなにも短気に散らすものよ・・・って(泣)

悟りの境地だよ。40歳で無念だったろうけど、そういうの全然におわない。

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墓所に行きます。右側には氏郷公顕彰碑やお墓の説明、肖像画なんかもあります。

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氏郷死去の翌年、子の秀行が建塔した五輪塔で遺髪が納められています

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司馬遼太郎の「街道をゆく」で「姿が実にいい」と書かれている五輪塔。
当時は霊屋もあったんだけど、戊辰戦争で燃えちゃったんだって・・泣

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お墓の後ろでは氏郷が建てた頃の鶴ヶ城七層天守も見られます。


市内には子の秀行、孫の忠郷のお墓もあります。蒲生三代セットで!



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| 武将の墓 | 10:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大輪寺にて甘利昌忠の墓参り

i韮崎市には武田家臣甘利昌忠のお墓があります。

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せっかく韮崎武田めぐりに来たなら大輪寺にも立ち寄らないとね。

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甘利昌忠のお墓は本堂左手奥を入った正面墓域内にあります。

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センターのは昌忠の三男で父を開基として大輪寺を創建した慶受院日国聖人の墓碑。

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甘利昌忠は上田原合戦で討死した甘利虎泰の嫡男で13才で
虎泰の跡を継いで武田信玄に仕え、譜代家老衆として活躍しました。

昌忠も猛将と言われた父と同じくなかなかのツワモノ。
その豪傑ぶりを今に伝える「馬糞汁」というエピソード。

武蔵松山城攻めの際、腹を撃たれて深手を負った家臣に鉄砲傷に効くと
いわれる芦毛馬の糞をとかした汁を飲ませようとした昌忠。
家臣に「そんなの飲むなら死んだ方がまし!」と拒否られると
「生き延びて主君に仕えるのが家臣の務めじゃないか!」と叱り飛ばして
汁を二口飲んでみせ「うまし!」。それを見た家臣がしぶしぶ汁を飲むと
痛みが引いて命を取り留めたそうな・・・ちょw どうかしてるw

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部下からも信玄からの信頼も厚かったという武田有力家臣なのに没年不詳。
落馬により不慮の死を遂げたと言われていますが解せないのよね、なんか。

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大輪寺とその周辺は甘利氏の居館跡とも言われています。


韮崎市で武田めぐりをするならこちらもぜひ訪れてください。
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| 武将の墓 | 12:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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自元寺にて馬場信春の墓参り

山梨県北杜市の自元寺には馬場信春のお墓があります。

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まずは旧馬場屋敷から移築してきたという門から。
当時、夫人が暮らしていたことから夫人の紋である笹りんどうがついてます。

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自元寺は元亀元年(1570)に建立された曹洞宗のお寺。馬場美濃守信春開基。

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馬場信春のお墓は本堂の左手の方へ進んでいったところにあります。

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天正3年(1575)5月、長篠の戦いで討死した馬場さんの形見が届けられ、
お墓を建てて菩提寺としました。ご位牌も安置されているそうです。

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これまでいくつかある馬場さんのお墓へお参りしているワタクシですが、
自元寺は墓だけでなく馬場さん自身が建立したお寺ってことに加えて、
近くには馬場を名乗る前、教来石屋敷跡もあるのでより思い入れます。

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少し車を走らせると教来石屋敷跡。ビューファーム鳥原を目指すとよいですね。

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この館跡は発掘調査で教来石氏が馬場を名のるまでのものと判ったそうです。


馬場さんのお墓参りほぼコンプリート。気が済みました。


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| 武将の墓 | 15:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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龍岸寺にて真田信尹の墓参り

山梨県北杜市の龍岸寺には真田信尹のお墓があります。

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ちょっとわかりづらいところで迷った末の到着。静かな里の中にあるお寺です。

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信尹のお墓は本堂の左手裏の墓域。真田丸が始まって案内がついたようです。

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信尹さんのお墓は一番右奥。お花が活けられているので分かりやすい。
信尹夫妻(正室は馬場信春の娘)幸政、幸信の三代が眠っています。

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真田信尹は兄昌幸と共に武田信玄に仕えましたが、信玄の命で加津野家を継ぎ、
加津野市右衛門を名乗って勝頼の近侍として活躍しました。

天正10年、武田家が滅亡後は真田姓に戻り、信尹を名乗って徳川に仕えます。
関ヶ原、大阪の陣などの戦功により甲斐で4千石を与えられ、
知行地の大蔵村に居住し、寛永9年(1632年)5月、86歳で死去しました。

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真田丸効果でものすごく訪問する方が増えたそうで前日も団体さんがバスで。
ワタクシが訪れる少し前も年配のグループがお参りに来ていたそうです。

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こちらのお寺の奥様が本当にとても素敵な方で、声をかけてくださったので
信尹のことはもちろん、真田丸で信尹を演じる栗原英雄さんが訪れていることなど
気さくに色々とお伺いしました。詳細は興味があれば本家ブログでご紹介してますので・・


大河って(私は見ないけど)その時ばっかり人がこぞって訪れてるけど
元から観光地としてメジャーとかじゃない限り、終るとそれっきりとかも多い。
今回は真田丸放映中のGW中だったけど人がいないタイミングでよかったです。



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| 武将の墓 | 23:01 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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願成寺にて武田信義の墓参り

山梨県韮崎市には武田の祖、武田信義のお墓があります。

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武田初代当主信義さん菩提寺のこちらが願成寺。韮崎武田めぐりマスト!

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山門入ったところにある武田家家臣招魂の碑。武田のルーツだから大事な演出。

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廟所は本堂の左手奥でわかりやすい。
「武田信義之墓 山梨縣」と書かれた立派な石柱と綺麗な説明版があります。

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撮り忘れたけど右手の石灯籠隣には「信義公八百回忌之塔」があるからお見逃しなく。

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中には入れないので、ここからガン見したり、手を合わせたりしますよ。

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真ん中がもちろん信義さんの。向かって左が夫人、右が乳母姫のお墓。
鎌倉時代初期の塔形として完全に近い形で資料的にも貴重なものなんだって。

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こちらは武田氏累代の廟所。新羅三郎義光からの義清、清光、そして4代信義。
それから代々続いて19代信玄、勝頼、信勝で滅亡しますね・・・・つらっ。

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こちらは武田氏初代信義さんから数えた数字でかかれていました。

武田めぐりのマストです。



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| 武将の墓 | 11:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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医王寺の山本勘助の供養塔

富士宮市の医王寺には山本勘助のお墓があります。

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医王寺は奈良時代に創建されたといわれる古いお寺で戦国期に真言宗から浄土宗に改宗。
幼稚園も併設されている現在、古刹なのになんだかほのぼのした感じです。
山門には柵があって、ちびっこが出ちゃうからちゃんと閉めなきゃいけないのよw

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本堂の右手裏に進むと「山本勘助供養塔」の案内が。コレ本当に助かるのよ!!
大河ドラマ「風林火山」の時は参拝者が多かったようだけど人は全然いませんw

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真ん中あたりにある一番小さいのが勘助の墓・・というか供養塔。

山本勘助は富士市山本の吉野氏の三男として生まれたと伝わっていて、
吉野氏の分家である比奈山本氏が江戸時代に医王寺の檀家になったことから、
供養塔が建てられたようです。この反対側は山本氏のお墓が並んでました。

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分かりづらいんだけど供養塔には「鉄巌道一禅定門」と刻まれていました。

吉野氏の三男として生まれた源助は12歳で三河大林氏の養子となりましたが
大林氏に実子ができたため35歳の時に離縁し、名を「勘助」と改め、諸国へ旅に出ます。
今川への仕官を望むも叶わず、52歳で武田信玄に仕え百貫の知行取に出世しました。

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供養塔の並びには大河ドラマ「風林火山」の時に建てられた石碑とミニ勘助像が。
信玄の元で参謀として活躍した勘助でしたが、永禄4年(1561)川中島の戦いで
上杉軍に啄木鳥戦法の裏をかかれ、八幡原にて討死。享年69歳。


