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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

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正源寺にて鮭延秀綱の墓参り

山形県最上郡真室川にある正源寺には、鮭延秀綱のお墓があります。

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お寺は線路を超えたところに。タイミングが良ければ奥羽本線が見られますよ。
鮭延さんのお墓は総門をくぐらず、左手の墓域を進んだ奥の方です。


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境内の外だし案内板とかも特にないので、下調べしてなかったら見つからなかったかも。
お墓の前までくると標柱が立っているので一安心です。


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横手城主小野寺氏に仕えた佐々木貞綱の子として生まれた鮭延さんは
庄内大宝寺氏の侵攻を受けた際に捕らえられ、幼少期は小姓として仕え、
その後、大宝寺から解放されると、家督を継いで鮭延城主となりました。

天正9年(1580)、出羽を平定した最上義光の侵攻を受けると激しく抵抗するものの、
調略による切り崩しを受けて降伏。本領を安堵されて最上氏に仕えると、
最上領北方の要として、旧主小野寺氏攻略など交渉や戦の両面で活躍しました。


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慶長5年(1600)、関ヶ原に呼応して起きた慶長出羽合戦では直江兼続率いる
上杉軍2万に包囲された長谷堂城へ救援に駆けつけ、
城将志村光安を助け、獅子奮迅の働きで上杉軍の本陣に迫る活躍をします。

関ヶ原の後、最上義光がこの戦功により57万石の大大名になると、
秀綱も真室城1万1500石を与えられ、重臣として最上家を支えていきます。
しかし義光の跡を継いだ家規が36歳で亡くなると、家督をめぐって家中は対立。
お家騒動に発展し、最上家が改易されると、秀綱は老中土井利勝の預かりとなりました。


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土井利勝預かりになった鮭延さんには、乞食をしてでも殿を養いたいって家臣が
20人もついてきて、晩年までずっと支え続けたんですってよ。
かなり貧しい時もあったみたいだけど、肩寄せあって清く正しく暮らしていたそう。


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「正保3年6月古河卒去」の文字が。鮭延さんが亡くなったのは茨城県古河市。

鮭延さんは後に土井利勝に5000石で召し抱えられるんだけど、支えてくれた家臣に
全部分け与え、自分は家臣の家を1日置きに転々として暮らす晩年を送りました。

鮭延さんは生年がハッキリしないんだけど、おそらく享年は80代かと。
家臣たちは大いに悲しみ、鮭延寺(けいえんじ)にお堂を建て菩提を弔ったそうな。

武勇に秀でつつ、温厚篤実で家臣に慕われた鮭延さん。ステキ武将すぎ。

古河市の鮭延寺にも鮭延さんのお墓があるので、そっちもお参りにいかないとね。

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| 武将の銅像 | 16:03 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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豊国神社の加藤清正銅像

長浜市の豊国神社には加藤清正の銅像があります。

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長浜城と線路を挟んで反対側に建つ豊国神社。慶長3年(1598)に秀吉が亡くなった後、
長浜の人々が京の豊国廟にならって建立したもので、その後、大阪の陣で豊臣家が滅んだ後、
徳川幕府によって一旦、取り壊されるものの、町民が商売の神様「恵比須宮」を祀りたいと
彦根藩に頼んで一社を建立。奥にこっそり秀吉の像を隠してお参りしてきたそうな。


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現在の社殿は明治31年(1898)、秀吉の300回忌に造営されたものです。
御祭神はもちろん豊臣秀吉。そして配祀神として加藤清正と木村重成も祀られています。


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清正さんの銅像は豊国神社の隣にある、出世稲荷側の参道沿いに建っています。
戦前に奉納された銅像は戦争中の金属供出で台座だけになり、昭和55年に再建されたんだって。


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ワタクシが訪問した時は雨降りだったから、上手く撮れず暗い写真になっちゃいました。
銅像もコンパクトだし、お立ち台が高すぎて、晴れてても難易度は高かったと思うけど・・


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境内には秀吉が長浜城主になった時、清正が寄進した庭石もあります。
秀吉は城内において、「虎石」と呼んで気に入っていたんだって。


長浜城はマストとして、長浜駅前の三成と秀吉の三献の茶銅像、街中の大通寺も。
いや、なんなら石田町の石田会館行って三成銅像なんかもセットで見たら最高です!



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| 武将の銅像 | 16:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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山形城の最上義光の銅像

山形城と城前の最上義光歴史館前には最上義光の銅像があります。

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山形城はお金がかかっているので、復元された門とかも見どころなんだけど、
今回は最上さんを目指してやってきたので、ほかには目もくれずかけよりますよ!


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長谷堂合戦で陣頭に立つ勇姿を描いたコレ、武将銅像の中で1、2を争うかっこよさ! 


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はぁはぁ(*´Д`)  ただうっとり眺めるべし。言葉はいらない。


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正面からもまたコレ、かっこいいん! ダーティな人にみられがちだけど、
家臣からも民からも慕われ、今だって山形県民のヒーローですよ!!


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お城の近くにある最上義光歴史館の前にも銅像があるのでお見逃しなく。
ちなみに最上義光歴史館は無料! 絶対に中も見た方がいいです。


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せっかくだし、武将銅像には違いないから見逃したくはないんだけれど、
にしても普通すぎて、こちらの義光さんには全くそそられませんw


山形城の近くには、義光の眠る光禅寺、義康の眠る常念寺、駒姫の眠る専称寺もあります。



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| 武将の銅像 | 13:20 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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韮崎市役所の武田信義の銅像

韮崎市役所の建物入り口前には、武田信義の銅像があります。

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信義公銅像は建物入り口横。一心不乱に向かいましょう。

信義さんは新羅三郎義光のひ孫。武田氏初代・・信玄のご先祖様です。


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豪気な感じで堂々たるいい銅像です。


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武田ってやっぱ濃い!!ってのはワタクシの勝手なイメージです。


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反対から見てもとても素敵な銅像。なかなかのお値段だと思います。


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大鎧着てね。「やぁやぁ我こそは!」ってやってた時代の武士もかっこいいです。


近くには信義のお墓がある願成寺や、元服して武田を名乗った武田八幡宮の他、
甘利さんの眠る大輪寺や新府城など武田関連史跡が目白押し。お見逃しなく!


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| 武将の銅像 | 09:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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蛭ヶ小島の源頼朝と北条政子の銅像

静岡県韮山氏の蛭ヶ小島には源頼朝と政子の銅像があります。

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源頼朝が配流されて20年近くも暮らしたという蛭ヶ小島。
今は史跡公園になっていて、碑や銅像なんかがあるちょっとした観光スポットみたい。

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田畑が広がる富士山丸見えの風光明媚な風景は当時とそんな変わんないんじゃない?

