[畠山重忠] ブログ村キーワード埼玉県深谷市の畠山重忠公史跡公園には畠山重忠のお墓があります。

鎌倉武士の模範とされる畠山重忠さんは1164(長寛2)年、武蔵国男衾郡(おぶすまごおり)
畠山荘(現在の埼玉県深谷市畠山)に生まれました。人望が厚く文武に優れていた重忠さんは
地元のヒーロー。で、ゆかりの地に名前がついた公園が整備され、
銅像やお墓があるわけです。

鎌倉武士の模範と言われた重忠さんの最期は実に非業なものでした。
重忠に信頼を寄せていた源頼朝は死に際し、頼家のことを重忠に託します。
しかし頼朝亡き後、実権を握った北条時政にとって重忠は邪魔な存在でした。
時政は「鎌倉由比ヶ浜に謀反あり」と告げて菅谷館にいた重忠をおびき出すと
北条軍1千騎の兵で待ち構え、だまし討ちにします。この時、重忠さんの手勢は郎党130騎。
重忠さんは館に戻ることをよしとせず、この地を一歩も動かず戦い誉れを後代に残そうと郎党を諭し、
多勢を相手に夕刻まで戦い続けた後、全滅したそうです。時は1205年6月22日。享年42歳。
北条軍として参戦していた御家人の中には重忠さんに大恩ある者が多かったため、
戦いに積極的でなかったばかりか、後味の悪い思いが残ったといわれます。
重忠さんが最期を迎えた地は神奈川県の二俣川の万騎が原。でもここにだけ慰霊碑が建っています。
重忠さんみたいな武士のこの最期が残念すぎるとも思い、清廉で潔い生き様はあっぱれすぎる!
室町、戦国、江戸そして現在と時代が変わっても畠山重忠の名が残っているの本当に納得です。
ちなみに感じの悪ーい北条時政はその後ほどなく失脚。心からざま~みろ~!!と。
太田道灌さんも同じような非業の死を遂げているのですが、「やぁやぁ我こそは~」なんて
悠長な戦をやっていたくせに、反面だまし討ちとか普通にあるからほんとエゲツなくてイヤよ。

このお堂の中に畠山重忠と家臣の墓があります。墓は五輪塔なんですが屋内なんですw
賽銭箱の前には新しいワンカップとお菓子が置かれていました。愛されてますね。

埼玉県指定史跡である畠山重忠の墓。重忠主従六基の五輪塔を墓碑として祀ってあるんです。
中には入れないから扉の隙間から五輪塔を拝見。綺麗に手入れされています。
お供え持って真剣にお参りする人の存在を知り、ワタクシも散歩のオッサンを尻目に真剣に合掌。

重忠さんが討死した際の板石塔婆には1304年卯月9日の記念銘と光明真言の梵字が書かれています。
重忠さんの百年忌にあたって建立されたものと伝えられているそうです。昔から慕われているのよ。

畠山重忠公史跡公園のすぐ近くには重忠さんの菩提寺である満福寺もあります。
真言宗のお寺で鳥羽天皇の頃に建てられ、後に重忠が再興して菩提寺にしたそうです。
このお寺には位牌と重忠廟の碑があると知り、近いので立ち寄ってみました。

朝早いせいもありますが、お墓詣りの人もいなくてひっそりとした境内。立派な本堂です。
住職さんとかウロウロしてたら絶対、お話を聞きたいところなんですが、人の気配がまったくないので
一般の方の墓地ゾーンにはズカズカ入らないようにして、お目当ての重忠廟の碑を探すことにします。

墓地を挟んで本堂の隣にある観音閣には重忠の守本尊である等身大6尺3寸の千手観音もあるのだとか。
鎌倉の頃に180センチ越え・・文武に優れて人望厚く、堂々たる体躯・・忠勝君や清正君に通じるものが。
観音閣の中は覗きようもなく、守り本尊は御開帳の時じゃなきゃ見られないだろうけど、
このお寺の存在を知らなかったら普通に通り過ぎていただろうから下調べしといてよかったわw

観音閣の右奥にある重忠廟碑。菩提寺というけれど重忠さんのお墓はないみたいです。
畠山重忠公史跡公園で見た五輪塔も彼を祀るための墓碑。本物のお墓はどこにあるんだろう?
でも少なくとも重忠さんも菩提寺であるこのお寺には来ただろうから妄想すればいいかw
後日、この満福寺の隣にある井椋神社も重忠君ゆかりの場所だと知りショック大!
畠山重忠公史跡公園と満福寺見て満足して、鳥居は見かけたけどすっかりスルーしていたよ。
仕方ない・・深谷城に登城する時また行くかwwwww
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