勘助は実在したとか否かって話もあるけど、ワタクシは断然実在派(?)ですw

諸国をめぐり兵法、剣法、天文学にも通じていたという勘助さん。
隻眼で足が不自由、風貌も冴えなかったといわれますが男は中身が大事!!
逆境をバネに、辛いことも耐え抜いて生きた強くかしこい人だと思います。



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| 武将の墓 | 08:30 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

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西山本門寺の織田信長の首塚

静岡県富士宮市の西山本門寺には信長の首塚があります。

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西山本門寺は法華宗興門流のお寺で創建は康永2年(1343)。武田家や千葉原家、
水戸家出身の上人がいたり、徳川家の庇護や水尾天皇の姫常子内親王の帰依を受け
下馬下乗の禁礼を建てることを許されたりもした立派なお寺なんだそうですよ。

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庫裏の横に案内板がありました。裏か!裏にいけばいいんだね!!(前のめり)

本能寺で討死した信長サマの首を本因坊算砂(日海上人)がここに埋葬させた・・
西山本門寺ではそういう話(伝説?)になっていて、首塚が築かれたんです。

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進んでいくと見えるあのブルーシートはなに? 
まさか首塚・・いや首は柊の根本だもんね・・・って、
あの先にあって今は入れないってオチはなかろうな・・

と不安におののきながら進みます。

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ババーン! これが信長サマの首塚とされる大柊。すごい姿になってます。
柊は成長が遅くて、大物になるにはなかなか年月がかかるらしいです。
年取ると葉っぱの刺もなくなって丸くなるんだってさ。県指定の天然記念物。

ちなみにブルーシートかかってるのは宝物殿みたいなのの修築だったw

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本因坊の意を受け、原志摩守宗安が炎上する本能寺より持ち出した信長の首を
ここ西山本門寺に納めて首塚を築き、魔除けに柊植えたと伝わっているようです。

信長サマの亡骸は見つからず、日本史最大のミステリーと言われたりもしますが、
光秀に首をとられないように外に持ち出されたってのは自然なのかもしれないね~


後延ばしになっていた信長サマの首塚にやっとお参りできてワタクシ満足!




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| 武将の墓 | 12:30 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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天麟院の五郎八姫の霊廟

宮城県松島にある天麟院には五郎八姫の霊廟があります。

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天麟院と並びにある松島観光スポットとして有名な瑞巌寺、円通院と並んでますが
ひっそりとした佇まいです。五郎八姫の霊廟を拝めますが拝観料がないのでホッとしますw

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五郎八姫は伊達政宗と正室愛姫との間に生まれた長女で、結婚して15年経って
やっと生まれた子供でした。案内板には男名を付けると男子を授かることから
五郎八と名付けたとありますが、政宗が男の名前しか考えていなかったので
五郎八のまま読みだけ「いろは」にしたなんて説も聞いたことがあります。

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参道を登っていくと・・オーマイガーッツ! 修復中で全く見えないじゃないか!
と思ったけどシートのすき間があるのでちょいとのぞいてみちゃうことにします。 ※2014年時点

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霊廟に行き、すき間からシートの中をチラッとのぞくと上から声がして仰天!!
怒られるのかと思ったら「見学?入って見たらいいよ」と気さくなオジサン。

改修ではなく霊廟自体の建て替えたそうで、オジサンは漆を塗っているそうです。
当初は黒の予定だったそうですが住職さんの好みでこの色になったのだとか。
ここまで何度も塗り重ねて・・漆って乾燥した時期の方が乾きにくいんだって。
まだ壁の部分もむき出しだけど漆が終わったら白漆喰でキレイになるそうです。

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建て替え中のこのタイミングだからこそ扉あけっぴろげで中が丸見え!
普通の時だったら多分、扉は閉まっていてちゃんと墓石見えないと思うの。

五郎八姫は13才で家康の六男、高田61万石の松平忠輝の正室となりますが、
元和2年(1616)、大阪夏の陣の遅参などを理由に忠輝は改易されてしまいます。

五郎八姫は忠輝と強制的に離縁させられ、20代前半から68歳で亡くなるまで生涯
独身を貫き、仙台で暮らしました。五郎八姫さんはとても聡明な人だったそうで、
政宗は男に生まれなかったことを惜しんだなんて話も残っています。

こちらの霊廟は元は伊達家4代藩主綱村によって創建されたようですが
五郎八姫はキリシタン。リアルにお骨があるようだけど納得してるかなw


天麟院の並びには政宗の正室(五郎八姫の生母)愛姫の霊廟がある瑞巌寺、
政宗の孫 光宗の霊廟がある円通院もあります。セットでどうぞ。





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| 武将の墓 | 13:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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愛宕山の片倉家廟所

宮城県白石市の愛宕山には片倉家廟所があります。

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白石城からほど近く。あたご茶屋というお店を目指してやってきました。
だいたいどの辺か目星をつけて走ればデカい看板があるので見逃さないw

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入り口を登って行くと駐車場があります。ここに止めて片倉家廟所とか、
喜多さんや田村清顕の墓なぞを歩いて廻るわけです。

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駐車場には案内図もあるので安心。実際歩いたところ距離は大してないけど、
登っておりて・・で体力ないワタクシにはちと難儀w せっかくなんで頑張ります。

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しばらく坂を上がっていくと案内が出てきて平坦に。
愛宕山は一般の方の墓地にもなっているようでお墓を抜けていく感じです。

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遠かったらどうしよう~と心身ともに疲れる間もなく、片倉家歴代廟所に到着!
杉の老木に囲まれてひっそりな佇まい。まるで結界が張られているような雰囲気よ。

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片倉景綱や二代目の重長はさきほどお参りしてきた傑山寺に葬られましたが、
三代景長が白石城の見える愛宕山を選んで廟所とし、分骨して改葬したんだそうです。

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廟所の横には景綱に仕えて殉死した6名のお墓もありました。改葬した廟所でも
景綱の側にわざわざ殉死者の墓も建ててやるっていう片倉家の気持ちがいいよね。
景綱はあの世に行っても城を見守り、慕う家臣は死してなお傍らに寄り添う・・

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初代景綱から10代宗景までの城主が祀られています。伊達吉村公息女というのは
七代村廉の夫人。主家である伊達家の姫様なのでここに一緒に葬られたのだとか。
景綱さんの左右に並ぶ歴代藩主の墓標・・・阿弥陀如来坐像並びすぎこわいしw
廟内には石畳が敷かれています。周りの玉垣は花崗岩なのだそうですよ。

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こちらがセンター初代景綱さんのお墓。ここの墓標は阿弥陀如来坐像です。
枯れた杉の葉、ひからびた花・・定期的にお手入れされてるんじゃなさそうな。


せっかく来たら喜多さん、田村さんはもちろん、
傑山寺の片倉小十郎の一本杉墓標もお見逃しなく。 

 writen by あも 武将の銅像と墓参り~http://amoyoroshi.blog.fc2.com/


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| 武将の墓 | 12:25 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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瑞巌寺の伊達政宗正室愛姫の墓

宮城県松島の瑞巌寺には伊達政宗の正室愛姫の廟所があります。

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松島の目抜き通りの喧騒と打って代わり、案外静かです。
拝観料が700円とお高いので価値観ない人は素通りしています。

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平成の大修復をやってるようです。平成20年から平成30年までΣ(゚Д゚)!
本堂自体の拝観はできず、御本尊や政宗の位牌は仮本堂に移されているみたい。

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本堂が観られないのでいきなり庫裡。庫裡は禅宗寺院の台所にあたる建物。
大屋根の上に煙出しが乗っているのが見えます。遠めに見ても巨大な庫裡です。

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庫裡を抜けてグルグル回り仮本堂になってる大書院にやってきました。
お! なんとこんな間近で、しかも全部横並びで一度に見られるとは!!
三代開山木像、その奥が御本尊。そしてその奥が政宗、2代忠宗の位牌。
3代綱宗以降の位牌は別室にギッシリ並んでましたw 早死にする人が多い伊達家です。

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こちらが政宗さんの位牌。「瑞巌寺殿前黄門貞山利公大居士」と書かれてます。
瑞巌寺を建立した功績によって名づけられました。黄門は中納言の中国名。
大居士の後には「神儀」とあって、大名への位号で神と同義なんですって。