1159年平治の乱が起き、平清盛と争って敗れた源義朝は殺されてしまいます。
義朝の三男頼朝は捕えられ、池禅尼(清盛の継母)の助命で蛭ヶ小島に配流。
1180年に以仁王の命で平氏討伐の兵をあげるまで20年もこの地で過ごしました。

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頼朝と政子「運命の2人」な像w 頼朝との仲を父時政に反対された政子は
他の男に嫁ぐはずのところ逃げ出して、愛するダーリンの元へ行ったのよ。
後に尼将軍と呼ばれる政子さんは若い頃から気性の激しい女性だった模様。

頼朝が浮気すると相手の家をメッタメタに破壊させたともいうし( ;゚Д゚)
北条を守るため自分で生んだ長男を幽閉して殺しちゃってるしね(((( ゚Д゚))))
見方は色々だろうけど、とにかく腹くくったら何でもやる強ーい女性だわw

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怖い奥さんがいるのに懲りずに浮気を繰り返す頼朝さんも大したもの。
やっぱそのくらいの図太さがないと、源氏再興や武家政権樹立出来ないよね~
頼朝と政子って色んな意味ですごい夫婦だと思うけど、ワタクシは遠慮しますw

銅像としては雰囲気なくてイマイチ。


近くにある北条早雲の韮山城や北条時政の墓所がある願成就院もセットでどうぞ!

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| 武将の銅像 | 13:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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功山寺の高杉晋作の銅像

山口県下関市の功山寺には高杉晋作の銅像があります。

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元応2年(1320)に創建され、足利尊氏や大内氏の帰依を受けて隆盛を誇ったお寺。
総門は創建当初、室町時代に建てられたものとのことで年季があふれ出ています。


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毛利元就に敗れた大内義長が仏殿で自刃した大内氏終焉の場所でもあり、
高杉晋作が門前で義兵の旗挙げした維新発祥の地でもあるという古刹です。


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大内氏滅亡後、毛利秀元が修復、寺門を興隆して功山寺と改称したそうな。

ワタクシこの時、出張で下関に行って思いがけなく空いた時間が出来た所、
お客さんが少しでも観光してってと案内してくれたから情報とか何も知らないw

おまけに史跡の宝庫下関で、限られた時間めいっぱい案内してもらったので
1ヶ所の滞在時間10分とかw 天気も悪くてスマホでせかせか撮るから
せっかくあちこち「立ち寄れ」たのに、いい写真がないのが残念だったな。


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こちらが境内にある高杉晋作の銅像。武者ぶりはイマイチだけど頭よさそうw
ワタクシ幕末とか維新は戦国ほど興味がないので食いつけないけど(*°∀°)=3


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奇兵隊を結成したり活躍しながら若くに亡くなったよね。人気あるよね。
それは知ってるけど・・・ワタクシどちらかといえば佐幕に寄せちゃう方なんでw



さて。次のみもすそ川公園で、義経の八艘飛び銅像を見に行きますか!


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| 武将の銅像 | 07:58 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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塩山駅北口の武田信玄

山梨県甲州市の塩山駅北口に信玄公の銅像があります。


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塩山駅は信玄のお墓がある恵林寺の最寄駅。
ロータリ前の通りからの遠目だと、思ってたのよりだいぶ小さく見える。


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甲府駅前のどっしり濃いやつと違って、鎧兜なしの入道姿。なんかかわいいw
塩山ライオンズクラブ寄贈で、長谷川等伯の書いた画を元に造られたんだって。


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佇まいがちょっとかわいいと思ったけど、アップで見たらやっぱ濃い!!
信玄の雰囲気がちゃんと表現されて、武将銅像レベルも高めだと思いました。


コレ見たら次は恵林寺 信玄の墓参りをするざます。


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| 武将の銅像 | 17:14 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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名古屋城能楽堂前の加藤清正銅像

名古屋城にある能楽堂前には加藤清正の銅像があります。

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中村公園の妙行寺熊本城にあるのと同じ「ザ・清正」ポーズの銅像。
もう本当に好きすぎて、不審者と思われるのも構わず前から後ろから
近くから離れたところから何度も何度もしつこくねめまわしてしまいます。


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今回は時間が失敗だった。コレ5月の朝なんだけど日差しの加減がよくない。
ここで清正銅像を綺麗に写真に収めるには昼以降の方がよさそうね。



そのうちリベンジしよ。 また来るからね待っててね(*°∀°)=3


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| 武将の銅像 | 15:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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八戸博物館前の南部師行の銅像

青森県八戸市の八戸市博物館(根城)前には南部師行の銅像があります。

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南部師行は元弘3年(1333)、後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じて陸奥国司として
奥州に下向した北畠顕家に同行し、根城を築いた武将。後に足利氏に破れて討死しますが、
以降、代々八戸を拠点として住み続け、八戸発展の基礎を築きました。

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南部駒にまたがり颯爽としたお姿。この時代の奥州とかはあまり詳しくは知らないんだけど、
北方健三「破軍の星」 若き北畠顕家を支える南部師行の印象は誠実で知的で感じよかった。

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馬が躍動感あって堂々して見えるけど肝心な武将はこじんまりしてますかね・・
遠目に引いてみる方がウットリできる騎馬像です。


博物館の隣には根城跡もあります。こちらもぜひセットで見るとよいです。
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| 武将の銅像 | 09:56 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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常泉寺の豊臣秀吉の銅像

名古屋市の中村公園にある常泉寺には豊臣秀吉の銅像があります。

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この辺りが尾張中村・・秀吉の生誕地だと伝わっているんだそうです。

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境内左手の方に秀吉像があります。お立ち台に関白か太閤かって姿で立ってます。

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ワタクシは太閤さん秀吉よりも、信長の下でサルと呼ばれながら
知恵を絞ってバンバン出世していった頃の秀吉の方が断然好きです。

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秀吉銅像の隣には産湯の井戸もあります。それが本当かは別として、
尾張名古屋の中村・・秀吉の出はこの辺りなんだな~と思うとグッときます。


すぐ近くに加藤清正の生誕地「妙行寺」もあります。
超絶かっこよすぎる清正銅像があるので、セットで!
・・いや、むしろ秀吉ちょろっと⇒清正でうっとり♪がおすすめかw




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| 武将の銅像 | 15:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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妙行寺の加藤清正の銅像

名古屋市の中村公園にある妙行寺には加藤清正の銅像があります。

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妙行寺は加藤清正の生誕地にあって、慶長10年(1610)の名古屋城築城の時、
清正が余った余材を寄進して再建したというお寺。清正の信仰した日蓮宗。

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境内正面に清正銅像があります。この銅像は熊本城にも名古屋城にもあるけど、
数ある武将銅像の中で一番かっこいいエクセレントクラスのものだと思っています。

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加藤清正に会ったことなんてあるはずないんだけど、イメージ通りって思っちゃう。
出来ばえが素晴らしいから、どんだけ見てても本当ーーに見飽きないんだよね。

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名古屋城にある銅像と違うのは、兜に前立てがあるところ。
佇まいも加藤清正らしいけど、この面構えも「ぽい」んだよね。ほんとに。ほんとーに。

こうしてブログを書いていても写真に見とれてしまうわ。



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| 武将の銅像 | 23:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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岐阜城の若き日の信長像

岐阜城の駐車場横には織田信長の銅像があります。

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前は岐阜公園の中にあったものが移設され、今は駐車場の横にあります。
門を建てたんで通りに面して目立つところに置いた感じなんでしょうかね。

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こちらは「若き日の信長像」というタイトルがついています。
昭和63年に岐阜市制100周年を記念して作られたものなんだとか。

芸術的な感じはしますが、正直ワタクシは武将銅像としてはあんま好みじゃない。
さすが馬の躍動感とか若いエネルギーあふれる感じはあるんだけど、
信長本体がね・・あまりにちがいすぎるというか、違う顔何だよなあ。

なんでだろう? どっかで見たよな・・と思って色々調べてみたら
長崎平和記念像を作った北村西望さんという彫刻家の作品なんだそうです。

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ワタクシが行った日はあいにくの雨。晴れていれば背後の金華山山頂に
岐阜城天守が見える写真が撮れます。行ったら是非狙ってみてください!


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| 武将の銅像 | 17:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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弘前城の津軽為信の銅像

弘前城東門前には津軽為信公の銅像があります。

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弘前藩初代藩主だけど岩手の出身ですw 元は大浦姓で南部家に属していましたが、
跡目争いで南部家が衰えると反旗を翻し、津軽地方を中心に勢力を築き上げ、
津軽為信と名乗りました。地味だけど津軽で頑張ってた為信さんですw

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立派なひげがあったことから「髭殿」と呼ばれていたらしい為信さん。
西国中心に見る戦国史にバンバン出てくることはありませんけど、
中央の大名と親交を持って秀吉に通じ、所領安堵されていたりとか、
関ヶ原では秀吉の小姓をしていた嫡男を西軍につかせて自身は東軍につき、
どっちが勝っても家名を残す真田と同じ策を取るなかなかのしたたかオヤジ。
津軽弁のなまりがきつくて、田舎大名と揶揄され悔しい思いもしたようですが。

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武将銅像としてすごく素敵な類だと思います。威風堂々とした感じもいいし、
津軽さんの立ち姿が何とも言えず凛としてかっこいいんですよね。

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こちらは弘前城前にある物産館?の中にいた津軽さん。
ねぶたの展示の隣におりました。目線の高さに見られるのがいいw

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たぶんね、髭はもっとわっさー美しく長かったんだと思うのw
でも武将銅像としては面構えもよく、こちらのもよいです。


弘前城に行ったら、津軽為信さんの銅像2体も忘れずご覧くださいませ。

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| 武将の銅像 | 09:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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傑山寺の片倉小十郎景綱の銅像

宮城県白石市の傑山寺には片倉小十郎の銅像があります。

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短い参道を抜けて本堂前に来ると入り口に鎮座する片倉景綱さんのお姿が。
あちこちで色々武将銅像を見てるけど、こういうパターンは珍しいのではないかと。

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伊達家中では「武の伊達成実」と並び「智の片倉景綱」と言われた景綱さんは
秀吉から5万石で召し抱えたいという話が来るほど高い評価をされていたようです。
戦では常に先陣を務めたというから、景綱さんは智勇に優れた武将だったんですね。
政宗も景綱さんの言うことは素直に聞き入れることがほとんどだったような。

景綱さんの銅像は平成24年に完成したもの。銅像出来てから来てよかったわw
御影石も手入れしてんでしょうね。銅像も綺麗なら、台座もピッカピカです。

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何しろ政宗が「第一」とにかく「大好き」で人生を政宗に捧げた景綱さん。
病を患って飛び出た政宗の目をえぐりだしたとか、敵を深追いして窮地に陥った
政宗を助けるため「我こそ政宗」と乗り込んで大暴れして救い出したとか・・

また政宗より先に子が生まれたことを恐縮&憚るあまり実子を殺そうとして、
政宗に説得されてようやく思いとどまった、なんてエピソードも有名です。

景綱さんって冷静ながら政宗に関しては熱血みたいなイメージなんだけど、
こちらの銅像は何がベースなんだろう? 穏やかに白石市内を見つめる表情。
ちなみに危うく殺されそうになった小十郎ジュニアは大変な美少年だったそう。
となると景綱さんもそこそこイケメンとか・・銅像から想像はできませんがw


こちらの傑山寺には景綱さんの一本杉の墓標があります。
政宗ラブを感じつつ、ぜひセットでお参りをしてください!


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| 武将の銅像 | 20:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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青葉城の伊達政宗の銅像

宮城県の青葉城本丸跡には伊達政宗の銅像があります。

2014年11月時点では本丸大広間の表面展示整備をしていて立ち入り禁止エリアが。
銅像はどうなった!?と思ったら廻りこんで見れるというのでひと安心でしたが・・

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雨で最悪な・・銅像ってのは青空じゃないと映えないね~細部もよく映らないし。
雨じゃなくても訪問時間によって逆光だったりなんだり、銅像ハントは難しいです。

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加えて残念なのが後ろの松の木。枝葉がないと何だか間が抜けて見えるよ(´Д`)
少し前に撮られたぽい写真は枝があったから切られて間もないんだな、きっと。


あまりに有名すぎる銅像だし、写真の出来もあまりに悪いので終了w

そのうちまた晴れが多い時期にでも再訪しようと思います。
その時は方向調べて順光になるような時間ももちろん狙ってねww


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| 武将の銅像 | 15:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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龍譚寺の石田三成の銅像

彦根市の龍譚寺の参道には石田三成の銅像があります。

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龍譚寺は奈良時代(734)、行基菩薩によって遠江の浜名湖北井伊谷郷に開基された臨済宗の
寺院であったものを、井伊直政が佐和山城主になったのを機に山麓に移築開山したんだそう。
伊井家の位牌があり、歴代藩主も立ち寄ったという伊井家ゆかりの古刹です。