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政宗さんの正室、愛姫の御霊屋。万治3年(1660)に3代藩主綱宗によって造営され、
平成18年(2006)から3年かけて復元。創建当初の豪華絢爛な形姿が甦りました。

愛姫は三春城主田村清顕の娘で、政略結婚により12歳の時に政宗に嫁いで以来、
57年、政宗に寄り添った才色兼備の夫人。後に松平忠輝に嫁いだ五郎八姫や
2代忠宗を産んでいます。愛姫は政宗の死後、落飾して陽徳院を称し、
70歳で亡くなるまで17年間、夫政宗の菩提を弔ったそうです。

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総黒漆塗りに金、極彩色の装飾・・失われていた飾り金具も復元されているそうで、
当時もこんな豪華さだったと思うとすごい!お孫ちゃんの綱宗君ガンバったのねw
随所に田村家の家紋である三つ巴が施されているのも気が利いてると思いました。


瑞巌寺の並びには天麟院、円通院と見どころが並びます。セットでぜひ。



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| 武将の墓 | 09:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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革秀寺の津軽為信の霊屋

青森県弘前市の革秀寺には津軽為信の廟所があります。

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革秀寺は曹洞宗のお寺で津軽藩の菩提寺。慶長12年、2代藩主津軽信枚創建。
観光エリアから少し離れているのに、人が結構いたのにはびっくり。

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こちらが本堂。全国でも珍しい簡素な萱葺きの方丈形式で国重文。

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本堂の左手にある津軽為信霊屋は事前申し込みをしないと入れません。
ワタクシはもちろん申込なんかしてないので・・土手によじ登ることにしますw

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柵沿いに土手みたいなところをよじ登り、霊屋の正面にたどり着きました。
が・・うーん見えづらい! 申込制にする必要あるのかな?と首をかしげます。

元は南部氏に属していた為信さんでしたが、南部晴政死去による跡目争いで南部氏が
衰えたのを機に、謀略を持って一大勢力を築き、大浦為信から津軽為信に改めました。

為信さんは政治感覚が優れていたんでしょうね。勢力を築いた後は秀吉を取りまく
中央の大名とも親交を持ち、小田原攻めの時にもイチ早く参陣して秀吉に謁見し、
所領を安堵されました。関ヶ原では秀吉の小姓をしていた嫡男を西軍につかせて
自身は東軍につき、どちらにしろ家名を残す真田と同じ策でしぶとく生き残りました。

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土手の上をおどおどしながら少し横っちょの方に移動すると少し、
やっと少しまともに極彩色の霊屋の姿が見えました・・でも遠っ!

慶長7年(1602)、為信さんは病気の嫡男信建を見舞う為、京に入って死去。
享年58歳。(信建は父信為さんの到着を待たずに病死)

2代津軽信枚によって建てられた当時は質素な作りだったようですが、
文化年間の修理によって現在の極彩色な霊屋になったそうです。


予約して中に入れてもらいたかったけど行くのが盆の最中だったのでね。
まぁ何とか見られたので良しとしましょうw


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瑞鳳殿の伊達政宗の廟所

宮城県仙台市の瑞鳳殿には伊達政宗の廟所があります。

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この日は残念ながらなかなかの雨で、しょぼくれた写真が残念なんですが。

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入場券買って進むと、まずは伊達政宗の霊屋「瑞鳳殿」の入口が見えてきます。
左奥に見えるのが副葬品やら何やら貴重なものが見られる資料館。
写真は撮れませんが、なかなか面白いものが見られますよw

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瑞鳳殿は嘉永13年(1636)5月24日、江戸桜田屋敷で亡くなった伊達政宗の霊屋です。

政宗の遺命で翌年この地に造営されたもので、桃山様式の豪華絢爛な廟建築として
昭和6年に国宝に指定されましたが、昭和20年の空襲で惜しくも焼失してしまいます。
現在の建物は昭和54年に再建されたもので、防災面を考え鉄筋コンクリートなんだって。

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霊屋の下には墓室があって、再建する時に調査をしたら政宗の遺骨は完全な形で
発見されたそうです。政宗さんは身長159.4cm、血液型はB型なんだって!
当時の平均からすると標準身長。でもB型ってのはなんか分かる気がするー!!

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霊屋の隣には殉死した20人の宝篋印塔が並んでいます。江戸で亡くなった政宗が
この地に埋葬された後、切腹したのだとか。主従は3世・・いや~すごいねw
ちなみに許可を得ず勝手に切腹しても殉死者としては扱われないそうですよ。

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こちらは二代伊達忠宗の霊屋「感仙殿」と三代伊達綱宗の霊屋「善応殿」です。
門をくぐると二代、三代の霊屋は左右に並んでます。こちらは向かって右の感仙殿。
政宗のような龍頭瓦は載ってないです。こちらも戦災で焼け昭和60年再建されたました。
善応殿側から感仙殿。こちらも再建されたものですが善応殿は資料が乏しくて
綱宗公が好んで描かれた「鳳凰」と「牡丹」が装飾に採用されたんだそうな。


いやぁ・・・しかし雨で残念過ぎた。


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西念寺の仙石秀久の墓

長野県佐久市の西念寺には仙石秀久の墓があります。

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西念寺は永禄3年(1560)に建てられた信玄開基の浄土宗のお寺。
こちらにはゴンベ・・もとい仙石秀久のお墓があります。
正直、ゴンベはワタクシ的に残念すぎて全く萌えない武将ですw

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ゴンベのお墓は本堂の左手の方にあります。さくっと行ってみましょう。

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こちらがゴンベこと仙石秀久のお墓。自分が小諸を治めている時から庇護して
菩提寺と決めただけに、鴻巣にある勝願寺よりもかなり立派です。

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仙石秀久は豊臣最古参の家臣で淡路洲本5万石、讃岐高松10万石と出世しますが、
九州攻めの際、本隊到着を待てという秀吉の命に従わず、長宗我部親子や
十河存保の反対を押し切って勝手に先発隊だけでの出撃を決めます。
が結果、戸次川の戦いで長宗我部信親、十河存保は討死、島津に大敗します。

この時、ゴンベはさっさと、しかも無断で四国に逃げ帰ってしまったため
怒った秀吉に所領没収の上、高野山に追放されてしまいました。

が、天正18年(1590)小田原征伐が始まると浪人を集め家康の後押しを受け
陣借り参戦し、早川口攻略の功により大名に復活。信州小諸5万石を賜り、
藩主として小諸城や城下町、街道を整備しました。

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宝篋印塔ちょっと傾いちゃってますけど・・隣りはゴンベの弟、政直の五輪塔。
政直は乱心してこのお寺に蟄居させられ、そのまま亡くなったらしいです。

秀久は慶長19年(1614)、江戸から小諸へ帰る途中の武州鴻巣で病没し、
上田の本廟やここ西念寺、願勝寺(分骨)などに葬られました。

円覚院殿宝誉道樹大禅定門。享年63才。


近く(同じ岩村田宿)には信玄のお墓がある龍雲寺があります。セットでどぞ。


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| 武将の墓 | 12:50 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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大雄寺の伊達成実の廟所

宮城県亘理の大雄寺には伊達成実の廟所があります。

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大雄寺(だいおうじ)は曹洞宗のお寺で亘理伊達家の菩提寺です。
山門は文政年間に建てられたもので、亘理町の指定文化財なんだとか。
仁王さんもいる八脚門の立派なもの。寒いのでチラ見で進みます。

慶長7年(1602)亘理に入った伊達成実が福島にあった陽林寺を亘理城下へ移し
雄山寺としたのが始まりなのだとか。1646年に79歳で成実が亡くなるとここに葬られ、
以降、亘理伊達家代々の菩提寺となり、大雄寺に改名されたそうです。

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本堂の左手の方にある駐車場の奥に霊屋があります。
墓石と違って霊屋の場合はやっぱり近くには寄れない感じです。

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こじんまりした空間。柵に丸かぶりの正面にあるのが成実さんの霊屋です。

伊達成実さんは伊達政宗の従弟。幼名を時宗丸といい、政宗の父輝宗が
烏帽子親になって12歳の時に元服。藤五郎成実と名乗りました。

武勇の誉れ高く、政宗の父輝宗が二本松城主畠山義継に殺されたことに
端を発した人取橋の戦いでも成実はひとり踏みとどまって政宗が逃げるのを助け、
摺上原の戦いでも敵の側面を急襲して劣勢の味方を救うなどの武功を上げました。

そんなイケイケの成美さんの兜の前立ては百足。「決して後ろに退かない」
という百足の習性にあやかったものなんだってさ。さすが根性すわってる!