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この龍譚寺は三成の居城だった佐和山城跡への登城口があるので、
山門にはこのような手書きの説明が。山道は足場悪いので注意が必要です。

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龍譚寺は「ふだらくの庭」と名付けられた枯山水の素晴らしいお庭がありました。
拝観するとお庭の他、伊井家歴代の位牌や佐和山城の襖絵、書院なども見られます。

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参道の途中にある石田三成の銅像がこちら。

善政をしいていた三成は民から慕われていたので、後に入って佐和山城を壊すとこから
始めた直政・直孝ら井伊家の人々は後のちまでかなり神経を使ったんでしょうね。
龍譚寺には三成の肖像や遺品も所蔵されているそうです(見れなかったけど)

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若干、濃いめの三成さんです。ワタクシは長浜の石田会館の銅像の方が好きですw


彦根城から少し離れているのですが、セットで拝観することをお勧めします!




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| 武将の銅像 | 15:15 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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高岡市内の前田利長の銅像2連発

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富山県高岡市内には、高岡城跡の騎馬像の他にも前田利長の銅像があります。

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こちらは国宝瑞龍寺から八丁道を入ったところにある利長さん・・・
高岡城でイケてる騎馬像バージョン見てきたばっかなのでちんまくてイマイチ。


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お相撲さんチックな顔が残念な・・・法令線もかなり目立ちます。
ディティールが雑とかいうわけじゃなく銅像としてはちゃんとしてるけどねw


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お相撲さんに比べてとっても秀逸すぎるのが、高岡駅ロータリーにいる利長さん。
ライトアップの仕掛けとともに鎮座してますからね。ああ・・夜の姿を見たかったわ。


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高岡城の騎馬像もよかったけど、なんかこの利長さんかっこいいじゃん!!
2割増じゃなくても、むしろこっちのがイケてるぜ。やっぱポーズって大事だね。


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後ろの方に停まってるタクシー運ちゃんの視線が痛いけど、前から後ろから散々なめまわし、
超絶利長さんを心行くまで堪能w 3体の利長像の中で面構えも一番リアルでいい。
だって同じ法令線でもお相撲さんの方とは違うでしょ、生き様の皺が表現されてる感じで。



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| 武将の銅像 | 14:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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日野町の蒲生氏郷の銅像

滋賀県蒲生郡日野町には蒲生氏郷の銅像があります。

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銅像があるのは「雲雀野公園」、住所検索はしづらいけど国道307号沿いで
このドデカイ看板が立っているので案外すぐ見つかりました。

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駐車スペースは公園の裏にあったのでそちらを利用。遠巻きにして銅像に近づきます。
氏郷さんはワタクシの好きな武将ベスト10に入るのでちょっとドキドキしながらw

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六角氏の家臣蒲生賢秀の子で幼名を鶴千代といい、13歳の時に織田信長の元に
人質として出されるのですが、ひと目で聡明さを見抜いた信長にとても気に入られます。
信長の烏帽子親で元服すると冬姫を与えられ、娘婿として重用されました。

本能寺の変後は秀吉の元で小牧長久手の戦いや伊勢平定で功を挙げ、伊勢国松ヶ島12万石、
会津40万石、後の加増で92万石の大大名となりますが、その4年後、40歳の若さで死去。

豊臣五大老と並ぶ大身だったけど、若くして亡くなり関ヶ原前後出番がないので
いまいち印象薄くなりがちなのが気の毒なのよね。

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濃いめの分厚いオッサンフェイスがワタクシのイメージを壊しかけているw
鳳の雛とか麒麟児と表現される氏郷さんって若くして亡くなってることもあるせいか、
ワタクシの中では勝手にだけど、凛々しい若武者のままのイメージなんですよねw

鯰尾の兜をかぶり戦場では常に先頭に立って敵に向かう勇猛さがある反面、
和歌や茶道を嗜む文化人でもあった氏郷さん。利休七哲の一人としても有名です。
キリシタンで洗礼名はレオン。ジュストの洗礼名を持つ高山右近とは仲良しだったとか

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後姿も・・・蒲生郡日野町は氏郷さんの出生地なので銅像の他、
遺髪塚のある信楽院、産湯の井戸、日野城跡などゆかりの場所が多いの。
地元愛を感じながら、ぜひぜひセットで「氏郷ざんまい」してください。




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| 武将の銅像 | 16:28 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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篠原古戦場 悲しみに暮れる木曽義仲の銅像

石川県加賀市には、悲しみに暮れる木曽義仲と家臣の銅像があります。

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篠原古戦場。古戦場といっても戦国ではなく源平の頃です。

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古戦場といっても広いフィールドではなく公園のようなところなので入れば銅像はすぐそこ。
実盛さんの死を知って悲涙にくれる「木曽義仲 with 家来たち」。さっそく参加しましょうw

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こちらは源氏の大将木曽義仲さん。斉藤別当実盛さんの首を抱いて号泣しているところです。

斉藤実盛は平家物語に登場する平家の武士。当初は源氏に仕えていてその折、合戦で討ち死にした
源義賢の子、駒王丸を匿い木曽に送ります。この駒王丸は後の源氏の大将木曽義仲です。

実盛は平治の乱で源義朝を助けて戦いますが敗北後、時の流れに従って平宗盛に仕え、
領地(熊谷市妻沼)を安堵された恩義を貫き、以降平氏の武士として戦うことになりました。

それから十数年跡、寿永2年(1183)倶利伽羅峠の戦いで源平が激突すると平家は敗北。
源氏の追跡をかわしながら、ここ篠原まで退いたところで総崩れとなってしまいます。

敵の大将がかつて助けた駒王丸・・木曽義仲と知った実盛は恩人として情けを受けることを
よしとせず、たった一騎で源氏方に挑み、見事な討死を遂げる覚悟を決めます。
この時、実盛73才。老武者と見られることを恥じ、白髪を黒く染めて覚悟の出陣でした。

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赤地錦の直垂に萌黄縅の鎧、鍬形兜で出陣した実盛は義仲の家来、手塚光盛と対峙します。
戦いは互いに名乗るのが礼儀。しかし実盛は名乗ることなく戦った末、討ち取られました。

義仲の元に届けられた首を見た家来の樋口兼光は「あなむざんやな、斉藤別当にてそうろう」
実盛であることに気づき涙します。実盛を良く知る兼光は「老武者に侮られないため若く見せて
出陣したいと言っていた、実盛に違いない」と言い、義仲が首を洗わせると白い髪が現れたので、
義仲は首を抱いて人目をはばからず号泣した・・・という「平家物語(巻七)実盛最期」の場面。

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こちらセンターポジで悲しみに暮れる樋口兼光さん。良く知ってる実盛の討死も痛ましいわ、
恩人の死を悲しみまくる主の義仲が居たたまれないわ、しょぼくれる光盛も気の毒だわ・・

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で、こちらが華々しい大手柄から一転、微妙な空気のどん底に突き落とされた手塚光盛さん。
この首もしや取っちゃダメだったとか。名乗らなかったし知らなかったらセーフじゃね?
でも義仲スゲー泣いてるし・・オレ恨まれないよね? 恩賞出ないとかマジありえねぇぇぇ!
と思ってるかどうかは知らないけど、何となく微妙な空気を読んでる表情してますよw

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銅像の前には実盛の兜も。本物は義仲によって実盛供養のため近くにある
多太神社に奉納されていて、なんと国の重要文化財なんですって。

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「義仲 with 家来たち」の銅像前には実盛の首を洗ったと伝えられる首洗池もあります。
ホントかどうかわからないけど、小芝居やってる銅像の前だけに雰囲気はあってよいですw

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こちらは古戦場にある実盛塚。木曽義仲が命の恩人だった実盛の遺骸をこの地に葬り、
設けた塚と伝わっています。支え棒が多いけど、立派な松の木の枝ぶりは実盛の兜の鍬チック。

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松の木の下の方をのぞくと墓石のようなものがあるけど、何かはわかりません。


斉藤実盛の銅像は埼玉県熊谷の妻沼聖天宮にあります。
たまには源平の世界もいいですね。





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| 武将の銅像 | 20:41 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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彦根駅の井伊直政の銅像

彦根駅のロータリーには井伊直政の銅像があります。

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徳川四天王の赤備。気性が粗くてかなり乱暴だったとかも言われるけど、ここはイメージ重視で。
早朝は逆光気味なのがイタイけど、でも今日もかぶりつきで全方向から写真撮影したわw

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騎馬像ってのはカッコよさ数割増しでやっぱりかっこいいですね~
クオリティの高い銅像だと尚さら。鬼武者チックな雰囲気がビシビシ出てるし、
一色の銅像カラーでも不思議と赤い甲冑が目に浮かんでくるようです。

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駅前ロータリーなので混んで来たら車が停めづらいだろうってこともあり、
彦根城の開城待ちで早朝に訪れたんだけど、午前中は逆光。午後がベストそう。

本多忠勝の銅像の方がやっぱり好きだけど、井伊さんの銅像もなかなか素敵でした。

彦根城を訪れるならぜひ、駅前ロータリーにもお立ち寄りください!

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| 武将の銅像 | 13:13 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑

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岐阜駅のゴールデン信長像

岐阜駅ロータリーには黄金に輝く信長の銅像があります。

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高い所に立つ上、ゴールデンなので高い位置からもすぐ分かる目立ち具合w

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真下に来てみました・・が位置が高すぎて見上げてると首が痛くなります。
写真が撮りづらい。なんでこんな高さに建てたのかってことと合わせ、
なんでゴールデンなんだよ!と趣味の悪い黄金色を考えるに出資者の思惑が
せっかくだから「とにかく目立たせたかった」んだろうな~という結論に至りますw

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プロの持つバズーカみたいな望遠レンズがあれば、遠く離れた同じ高さにある空中通路でも
ちゃんとした写真が撮れるでしょうけど、ちょい望遠くらいだと下から撮ってこれが精いっぱい。

いや~しっかし趣味悪っ!! 信長サマってイケてる銅像あんまないよね。
岐阜城の若き日の信長・・イマイチ。桶狭間公園の近世の曙・・目が怪しいw
安土駅前の能を舞う信長・・頭身がおかしい。岐阜城のゴールデン信長・・趣味が悪い。
結果、清州城の桶狭間出陣前の信長が一番ワタクシは好きです。

ワタクシは南蛮マントを翻したゴールデン信長サマの装いの騎馬像が希望。
色は普通の銅像カラーで。リアルで生き生きとした銅像誰か建ててくれないかな。

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ちなみにこちらは夜の信長サマ。ゴールデンのライトアップは何だか品がないですw



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| 武将の銅像 | 21:19 | comments:6 | trackbacks:0 | TOP↑

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高岡城の高山右近の銅像

富山県の高岡古城公園の大手口には高山右近の銅像があります。

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キーーー!! 銅像の真ん前に停まった無神経な軽トラのせいで真正面撮れなかったわヽ(`Д´)ノ


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高山右近はキリシタンの父友照に命で洗礼を受け、ジュストの名を授かりました。

右近と父の友照は元は高槻城主、和田惟長の家臣でしたが他の家臣にそそのかされた
惟長に暗殺されかけます。反撃にでた父子は切り合いの末、惟長を倒して高槻城主となり、
天正元年(1573)当時、織田信長につかえていた荒木村重の支配下となります。

この時の切り合いで命に関わる大怪我をしながら奇跡的に完治した右近は
キリスト教への信仰をいっそう強くしたと言われています。

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天正6年(1578)村重が信長に謀反を起すと右近も高槻城に籠城しますが、
信長に「従わなければ宣教師とキリシタンを皆殺しにする」と脅され降伏。
父友照に家督を返して信長の前に出頭したため、高山家と所領は安堵されます。

本能寺の変後、右近は秀吉につくものの天正15年(1587) バテレン追放令が
出されると棄教を拒否して出奔。小西行長の助けで淡路島や小豆島に隠れた後、
前田利家に引き取られ、前田家の相談役として加賀で暮らします。

しかし慶長19年(1614)德川家康のキリスト禁教令により宣教師らが国外追放されると、
右近もフィリピン・マニラへ渡海。マニラでは「偉大なキリストの騎士」として
歓迎されますが間もなく体調を崩し、慶長20年(1615)に病没。享年64歳。


右近さんって武将としての能力も高く茶道もたしなむ文化人で、人柄もよかったから
友人もたくさんいたっていうよね。信仰心がなけりゃ豊臣政権でもっと出世したかも。
しかし高槻6万石や家族や友をすべて捨ててマニラに渡るって・・・すごすぎますよ。

想像で建てられた銅像だけど、高潔で知的な感じがにじみ出てるので高得点かと。


高山右近さんの同じ銅像は、高槻や小豆島にもあるのだとか。
そのうちジュスト様には高槻でもお目にかかりたいと思っていますw



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| 武将の銅像 | 15:52 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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高岡城跡の前田利長の騎馬像