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柵から手を突っ込んで写真を撮ってみたけれど・・いい角度で手が入らないw
成実さんの霊屋は県指定重要文化財で、中には位牌と木像が安置されてるそうな。

秀吉に小田原への参陣を求められた時、成実さんは「今から行っても遅いから、
行って辱めを受けるより残って天下の優劣を争った方がいい、恐れることがあるか」
くらいのことを言って片倉景綱と対立したと言われます。結果、政宗は景綱の意見を
聞き入れて小田原に参陣、成実さんは黒川城の留守居・・大局を見る目は智の景綱
の方が上なんだろうけど、自分が正しいと思ったことはハッキリ言うってのは、
後戻りはしないという生き様の成実さんらしいのかな~なんて勝手に思います。

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殉死した方々の供養塔も一緒に。何人も追い腹切るのね。
あちこちで見るけどやっぱ殉死ってのはホントありえないわ・・

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こちら右が成実パパ実元さん、左にあるのが4代実氏さんの霊屋。
実氏さんは亘理伊達家中興の祖と言われた名君だったそうですよ。

P1110171_R.jpg

こちらが霊屋の隣にあるその他城主と奥方たちの墓所。怖いほどひっそり~
歴代廟所とかっていうのはどこに行っても独特の空気感があります。


11月初旬の東北。雨で寒いお参りでした。


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| 武将の墓 | 16:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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常在寺の斉藤道三の供養塔

岐阜城近くの常在寺には斉藤道三の供養塔があります。

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常在寺は日蓮宗のお寺で、斎藤道三以後三代の菩提寺となっています。
こちらには供養塔があるとのことで立ち寄ったんだけど、
国重文の斉藤道三・義龍父子の肖像画も所有しているんだそうです。

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住職さんがいらっしゃると拝観料を払って肖像を見られると聞いたのですが、
お盆の最中でしたからね・・人がいる気配がなく今回は供養塔だけ探すことに。

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本堂の右手の方に道三の供養塔を見つけました。ヤブ蚊がめっちゃすごいです!

斎藤道三は僧侶から還俗して油売りとなり、寺院のつてを頼って守護大名の土岐氏の重臣
長井長弘の家臣となり主君筋を次々と倒して美濃一国の大名にのし上がったと言われます。
美濃のマムシ、戦国の梟雄と呼ばれ、下剋上の代名詞みたいに言われる御仁です。

最近は実は油売りじゃなかったという説もあるようですが、どっちにしても
成りあがったのは間違いないので、ワタクシ的にはその辺はどうでもいい的なw

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道三は濃姫を信長に嫁がせた後、息子義龍に家督を譲るのですが義龍や家臣に
隠居させられ、やがて追放されてしまいます。道三が信長贔屓であったことや、
裏切りや謀略で手段を選ばずのし上がった事実に家臣の支持を失ったためとも、
また道三が弟を溺愛したため義龍自身の危機感が加わったことも原因と言われます。

父子は長良川の戦いで対峙しますが、追放された道三に味方する家臣は少なく、
道三は美濃一国譲り状を織田家に届けさせた後、義龍に討ち取られました。享年62歳。

常在寺は斉藤道三以降三代の菩提寺とのことですが、こちらにあるのは供養塔。
菩提寺なのになぜ墓じゃないのか分からないけど、ヤブ蚊がすごいのでサッと合掌w

この後は墓碑があるという道三塚に向かいました。
常在寺からは離れていますがセットで見るのがおすすめです!



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| 武将の墓 | 10:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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信楽院の蒲生氏郷の遺髪塔

滋賀県蒲生郡日野町の信楽院には蒲生氏郷の遺髪塔があります。

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信楽院は奈良時代に聖武天皇の勅願により開創されたと伝えられるお寺。
2014年お盆時期は工事中で古刹の雰囲気はまったく感じられませんでしたw

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境内も狭くて本堂もすっぽり覆われ全く見えないので、さっさと遺髪塚に向かいます。
境内入って左の墓域の奥なんだけど、お盆でお墓詣りの人が多いので墓地の写真はなし。

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京で亡くなった氏郷さんの遺髪が、ここ日野と所領だった会津で供養されたんだそうです。
享年40歳。芳名は「昌林院殿高岸宗忠大禅定門」。会津にも同じ遺髪塔があります。

聡明さにあやかりたいわ~と思いながら、凛々しい若武者をイメージしておもむろに合掌。


近くにある氏郷産湯の井戸や雲雀野公園の氏郷銅像もお見逃しなく。


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| 武将の墓 | 07:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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覚範寺の伊達政宗生母保春院と伊達宗清のお墓参り

仙台市の覚範寺には伊達政宗の生母保春院と伊達宗清の墓があります。

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覚範寺は天正14年(1586)伊達政宗が父輝宗の菩提寺として創建したお寺で
伊達家と共に岩出山、仙台愛宕山に移って焼失し、慶長7年(1602)この地に
再建されました。で・す・が・ 非業の死を遂げた政宗パパのお墓はありませんw


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本堂の左手の方の道を進むと「藩祖政宗公生母保春院殿御墓所」の案内発見!
案内ないと墓の中ウロウロしすぎるのも何か気が引けるし探すのも大変なんだ。


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左の大きい供養塔が宗清さん、右の小さな墓石が保春院のお墓です。

保春院は山形城主最上義守の娘で義姫といい、米沢城主伊達輝宗に嫁いで
政宗と小次郎を生みますが、政宗を嫌って小次郎を当主にしようと画策。
政宗を毒殺しようとしたも言われる気位が高くて気の強い印象の女性です。

後継者争いで政宗が弟小十郎を成敗すると義姫は最上家へ出奔しますが、
晩年、最上氏の改易により仙台に戻って間もなく亡くなりました。享年76歳。

政宗の三男宗清は飯坂宗康の養嗣子となり黒川郡吉岡3万石を領しますが、
寛永11年(1634) 後継ぎのないまま35歳で亡くなりました。


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保春院は仙台に戻って1年足らずで亡くなっています。
宗清は父政宗が亡くなる2年前に逝ってしまいました。

二人を一緒に仙台城下に葬ったのは政宗なり何かしら思いがあったのかもね。


近くには伊達政宗の霊屋 瑞鳳殿や仙台城、支倉常長のお墓がある光明寺などもあります。



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| 武将の墓 | 12:17 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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当信寺の阿梅の墓

宮城県白石市の当信寺には幸村の娘、阿梅さんのお墓があります。

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こちらは白石城の二の丸大手二の門だったもの。明治7年(1874)白石城解体の際、
専念寺に売却され、その後、当信寺山門として移築されたものなのだそうです。
2階に「眼象窓」を設けたり、開口を無くするなどの工夫がしてあります。

P1100885_R (2)

当信寺は法然上人によって開かれた浄土宗の寺院で、白石が蒲生氏から片倉氏に移った時、
現在の場所に移りました。片倉家二代重長公の後妻、真田幸村の娘阿梅の方の菩提寺です。
本堂の右手の脇を進んで行くと墓所があります。

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阿梅さんと大八さんのお墓。裏庭のような場所に入るとすぐ見えて分かりやすい。

元和元年(1615)の大坂夏の陣の際、討死の覚悟を決めた真田幸村は敵将ながら
智勇を見込んだ片倉重長に阿梅、阿菖蒲、おかね、大八の4児を託しました。

遺児たちは白石城二の丸でひそかに養育され、後に阿梅は重長の後妻となり、
阿菖蒲は田村定廣に嫁ぎ、大八は片倉守信と名乗って伊達家に仕えました。
おかねさんは詳しく分からないのですがどうも早逝したようですね・・・