[戦国] ブログ村キーワード

富山県高岡市の高岡古城公園には、前田利長公と高山右近の銅像があります。

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広場の隅にある前田利長さんの騎馬像。思わずワタクシかぶりついております。
武将の銅像は「騎馬で2割増」「イメージ通りで3割増」なので大好物のやつですものw


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前田利家の嫡男、利長さんは「加賀藩初代藩主」「加賀前田家2代目」と言われます。
無駄に長い兜は「銀鯰尾形兜(ぎんなまずおなりかぶと)」。本物は高さ140㎝らしいよ。
グラグラしちゃって颯爽と動けないだろうけど、目立ちたがりなのはきっと血筋ね。


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家は豊臣家を守るため「自分の死後、三年は上方を離れるな」と遺言したのに、
ハッスル家康の口車に乗せられ、わずか数ヶ月で金沢に帰ってしまった利長さん。

帰国したせいで「家康を倒す準備をしている」と家康に戦の口実を与えてしまい、
母の芳春院を江戸に人質に出し、養子の利常を秀忠の娘と結婚させ、自分は隠居して
どうにか回避・・危なかったよね。でも必死に前田家を守って最終で百万石!!


そんな利長さんは地元の超英雄ですから、銅像もあちこちにあります。
高岡駅ロータリ、墓所のある瑞龍寺前ももれなくチェックしてみてください。
※後日更新予定


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| 武将の銅像 | 23:17 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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安宅の関 義経・弁慶・富樫の銅像

石川県小松市の安宅住吉神社には弁慶・義経・富樫の銅像があります。

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小松市にある「安宅(あたか)の関」は義経と弁慶にゆかりのある名所。
歌舞伎の勧進帳で有名なので、小松城に行きがてら寄ってみた次第。

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銅像のある安宅の関は安宅住吉神社の奥、日本海丸見えのところにあるので必然通りかかると、
遠方の方ですか?由緒などご説明させていただいております~と巫女さんが声をかけてきます。
が、ワタクシはホントに時間がなかったので丁重に、しかしきっぱりとお断り。
事前調査でみた色んな人の話だと最後にマストでお守り勧めてくるらしいので面倒だしね。
フフフ・・こりゃワタクシもさっそく難関突破しちゃったわと勝手にほくそ笑みますw

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神社の先の松林を抜けると目の前が開け・・左から義経、弁慶、富樫の銅像にロックオン!
右下に書かれた「智仁勇」というのは弁慶の知恵、富樫の情、義経の勇気を表したもの。
さっそくもっとかぶりついて、難関突破のシーンを勝手に妄想していきましょうw

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こちらが源義経さん。壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした義経さんはノリノリで京へ戻りますが、
兄頼朝に謀反を疑われ追われる身となってしまいます。義経さんは弁慶と共に山伏の姿となり、
奥州平泉の藤原氏の元へ落ちのびようとしますが、頼朝が設けた関所「安宅の関」で
安宅の関守、冨樫に見とがめられ、厳しい詮議を受けることになるのです。

凛々しい武者のイメージでいてほしいって勝手な思い込みがあるの中年ぽくて少々残念w
安宅の関の場面では弁慶と富樫に食われ、坊ちゃん育ちの義経さん正直影は薄いです。

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こちらが武蔵坊弁慶さん。富樫の尋問を受けた弁慶は「東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧」
だと言い張ります。しかしそもそも疑われての詮議。「ああ、そうでしたか」とはなりません。
そこで弁慶は持っていた白紙の巻物を取り出し、富樫の前で勧進帳として読み上げて見せます。
勧進帳というのは寺院建立の資金集めの趣意を記した書類。主君を守りたい弁慶必死の演技でした。

弁慶さんは「牛若丸」の絵本を読んだから、幼稚園の頃から知ってる歴史上の人ですw
怪力無双の荒法師で、五条大橋で笛を吹いていた牛若丸に戦いを挑んで返り討ちに合い、
以来、家来となって活躍します。弁慶は最後まで義経に寄り添い、たどり着いた奥州で
藤原氏の裏切りに合うと、義経を守って堂の入り口に立って薙刀をふるって奮戦し、
雨の様な矢を受けて立ったまま死んだ・・弁慶の立往生っていうのもとっても有名

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こちらが富樫泰家さん。富樫さんは弁慶が必死の演技で勧進帳を読み上げるにも関わらず、
強力姿(荷人役)の義経に目を付けます。しかし弁慶が金剛杖で義経を打ち付けるのを見て、
その忠義に心をうたれ、義経主従と気付きながら関の通行を許してしまうのでした。

弁慶は「お前が義経に似てるから面倒なことになってるんだ、その顔が憎い」的な事をいって
義経を打ち据えたそうですが、大ピンチを切り抜けるためとはいえ主君をぶっ叩くなんて
なかなかできない。主従に絆があって、お互いの思いが通じているからこそのことで、
それを感じとるだけじゃなく、実際に情けもかけた富樫さん。あんた・・立派な男だよ。

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弁慶と富樫の妄想に大満足したところで、安宅住吉神社に戻って巫女さんと目が合わないよう
勧進帳を読み上げる弁慶の銅像を眺めます。プレッシャーハンパない中、白紙の巻物を眺め、
さもあちこち勧進に廻ったように次々と自信ありげに読み上げるって考えるほどすごい!
神社よりむしろ弁慶の銅像に「難関突破のご利益を」と心の中で拝んでしまいましたわw


この後、ワタクシは小松城に向かうのですが、途中渡った橋の欄干に弁慶と富樫を見つけ、
しかし停まることも分離車線で戻ることも出来ず少々無念でした。事前に知ってたらなぁ・・

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| 武将の銅像 | 20:46 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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長福寺の太田道灌の銅像

[太田道灌] ブログ村キーワード


埼玉県川越市の長福寺には太田道灌の銅像があります。

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この長福寺は雲崗俊徳禅師(うんこうしゅんとくぜんじ)が開いた曹洞宗のお寺で、
雲崗禅師に深く帰依した太田資長はここで出家し、太田道灌を名乗るようになりました。


2 (2)

そんなわけで境内には雲崗禅師と太田道灌の銅像が建っています。

開山 雲崗俊徳禅師 
弟子 太田道灌公

と書かれています。仏弟子の「弟子」なんですかね。


1 (2)


道灌さんにはまだ髷がありますし、雰囲気が何やら神妙だから
禅師に道灌を授けられ、今まさに出家するという場面なんでしょうか。


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太田道灌は川越市役所前の太田道灌の銅像でも紹介していますが、
扇谷上杉氏の家臣として仕えた文武両道の名将で、川越城・江戸城・岩槻城も築城しました。
しかし道灌の有能さを恐れたアフォの主君に陥れられ、謀反の罪で暗殺されてしまった悲運の武将です。


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長福寺の山門・・ここをくぐった右手に銅像があります。駐車場は山門手前に完備!