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人の形をしたのが阿梅さんのお墓。西国生まれの阿梅さんは西国人が多く通る
街道近くに埋葬されたいと願い、奥州街道沿いにあった当信寺に葬られました。

享年78歳。法号は泰陽院殿松源寿清大姉。大八さんは58歳で亡くなっています。

阿梅さんは両親の位牌もこの当信寺に安置したそうだから、こうして静かに
眠りについた今も、亡き父母のことを思っているのかもしれませんね。

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阿梅さんの墓石は如意輪観音像で、頬杖をついて瞑想している姿が
歯痛のため頬を押さえているように見えることから、墓石を削って飲むと
虫歯に効くとの迷信が生まれたらしく・・相当削られてると見ました(泣)


阿梅さん白石では有名なので、白石城とセットで立ち寄ってください。
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| 武将の墓 | 16:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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蕃松院の依田信蕃の墓

長野県佐久市の蕃松院には依田信繁の墓があります。

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龍岡五稜郭の近くにある蕃松院。背後の山は信蕃さんの城だった田口城。

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元は明法寺と呼ばれ元亀の頃に戦火で焼かれ、現在の場所に移されました。
天正11年依田信蕃が討死すると信蕃の子で小諸城主の松平康国が供養のため
居館跡に堂宇を再建し、戒名を取って蕃松院と改めました。曹洞宗の古刹です。

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本堂は平成になって修理されてるらしいのでモダーンな感じで。
お墓参りをするには本堂の左手の方に進んで案内通りに行けばよし。

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依田信蕃は佐久の豪族で武田氏に仕えた武将。元亀3年(1573)岩村城攻略戦で、
700の手勢で5000の織田勢を破る戦功を上げ、勇知を認められます。

天正3年(1576年)には父信守と二俣城を守っていましたが長篠の合戦後、
二俣城奪還を狙う徳川に包囲されると籠城し、わずかな手勢ながら抵抗します。

8月には二俣城の東にあった武田の拠点である諏訪原城が落とされ依田信守も病死。
信蕃は守り続けますが12月、兵糧が尽きると全ての城兵を助けることを条件に開城しました。

おりしも開城の日は雨。信蕃は雨の中、蓑笠を着た姿で退去するのは見苦しいとして、
雨が上がった翌日、整然と城を明け渡し、高天神城に退去しました。

天正10年武田家滅亡の直前には城将として田中城に入り、再び徳川軍と対峙します。
家康はすでに武田を離反していた穴山梅雪に勧告を届けさせ「信州に本領を与える」と
交渉しますが信蕃は「主家の安否が分からぬうちに寝返るのは臣下にあらず」とこれを拒否。
勝頼自刃の後ようやく開城し、自領の佐久郡芦田に引き上げました。

家康は二俣城、田中城での信蕃の堂々たる爽やかな武人ぶりに惚れたんでしょうね。

旧武田家臣に強硬姿勢を取る信長に家臣にすると呼び出され、諏訪の織田信忠の陣に
向かおうとする信蕃に「殺されるから行くな、自分のところへ来い」的な書を送り、
家臣になる話をつけると、ほとぼりがさめるまで・・と二俣の小川郷にかくまうんです。

そして本能寺の変後、信蕃は旧武田家臣の取り込みや北条との戦いで活躍。
家康の信頼を得て佐久に領地をもらった後、岩尾城攻略でやんちゃして討死・・

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左が信蕃さんのお墓。ともに岩尾城攻略で討死した弟信幸と仲良く並んで・・

ものすっごいビッグネームな超メジャー武将じゃないかもしれないけど
ワタクシ依田信蕃になぜだかとても惹かれてしまうんですよね~

真田丸・・ちらとくらいは、名前くらいは出るんでしょうかww


色々語りたいことはあるんだけど、墓参りのエントリーなんでこのくらいでw


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| 武将の墓 | 17:12 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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俵藤太(藤原秀郷)の墓

群馬県佐野市には俵藤太(藤原秀郷)のお墓があります。

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ムカデ退治で有名なアノ彼。佐野市は秀郷さんが築城した唐沢山城があってゆかりの地。
とはいえ・・場所が分かりづらかったこと。そもそもナビでドンピシャ目指せないので、
近くにある「道の駅たぬまどまんなか」を目印に接近。そっからグーグルマップに切り替え、
じわじわ近づくんだけど、入口になる角が狭すぎて分からず行ったり来たり怪しいワタクシ。
うろつくこと数分・・車1台やっとの生活道路を通り住宅街に入ることに気付いた次第w


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秀郷さんは平安中期の武将で、「平将門の乱」の時に本拠地へ攻め込み、
将門をみごと討ち取って乱を鎮圧した武勇の人。秀郷さんはこの功により従四位下を与えられ、
下野守、武蔵守、鎮守府将軍に任じられました。

また伝説として残っている有名な「ムカデ退治」というのは・・

瀬田の唐橋の上に大蛇が横たわっているのを見て、他の者が恐れて通らない中、
秀郷さんは大蛇を踏みつけて橋を渡ります。実はこの大蛇は琵琶湖に住む龍の化身。
龍は肝っ玉の据わった秀郷さんに悩まされている三上山のムカデ大事をお願いします。
秀郷さんはさっそく三本の矢を持って三上山に向かい、三本目の矢で見事ムカデを退治。
退治のお礼に龍から俵などを貰ったことから「俵藤太」と呼ばれるようになりました。

ってやつですね。ムカデにビビる龍もどうかと思うけど、まぁそれはおいといて。
大蛇を踏みつけ大ムカデをやっつけ、かの将門さえも蹴散らす秀郷さんはブラボー!


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源氏平氏に次ぐ武家の名門として小山氏・結城氏・佐野氏・藤姓・佐藤氏・太田氏・・
嫡流はもちろん後裔を称した人を含め、秀郷さんには後裔氏族がたくさんいます。
お墓も佐野市のこの場所とは別に、群馬県伊勢崎市にもあるんだそうですよ。


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一説によると「当時の」イケメンでもあったらしい秀郷さん・・・
強い、名門、イケメンと来たらそれはモテモテだったことでしょうねw


機会があれば伊勢崎市の方のお墓にも巡礼しようと思います。


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| 武将の墓 | 20:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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傑山寺の片倉小十郎景綱の墓

宮城県白石市の傑山寺には片倉小十郎景綱の墓があります。

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片倉小十郎のお墓がある傑山寺は白石城から車で5分ちょいくらい。
慶長13年(1608)に片倉小十郎が妙心寺第十一世天心智寛大和尚を開山として
建立された臨済宗のお寺で、代々の城主と家族が弔われています。


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一般のお墓もある墓所内には分かりやすい案内板もちゃんと出てるので安心! 
歴代墓所は後回しにして、景綱さんのお墓のある一本杉を目指します。
景綱さんの名前にいちいち「初代」とつくのは、鬼小十郎の異名をとった
片倉小十郎重長さん2代目と区別をするためよね。大事なことですよ。うん。

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ちょいちょい案内が出てるので、広い墓所で迷わなくていいのはありたがい。

片倉景綱は伊達輝宗(政宗の父)の小姓として仕え、19歳の時に当時9歳の
梵天丸(政宗)の近侍になりました。文武に優れていた景綱は姉の喜多が
政宗の乳母だったこともあり、信頼のおける家臣として重用されました。

喜多さんは景綱と腹違いの20歳も年の離れた姉上。文武に通じた女傑と言われ、
早くに両親を亡くした景綱はこの喜多さんに養育され影響を受けたそうな。
喜多さんタイプの女性ワタクシ大好きなのでこの後、彼女のお墓参りもします。

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樹齢は分かりませんが高くて上まで映りません。俺の墓標は一本杉・・って別に
景綱さんが決めた墓標じゃないけど、自分の生涯をかけた政宗ラブな生き様が
一本ピーンと通ってるように感じて、景綱さんのお墓らしいのかなと思います。

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元和元年(1615)10月14日、景綱は59歳でその生涯を閉じました。
悲しんだ政宗は自らの愛馬を下賜、棺を引かせて景綱を見送ったそうです。

遺骸はこの傑山寺に埋葬され、敵にあばかれないようにあえて墓石は建てず、
一本杉を墓標にしたといわれています。「傑山寺殿俊翁常英大居士」。

晩年には肥満し、糖尿病を患っていたのではないかと言われる景綱さん。
悲しんだのは政宗ばかりでなく、慕った家臣が6名も殉死したのだとか。

子供が先に生まれたからって殺そうとするくらい政宗ラブすぎだから、
景綱さんより政宗の方が先に亡くなっていたら・・くわばらくわばら。

この後、分骨された愛宕山の廟所にもお墓参りをするので、
景綱さん妄想はひとまずこの辺にしておきましょうw


それにしても政宗ラブすぎwww



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| 武将の墓 | 19:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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寒松院の藤堂家墓地

三重県津市の寒松院には高虎一族の眠る藤堂家墓地があります。

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高虎さんの法号「寒松院」がついているのでデカいお寺を想像したんだけど、
地点登録してナビを頼りに車で走っても通りからは寺らしきものが見えず、
この辺なのにおかしいな~と思いつつ、信号で止まった横に墓所みっけw

でも大通り沿いなので車が停められず、付近を2週もウロウロした挙句、
やっと裏の入り口を見つけて車を停め、わざわざ表に戻ってきた次第。

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寒松院は藤堂家の菩提寺で、こちらの墓所には津藩と支藩の久居藩の藩主の墓が
並んでいます。津藩は初代高虎から10代までの藩主、久居藩は津藩の藩主になった者を
のぞいた藩主、そしてそれぞれの家族も一緒に眠っているそうです。(案内板より)

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こちらが初代高虎さんの五輪塔。2代高次が建立した昌泉院というお寺に高虎を祀り、
法号をとって寒松院と改められ、以降、藩主の菩提寺として藩費で維持されたそう。
写真だと分かりづらいかもしれないけど、結構大きくてなかなか迫力あるのよ。

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で、高虎さんの隣が松寿院の五輪塔。高虎夫人って書いてあるけど松寿院は側室。
正室は四天王寺でお墓参りした久芳院さんの方。高虎より先に亡くなっているから
まだこちらの墓所はなく、当時、津城が見えた四天王寺に葬られたんでしょうね。
松寿院は2代高次を生んだ生母ってのもあるんでしょうけど何か切ないようなw

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墓域の裏にひっそりあるのが寒松院の本堂!?というかただのお堂ね・・建物はこれだけ。
しかもこのお堂自体、あちこち支えられて何とか建ってるような状態・・いいのか津市?
空襲で全ての建物が焼失し、戦後規模も縮小されてこんな感じになっちゃってるそうな。

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伊予松という碑と小さな松の木が植わっていました。高虎が津に入る前の今治から
移したという松・・もちろん何代目かの後植えだろうけどコレも取ってつけたよう(´Д`)


後から知ったのでワタクシは見逃したんだけど、七代高朗公(たかあき)の墓碑には
空襲で受けた爆撃の跡が残っているそうな・・近代史ってリアルすぎて怖っ!!



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| 武将の墓 | 20:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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龍雲寺の武田信玄の霊廟

長野県佐久市の龍雲寺には武田信玄の霊廟があります。

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鎌倉時代の始めに臨済宗のお寺として建立されたものが戦火で荒れ果ててしまい、
永禄3年(1560)信濃に入った武田信玄によって再興されました。今は曹洞宗のお寺です。
信玄は信濃に出陣の際は必ず龍雲時に詣で、戦勝祈願をしたんだそうですよ。

総門にかかっている「東山法窟」という扁額。これ正親町天皇の勅額なんですって。

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立派な山門がドーン!。古刹っぽさ満載で安定感もバツグンですわ。
屋根にも扁額の下にも武田武田・・武田の紋がずらり。風格ありすぎですw

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信玄の霊廟を見に行きます。本堂右手の渡り廊下の奥なのでくぐりましょう。

昭和6年(1931)、寺の玉垣の支柱が壊れて修復のために掘った場所から
信玄のものと推測される遺骨や短刀、象牙造りの袈裟環が発掘されました。
それをお寺が霊廟を建てて大切に祀っている・・ものなのだそうです。

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茶釜が出土したという場所には五輪塔がありました。横の風林火山の案内版には
「信玄公遺骨出土の地」と書かれています。佐久市の観光アピール用みたいです。

龍雲寺から出土した遺骨やら何やらは正式な鑑定をしたのかしてないのか?
その辺がよく分からないんだけど、史跡指定にはならなかったようなんですね。

野田城攻略中に病に倒れた信玄は甲府に戻る途中に駒場で亡くなったと伝えられ、
阿智村の長岳寺に遺体を安置、荼毘に付されたと言われています。

「が」ですよ。長岳寺の灰塚供養塔はもとより、設楽郡にある福田寺にも墓あったし、
甲府市の武田神社近くにも火葬塚あったし、ワタクシまだ未墓参だけど恵林寺もあるしね。
だからいいのよ。信玄クラスのビッグネームならアチコチに墓あったって。
遺髪塚、火葬塚、灰塚、供養塔・・・ようは偲びたいと思う人が多いってこと。

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いいんだよ。学者じゃないから史跡めぐりは妄想と思い込みとロマーンがあれば。 
信玄ファンじゃないけど色んな意味でスゴイとは思うので、敬意をもって合掌です。


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| 武将の墓 | 19:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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岐阜市道三町の道三塚

岐阜市の道三町には道三塚と呼ばれる斉藤道三の墓碑があります。

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道三塚は住宅街の中にあり、色々調べても「岐阜市道三町」という住所だけなので、
ナビで近くに行き、グーグルマップをうろうろ見ながら何とかたどり着きました。
菩提寺の常在寺になかったお墓が、こちらの道三塚ということになっているんです。

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敷地の中央にでーんと生えている大きな木の後ろに道三さんの墓碑はありました。

案内板には「義龍が弟2人を惨殺し道三を隠居に追い込んだ上、戦いを仕掛けたと
言うことになっているが、実際は有力な家臣によって強制的に引退させられ、
家臣の支持を失った道三は最終的に武力対決に至った」と書かれていました。

道三の遺体は崇福寺の西南に埋葬されましたが、長良川の洪水でたびたび流され、
天保8年(1837)常在寺第27世、日椿上人がこの地に塚を移し現在の石碑を建てました。
「道三無念の最期」という伝承が住民の間に残り、この塚には畏敬の念が払われ、
周囲の開発が進む現在においても「道三塚」は守り続けられているんだそうです。

崇福寺というのは近くにある信長父子の菩提所になっているお寺。この後行きます。

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信長公記の記述によれば、義龍と対峙した長良川の戦いで道三は城田寺に逃げ込もうと
したところを討ち取られ、脛をなで斬りにされ鼻を削がれたと伝えられているそうな・・
信長は道三の危機を知りすぐ美濃に駆けつけるも間に合わず、無念の撤退をしています。

道三のお墓はお花が活けられ、「清州城信長鬼殺し」も備えられていました。

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同じく戦国の梟雄と言われた松永久秀もだけど、ワタクシはこの手の人嫌いじゃない。
食うか食われるかの時だもの。自分だったらどこまで悪役になれるかは別として、
こういう生き方も理解はできる。そんなワタクシ三国志なら曹操を絶賛支持です!

岐阜城近くの斎藤道三菩提寺の常在寺、信長父子が眠る崇福寺セットでどぞ!