銅像の多さは指折りの道灌公。この先も見つけたらハンティングしていきますw




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| 武将の銅像 | 09:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大多喜行徳橋 本多忠勝の銅像

大多喜市の行徳橋には本多忠勝のプチ銅像があります。

千葉県大多喜市にある大多喜城は、徳川四天王のひとり本多忠勝が初代城主でした。
関ヶ原の後、桑名城に転封するんだけど、大多喜では忠勝で盛り上がってマスw

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大多喜城より少し離れたところにある忠勝の墓所「良玄寺」のすぐ近くに
行徳橋という橋があって、なんとこの橋にプチ銅像が2体あるんですね~


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まずは良玄寺側の忠勝さん・・・んま~小さいったらありゃしない!!
でも桑名城や岡崎城と同じもつまんないから、これはこれで非常によいのザマス。


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残念ながら蜻蛉切は持ってませんが、鹿角脇立兜かぶって
床几にどっかり腰を下ろしたポーズはプチでも勇ましい感じw


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忠勝の肖像で有名な黒い甲冑「黒糸威胴丸具足」を模してるんでしょうか。
ちなみにこの角度だと忠勝さんは自分のお墓がある良玄寺を見てる感じになりますw


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橋の反対側にも違う忠勝さんがいるのよ・・・んま~かわゆいったらありゃしない!
やっぱ武将の銅像ってのは一定の大きさがないと、なかなか迫力は出ないものね。


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・・お、おじいちゃん?? 勇ましいのはわかるけど先に見た忠勝さんのが若さあったねw


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忠勝さんならおじいちゃんでも全然イケてるわ~好きな武将は3割増しの計算だからねw


かわゆい忠勝さんの銅像は近くにある墓所「良玄寺」とぜひセットでどうぞ。



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| 武将の銅像 | 14:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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五郎山の仁科盛信の銅像と洞

[戦国] ブログ村キーワード

長野県高遠市の五郎山山頂には仁科盛信の銅像と祠があります。


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仁科五郎盛信さんは武田信玄の五男で、武田勝頼の異母弟です。
信玄は信濃攻略をする際、その地の有力豪族と婚姻関係を結んで支配したので、
勝頼は「諏訪勝頼」に、盛信さんは仁科を継いで「仁科盛信」というわけです。

信玄は勝頼が諏訪の名を継いでいたため、後継者には勝頼の子、信勝を指名し、
勝頼を信勝が成人するまでの後見にしたとも言われてますね。余談ですけど。


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石碑と洞、そしてでっぷりとした仁科盛信さんの銅像がある五郎山の山頂。
盛信さんは天正10年(1582)武田滅亡の時には高遠城を守っていました。


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アップでどーん!! ・・でっぷりはいいとして、もうちょい若さがほしいとこねw

5万の軍勢を率いて高遠を包囲した織田信長の嫡男、信忠は盛信に降伏勧告をします。
しかし盛信は使者である僧の耳を切り落として追い出し、徹底抗戦をアピール。


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なかなか貫録のある厚みは甲府駅前に鎮座するオヤジ様に通ずるもんがありますねw

高遠城の兵はわずか3000。押し寄せる大軍に挑んで討たれる者、恐れをなして投降する者・・
しかし盛信は最後まで城に踏みとどまって織田軍を迎え撃った後、十文字に腹を掻き切り、
はらわたをつかんで唐紙に投げつけるという壮絶な最期を遂げました。享年26歳。



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勝頼の数少ない味方だった盛信さん。哀愁漂う男の背中をどうぞw 

ちなみに・・盛信の討ち死を知った勝頼は新府城に火をかけ、逃亡を開始。
岩殿城を目指すも小山田信茂に裏切られ、天目山で自害・・武田家は滅亡しました。
盛信さんの壮絶な死から9日後のことだと言われています。


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盛信さんの死に際やら祠の説明なんかが書かれている記念碑もあります。
盛信さんの遺体は地元の農民たちの手により、この地に葬られたんだそうです。
以来この山は仁科五郎盛信・・「五郎山」と呼ばれるようになったのだとか。


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盛信さんが眠る五郎山からは高遠城下が見えます。どんな思いで見てるだろうか・・。
一人になっても最後まで戦い続けた盛信さんは、地元で大切にされているんだと思いました。


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ちなみに場所なんですが・・ちょいと分かりづらい(ノД`;) ので書いておきます。
ハイキングコースになってて登山客なんかも来るらしいけど、車のが便利だね。

車の場合、高遠城から白山トンネルに向かって走りトンネルを通過。
トンネル出たらすぐ左折。するとすぐ写真のような案内版が見えますのでまた左折。


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で、ひたすら登る・・ずっと離合困難な道が続きます。心配になるけど進みます。
ちなみに写真は不安げな心持の行きには撮れず、帰りに撮ったので下ってるとこよw


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で、こういうところが見えたら到着。車は路肩にギリで停めとくしかありません。
この先は未舗装で離合困難どころじゃないので、停め場所探してうろついてはダメw

車を停めたら登って行けば5分足らずで仁科盛信さんのでっぷり銅像が拝めますよ!





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| 武将の銅像 | 15:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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桶狭間古戦場公園の義元と信長の銅像

[織田信長] ブログ村キーワード

名古屋市緑区有松町の桶狭間古戦場公園には今川義元と織田信長の銅像があります。

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ここは桶狭間の戦いの中心地で、田楽坪とも言われ、今川義元最期の地です。
桶狭間の戦い450年を機に整備され、信長・義元両雄の銅像が建立されました。


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タイトルは「近世の曙」。この戦を境に時代が変わっていくということでついたそうです。
敵味方だった武将が銅像として一緒に建っているのは珍しいケースだと思います。

銅像を作る時は背格好の近い男性をモデルにし、ふんどし1丁から甲冑を着せていったんだって。
で、その甲冑も専門家の時代考証をを元に、当時にかなり近い形のものになっているんだそう。
清洲公園の信長像も同じ桶狭間出陣前の姿ですが、こっちより立派。盛ってあったのねw

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今川義元さん・・でっぷりしていて鉄漿をつけた公家風の印象とは違って精悍な感じです。
東海一の弓取りと言われた義元さんらしく、弓を手にして威風堂々の佇まい。
今川義元は地元の人には大変慕われていたそうですが、戦国時代が最後の盛り上がりを迎える前に
破れてしまったからでしょうね・・銅像があるのはここだけなんだそうです。


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で、こちらが若き日の織田信長・・桶狭間の時は26才とか27歳とか言われています。
遠・三・駿の太守、義元とは違って、この頃の信長は尾張一国やっと統一したところ。
義元さんに比べて若さはあるけど、貫録や迫力がない感じはよーく表現されてると思います。
ただし好みで言えば清洲公園の方がいいです。
でも信長様特別ルールにより4割増なので銅像点数は高めでw


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2人の後姿にも注目しておきましょう。当時の力や財力の差が歴然な背中ですw

銅像義元さんの差料は名刀「左文字」。義元を討った時から信長の愛刀になった刀です。
南北朝時代に作られ、三好宗三→武田信虎→今川義元を経て、信長に渡りました。


桶狭間古戦場公園には桶狭間の合戦の様子を再現したジオラマ(位置関係わかりやすい)の他、
義元の墓、駿公墓碣、馬つなぎの松、義元首洗いの泉、すぐ近くには義元本陣跡などもあります。


ボランティアガイドを頼むとものすごーく勉強になります。
ガイドさんとまわった公園史跡詳細はLove城!で紹介してます。

桶狭間古戦場公園
http://okehazama.net/

予約すれば一人からでもやってくれるんだって。

ワタクシは現地でたまたま掃除に来ていたボランティアガイドさんが声をかけてくれたので、
とってもラッキーでした。これは聞かなきゃダメだと思いましたよ。イヤ、まじで。



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| 武将の銅像 | 16:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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岡崎城の徳川家康像たくさん

[徳川家康] ブログ村キーワード

岡崎城には徳川家康の銅像としかみ像と出世ベンチなるものがあります。


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まずはスタンダードに家康像。家康像は色んなところにありますが、これ駿府城の家康像の次に好き。


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岡崎で晩年は過ごしていないので、そういう意味では何か違うんだけど晩年の家康のイメージ近いのでw
やっぱり家康といったらある程度の貫禄がないとダメなのよ。浜松城の銅像はやっぱ違うわよね。


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ここの家康像は高い位置にあって、銅像エリアが柵で囲われて近づけないので寄るのがムズイ。
でもこういう角度はきれいに撮れます。なじみのある岡崎の現代の風景を眺める家康ですw

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続いて有名な「しかみ像」。漢字で書くと顰像・・ムズイね。変換じゃなきゃ絶対無理。
三方ヶ原の合戦で武田信玄に打ちのめされ、恐怖のあまり敗走しながら脱糞してしまった家康は、
帰城後、その惨めな姿を決して忘れまいと絵師に肖像画を書かせました。その絵が「しかみ像」。


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家康はしかみ像の絵を持ち歩き、自分を戒めたと言います。負の自分と向き合うって強いよね。
怒っているのか、悲しんでいるのか、自嘲しているのか・・何とも言えない表情です。
ワタクシも何か大失態をした時はしょぼくれた顔を自撮りして戒めようか・・余計へこむかw


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で、次が出世ベンチ。これ何年か前に行った時はなかったと思うので割と新しいかと。
座ると出世するというから、人目がないのをさいわい。家康の方に座って肩組んでやりましたw


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竹千代の方がこれ・・若干、小憎にくたらしい顔にも見えてしまうのは気のせいですか?
ふっくらしてるのが何かイメージと違うわね。苦労した人質時代もう少しスリムな方が・・


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こっちが家康さん、ワタクシはこっちに腰かけて念入りに肩組んだり抱きついたりしましたがw
というか、よく見たら水木しげるの絵風? 出世するには若干ゆる~い感じしますが大丈夫かしら?


P1070117.jpg

騎馬像もあります…19歳の松平元康(家康)が岡崎家臣団と共に岡崎城へ帰城する姿だって。
ワタクシは写真で見た時も実物見ても見始め一瞬はなんだかオマルに乗っているように見えてしまうw


P1070119.jpg

岡崎へ帰城するっていうシーンはいいんだけど・・・いや~なんか残念!! 


岡崎城には他に本多忠勝の銅像もあります。登城した際は全部ひっくるめてお見逃しなくww



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松平氏館の松平信親の銅像

[徳川家康] ブログ村キーワード

豊田市の松平氏館には徳川の祖、松平信親のバタくさい銅像があります。

P1070192.jpg

ワタクシもあちこちで銅像見てるけど、遠目から見てただならぬ気配を感じます。
信親さんは武将と言っていいかすらわからない人ですけど、德川の祖なんですよ!


P1070193.jpg

武将の銅像と言えば甲冑、もっとイケてたら騎馬が定番の中、親氏さんは胸をはだけて
袴の裾をまくりあげたワイルドな装い。さらにポージングも侍うんぬん通り越してグリース風?
もう完全日本人離れしちゃってんですけど!!遠目に見ると一瞬、親指立てた「Good!」ポーズを
してるように見えんのよ。なんだろ? 意味不明に目が吸いつけられて銅像から目が放せないわw


P1070194.jpg

さ ら に!! この彫の深い端正な顔・・・日本人離れどころか、完全に外人です Σ(゚Д゚)!
おまけにお腹のライダーベルトを見てごらんなさい・・・完全にちょい悪系じゃないの!!
銅像作った人は存じませんが、その型の類まれなるセンスにも称賛を送りたくなりますよ。

P1070198.jpg

松平氏館は元は弘安年間(1278~1288)この地の領主だった在原信盛によって築かれた城館で、
時宗の僧「徳阿弥」がこの地に流れ着き、信重の婿となって松平親氏を名乗り本拠にしたことが始まり。

で、この「徳阿弥」なる人物が実は新田源氏「徳川義季」から8世にあたるらしいんですね。

「徳川義季」ってのは新田義重の四男で、世良田に館を構えて得川を名乗り、後に改称して
徳川とした人物で、家康はこの血筋だから源氏として征夷大将軍になったという話でした。

つまり・・

源氏である徳川義季の血を引く「徳阿弥」が 松平親氏を名乗ってこの地を本拠とし、
その松平家が三代信光の時に宗家と分家にわかれ、信光は三河に進出して基盤を広げると、
かくかくしかじかあった後、そこから9代目になる松平元康が徳川家康として天下を取ったと。


ずんぐりむっくりしていたと聞く家康の祖は德川信親。
テルマエロマエに出てた?と聞きたくなるような銅像でした。

松平館に行った際は是非、この銅像をお見逃しなくw

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