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| 武将の墓 | 16:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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福蔵寺の織田信孝の墓

三重県亀山市の福蔵寺には織田信考の墓があります。

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福蔵寺は東海道五十三次の47番目の宿場「関宿」の中にあるらしく駐車場がない!
なのでナビで近くまで行き、観光用の無料駐車場に車を停めてちょいと散策。
宿場の町並みを散策するメイン通り沿いにあるのですぐに見つかりひと安心。
通りから奥まったところに山門が・・・車を停める空気の読めなさに泣けます。

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天正11年、本能寺の変で亡くなった信長の菩提を弔うため、信長の三男信孝が
旧家臣大塚長政に命じて創建した天台真のお寺で信孝の菩提寺となっています。

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本堂は昨今はやりのモダーンタイプのやつなので雰囲気はないけど、まぁいいかw
信孝さんのお墓は本堂の左手前の方にあるので、さっさとお参りしに行きましょう。

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信孝さんは織田信長の三男で、天正10年(1582)本能寺の変後の後継者争いで
三法師(信長の孫)を抱き込んだ秀吉と対立。居城であった岐阜城を包囲されて降伏し、
生母や娘を人質に取られてしまいます。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いが起きると
信孝も挙兵するものの柴田勝家らはあっけなく敗退。生母や娘は秀吉に処刑され、
岐阜城を明け渡した信孝は知多半島の野間に幽閉され、自害しました。享年26歳。

自害は兄信雄に命じられてのこと。主筋の信孝を直接殺すわけにいかない秀吉は
アフォの信雄をそそのかして自害に追い込んだんですよ~信雄がもっとかしこけりゃ。

昔より 主をうつみの野間なれば 報いを待てや羽柴筑前

信孝の辞世の句。後からの創作とも言われるけど、秀吉を恨んで憎んだ信孝の
気持ちはよく表れていると思います。信孝は切腹の際、はらわたをつかみ出し
床の間の掛け軸に投げつけたらしいから「恨み骨髄に達す」・・悔しいよね。

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信孝の法号「龍厳徳公大禅定門」が刻まれた墓石は新しいものです。

自害した信孝の首は神戸城で受け取りを拒否されたため、旧家臣大塚長政が福蔵寺に運び、
手厚く葬られ菩提寺となりました。信孝さんのお墓は自害した知多半島にもあります。
自害したお寺などもあるというので、そのうち行ってみようと思っています。

アフォ兄と違って男気と気概のあった信孝さんに合掌~信雄はつくづく残念な人です。



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| 武将の墓 | 17:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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宗安寺の木村重成の首塚

滋賀県彦根市の宗安寺には木村重成の首塚があります。

木村重成は大阪夏の陣で華々しく散った凛々しすぎる若武者。
女装しても気づかれなかったという噂のある超イケメンらしいけど、
ワタクシが食いついてるのはソコじゃないですw

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宗安寺は浄土宗のお寺で、井伊直政が箕輪十二万石を与えられた時、正室東梅院の
父母の菩提を弔うために安国寺として建立され、関ヶ原後の転封に伴い佐和山の麓へ。
そして彦根城築城の際、現在の場所に移されて宗安寺と改名されたんだそうです。
お寺の門は佐和山城の表門を移築したものなんだそうです。

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まずは本堂の横のお堂にある「血染めのすすき」。重成の首をくるんでいたすすきが
佐和山に根付いたもので、移植を繰り返しながら宗安寺に落ち着き、今フサフサしています。

木村重成は大阪冬の陣が初陣ながら井伊直孝を相手に戦って戦功をあげ、
和平交渉では徳川方への使者も務めました。そして大阪夏の陣で再び井伊軍と激突。
堀を埋め立てられた大阪方が勝機をつかむには積極的に打って出るしか道がなく、
重成は河内方面へ出撃し、激闘の末、庵原助左衛門に討ち取られました。享年23歳。

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重成の首は偶然その場に居合わせた安藤長三郎が「まだ功名がないので頂戴したい」
と申し出て譲り受け、その場に生えていたすすきに来るんで刀と共に持ち帰ったのだとか。

重成の首と言えば首実検をした家康がいたく感動したという逸話が有名。

重成の髪から焚きこめられた香が漂っていることに気付いた家康は、
「見苦しくないよう香を焚きこめたのはよき勇士の嗜みである」といい、
また兜の緒が解けないよう緒の端を切り落としてあることにも気づくと、
討死を覚悟していた証、立派な勇将であると褒め称えたと言われています。

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墓所を入って右奥へ進むと重成公首塚。お盆だけどお墓参りの人はいなくてひっそり。
ワタクシ的に大阪の陣では幸村さんに続き、あっぱれ度、切ない度、惜しい度の高い重成さん。

夏の陣でやっと2度目の出陣ながら、戦いぶりももちろん堂々として素敵だけど、
出陣前に髪に香を焚きこむだけじゃなく、首を取られた時に食べ物が出るのは見苦しいと
食事までも慎んだと言われる・・若いのに武人としての生き様や潔さに心が震えます。

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こちらが木村長門守重成公の首塚。首実検の後「懇ろなる弔いをせよ」との命を受け、
首を持ち帰った安藤長三郎が自家の菩提寺である宗安寺に手厚く葬ったんだそうです。

しかし公然と敵方の武将の墓を建てるわけにいかず安藤家の墓所に埋葬して塚を建て、
明治維新までは代々「先祖の墓」と言い張ってひそかに守られていたのだとか。
奥に3つ並んでいるのが安藤氏のお墓。代々の安藤氏の心意気もあっぱれです。


儚いような、それでいて一瞬の華やかさや鮮やかさのインパクトはものすごく・・
悲しくて美しいってこういうことをいうのかしらね。首塚の前でそんなことを思いました。


彦根城からキャッスルロード沿いにある宗安寺。
お土産や食事で通りを歩いたらぜひチェックしてみてください。






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| 武将の墓 | 19:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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上行寺の藤堂高虎一族歴代墓所

三重県上野市の上行寺には藤堂家歴代墓所があります。

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伊賀上野城に車を置いたまま、上野寺町まで歩いて10分もかからなかったかと。
雨の心配をしながらわざわざ来たのは、藤堂家の菩提寺を訪れるため。
地図を見ながら寺町までたどり着くと、通りの入り口に案内があって一安心。

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上野寺町の入り口にあるのが上行寺(じょうぎょうじ)。藤堂家の菩提寺です。
1588年、高虎さんが初めて城持ち大名になった紀州粉河で創建され、
高虎の転封に伴なって伊予、そしてこの地に移された日蓮宗のお寺だそうです。

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お盆中だったけど雨上がりでお参りする人影もなくひっそりとしていました。
本堂も新しく綺麗な上、アスファルト敷きで古くからある雰囲気はかなり薄め。

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本堂右手の方に藤堂家歴代墓碑の並ぶエリアがありました。墓域はすぐわかったものの、
そういやワタクシ、高虎さんの位置チェックしてこなかったわ・・と一瞬思ったんだけど

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正直、○代目の何とかさんに興味ないので、高虎さん墓碑めがけてまっしぐら!

何度も主君を変えた末、家康に従い、外様ながら絶大な信頼を得ていた高虎さんは
寛永7年(1630)10月5日 江戸の藩邸で亡くなりました。享年75歳。

高虎さんは家康が亡くなった時、家康と同じ宗派になるため日蓮宗から天台宗に
宗派替えしてるんです。その時に天海から寒松院という法号をもらったらしく、
こちらの墓碑には「寒松院殿道賢高山権大僧都」という戒名が書かれています。

高虎さんは世渡り上手とか言われるけど、ここまで徹底してたら何でもいいよw

高虎さんの墓碑は綺麗にお手入れされて、お酒や新しいお供えものも。
上行寺は日蓮宗なので「南無妙法蓮華経」と手を合わせておきましたわw

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上野寺町には他にも妙典寺など高虎が建てた的なお寺があるようなのですが
ワタクシは墓参り目的なのでこちらだけで終了。ご興味のある方は是非コンプリでw


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| 武将の墓 | 20:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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四天王寺の信長生母と高虎夫人の墓

三重県津市の四天王寺には信長生母と高虎夫人の墓があります。

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四天王寺は曹洞宗のお寺で、推古天皇の勅命で聖徳太子が建立したと伝えられている古刹。
山門は寛永18年(1646)に再建されたもので、戦時の空襲を免れて今に残っているのだとか。

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立派な中雀門。創建以来、兵乱や戦火で焼失と再興を繰り返していた四天王寺は
元和5年(1619)津城に入国した藤堂高虎が改築、2代藩主高次が寺領を寄進したことで
寺領を取り戻し、藤堂家ゆかりの寺として今に続いているそうです。

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山門、中雀門と江戸時代の再建ながら年季の入った建物が続いていましたが、
戦後、再建されたという本堂はツルッとしすぎて何だか味も素っ気もない感じ。

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高虎夫人「久芳院」と信長生母「土田御前」の墓所は本堂左奥の墓域の奥のようです。
この案内版しかないので、余計な曲がりとかしないでまっすぐ進んでいきましょう。

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ずっと進んでいくと石段見えます。これを登ったところにお二方の墓所があります。

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まずは石段登って右側にある織田信長の生母「土田御前」のお墓まいり。

土田御前は信長の弟信行を寵愛したため、信長とは不仲だったと言われますが、
兄弟で争った末、信行が誅殺されると信長に引き取られ共に暮らしていたそうな。

本能寺の変で安土城から逃れた土田御前は孫である織田信雄の元に身を寄せ、
信雄が改易されると信長の弟信包を頼って安濃津城に移り、1594年に死去。
ここ四天王寺に祀られました。報春院花屋寿永大禅尼。享年は・・わかりませんw

土田御前ってドラマや小説で描かれ方がイヤな感じにされることが多いよね。
母親に遠ざけられたことが信長の人格形成に大きな影響を与えたって説もあるしね。
本当の人柄なんかは分からないけど、ワタクシはたぶん嫌いなタイプの女性ですw

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で、土田御前の隣り・・石段登って左側にあるのがこちら高虎夫人「久芳院」のお墓。

高虎夫人は一色修理太夫義直の娘。高虎が26歳の頃に娶ったんだそうな。
2人の間に子供は生まれず、高虎は長いこと側室を持たずにいたようですが、
後に長高連の娘、松寿を側室に迎え、44歳の時に出来たのが嫡男の高次でした。

側室を自らも勧めたという久芳院は慶長20年(1616)高虎に先立ち津城で亡くなり、
四天王寺に葬られました。久芳院殿桂月貞昌大禅定尼。

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高虎夫人の墓所は前の通路が狭くて撮りポジ取るのが難しい~なので角度強引!
それにしても普通の墓石っぽいし区画も狭いのでイマイチ雰囲気は出ないですw

ちなみに高虎さんの側室、松寿の墓は寒松院の藤堂家墓所にちゃっかり。
高虎より先に亡くなったとはいえ、自分だけ信長母と四天王寺・・微妙に気の毒なw


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| 武将の墓 | 08:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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崇福寺の織田信長父子の廟所

岐阜市の崇福寺には織田信長父子の廟所があります。

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崇福寺は文明元年(1469)に美濃守土岐成頼とその家臣斎藤長弘によって
創建された臨済宗のお寺で、現在は織田家の菩提寺となっています。

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こちらのお寺は「安禅はかならずしも山水をもちいず心頭滅却すれば火もまた自ら涼し」
で有名な快川紹喜が住職を務めたこともある古刹。余談ですが快川紹喜はこちらにいる時、
武田信玄に招かれ甲斐の恵林寺に行き、後に織田信忠によって焼き殺されています。

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崇福寺はお寺の敷地内に入るのは自由拝観なんだけど、信長父子の廟所と本堂内を見るのに
拝観料がかかります。この200円をケチってはいけません。これを見なきゃ来た意味なし!
ってことで書いてあるとおり呼び鈴を押して受付をし、中に入れてもらいます。

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本堂内には色々なお宝が展示されているのですが撮影禁止なので血天井だけご紹介。
関が原合戦で西軍の猛攻を受けて落城した岐阜城の床板が血天井として張られてます。
当時の岐阜城主は信長の孫信秀。38名の城兵が戦死したそうで、その菩提を弔うため、
血痕の付着した床板を天井に張って供養しているのだそうです。リアルでなんか怖ーっ!

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本堂内の見学を終えると、信長父子の廟所をご覧くださいと入り口を案内されます。
入り口に生えているリュウゼツラン(竜舌蘭)が違和感だけど、まぁ気にせずに。

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何を表現したものかワタクシにはさっぱりわかりませんが、趣のあるお庭がありました。
お寺のすぐ前は大通りなんだけど、奥まった庭園は静寂そのもので気持ちが落ち着きます。

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お庭を回っていくと入り口があり、この先が信長父子の廟所があるようです。
本能寺の変で斃れた信長の遺体はなく、あちこちに墓や廟所はいくつもありますが、
こちらの廟所はらしい雰囲気で、高野山安土城での墓参りより厳かな気持ちになります。

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入って正面にあるのが信長父子の墓碑。縦に両分して父子の法名が左右に刻まれています。
信長が右に摠見院殿贈一品大相刻圀泰岩大居士、左に信忠の大雲院殿三品羽林高岩大禅定門。

案内板によれば6月2日本能寺の変後、6日には信長の側室お鍋の方から崇福寺に
書状が送られており、直ちに崇福寺に安置された・・とありました。

ワタクシそれを読んで正直「えっ何が安置された?」と思ったけど、それはいわぬが花。
教育委員会とか何やらが書くこういう説明ってのは本当にうまいな~と思いますねw

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墓碑の隣には立派な位牌堂もありました。中には入れませんが、この中には天正10年10月
京都の大徳寺で行われた葬儀で使われた位牌が安置されているんだそうです。

遺骨だ遺髪だがあるわけじゃなくても、お墓って故人を偲ぶためのものでもあるから、
あちこちにたくさん墓やら供養等やらのある信長サマはやっぱすごいってことよw
そう思ってオーマイカリスマ信長サマの墓碑と位牌堂に丁寧に手を合わせました。


斎藤道三の墓碑がある道三塚はここからすぐ近く。
拝観した後はふら~と歩いてぜひセットでご覧ください!



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| 武将の墓 | 15:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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前田家歴代藩主が眠る野田山墓所

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石川県金沢市の野田山墓所には前田家歴代藩主の墓所があります。

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野田山墓地はでかいんです。墓域のあちこちに入り口がいっぱいあるんです。
戦没者墓苑とか軍人の墓とか一般ピープルの墓とかあって分かりづらいったらヽ(`Д´)ノ
ウロウロした挙句それっぽい入口見つけて勇気を持って進み、やっとたどり着きましたw

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さすが本拠地の前田家墓所。利家やまつのみならず、利長さんや豪姫やら・・
前田オールスター勢ぞろいという感じになってるので大場所だけお参りする作戦。
敷地をキューキューで使わない、こしらえはケチケチしない前田イズムが感じられます。

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で、利家とおまつこと芳春院のお墓にお参り。墓所入って正面ドーンが芳春院のお墓、
旦那の利家さんと倅はその両サイドという布陣。パワーバランスが伺えますw
嫁もしくは母上を下にも置かなかったのね、おまつさんは百万石の功労者なんですもの。

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おまつこと芳春院さんのお墓がこちら。関ヶ原合戦の後(利家が亡くなった翌年)、
加賀藩存続のため進んで人質となって江戸に行った女傑ですよ。おまつさんは。
15年も江戸で加賀藩のために心を砕き、元和3年(1617)金沢で没。享年71才。

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で、こちらが芳春院さんの横っちょにあった前田利家さんのお墓。
14歳で信長に仕え、生涯40数回の戦で功績をあげ「槍の又佐」の異名を取った
加賀百万石の藩祖。時節がら黒田軍師官兵衛にスポット当たってますが、
秀吉が天下取れたのは、利家の存在も大きなものだったと思います。

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利家は慶長4年(1599)大阪城で死去。享年62才。関ヶ原の合戦が起きる前年のことでした。
利家の死をきっかけに家康はなりふり構わず天下取りへの道を突き進みます。
家康の腹を察していた利家は「自分の死後、三年は上方を離れるな」と嫡男利長に遺言します。
しかし利長は家康の口車に乗せられてわずか3ヶ月で金沢に帰ってしまったため
家康に交戦の口実を与えることとなり、母の芳春院を人質に出すハメになったのでした。

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その利長さんの墓所がこちら。奥方または母上を挟んで父と倅が対峙するポジですw
利家さんはどう思っているか分かりませんが、案外、利長が凡庸でよかったのかも?
利家さんの遺言どおり、利長さんが大阪に3年居座ってても結局は家康に貫禄負けして、
結果はそんな変わらないどころか、百万石はなかったような気がしないでも・・www

野田山の前田家墓所は金沢城からも見えるような場所。
前田めぐりをする際はぜひセットでどうぞ。独特の空気感がありますよ。




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| 武将の墓 | 20:09 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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