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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2013年05月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年07月

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春日山城の上杉謙信の銅像

[上杉謙信] ブログ村キーワード

春日山城の春日山神社入り口には上杉謙信の銅像があります。

春日山城 上杉謙信の銅像

上越市内を見下ろす軍神・・かっこよすぎて、これだけでご飯が4杯は行けそうですΣ(゚Д゚)!
埼玉から4時間も車を走らせた早朝、駐車場になってるここに到着した瞬間、謙信のお出迎えよ。
居城だった春日山城に登城する前からアドレナリンやら何やら色んなものが出そうな勢いです。


春日山城 上杉謙信の銅像

ゲームやGAKUTOの謙信をイメージしてちゃいけません。ワタクシこの銅像イメージ近くて好きです。
加えてこの銅像の素晴らしいところは設置された場所。中途半端な手の届くお立ち台じゃなくて、
下々のワタクシたちには手の届かないところにいるってのが軍神らしさ倍増で非常によろしいのよ。


春日山城 上杉謙信の銅像

立ち位置、ポージング、目線の配り、軍神らしさ・・騎馬じゃなくても星三つ!! 
まぁ強いて言うなら、もう少~しスリムでもいいのかな~ってところかしらw
謙信の銅像は今のところ八幡原史跡公園の信玄との一騎討像かこの春日山のが一番!!
米沢城址(上杉神社)にもありますが、それはもっとでっぷりしていて好みじゃありませんw

余談ですが謙信の銅像は他にもまだ未確認のものが3~4はあります。そのうちウォッチしてきますw

春日山登城の際はどんなルートで回ろうと、絶対のこの場所だけは見逃さないでください!!


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| 武将の銅像 | 01:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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平林寺の松平伊豆守信綱の墓

[松平信綱] ブログ村キーワード

埼玉県新座市の平林寺には松平伊豆守信綱のお墓があります。

平林寺

禅修行の専門道場を持つ臨済宗妙心寺派の禅刹である平林寺。埼玉パワースポットのひとつよ。
檀家さんとかじゃない一般の観光客は総門から入ります。拝観料は500円。
中に入ると見えてくるのが山門。境内案内図を見ると本堂まで奥が深いようです。
山門は入母屋造茅葺の楼門で、左右に松永耳庵寄進の金剛力士像を配されています。

戦国武将ではないけれど「知恵伊豆」として有名な方なのでご紹介することにしました。


平林寺 松平信綱の墓

本堂より奥の小高い場所に松平信綱公一族の墓所があります。

平林寺は関東地方ではとても格式が高い臨済宗妙心寺派の歴史ある有名な寺院のひとつ。
600年前、岩槻城主・太田備中守によって建てられ、鎌倉建長寺の住持をしていた名僧
石室善玖禅師によって開基されました。当時は岩槻にあったお寺だったそうです。

天正18年(1590)5月、豊臣秀吉の関東経略による岩槻城攻めの際、兵火によって伽藍の大半を焼失。
翌年、江戸入りした徳川家康が鷹狩りで岩槻を訪れた際、休息で立ち寄り、名僧石室禅師開山による
平林寺の由緒を知り、伽藍再建のため朱印状を与えられました。

その後、徳川時代に川越城主松平伊豆守信綱の遺言により、子の輝綱によって寛文3年(1663)
新座市野火止に移され、現在の姿になったそうです。なぜに知恵伊豆が? と思いますが、
平林寺の檀那である大河内氏というのがいて、大河内秀綱が死去した際、葬送の地になったと。
信綱は秀綱の孫にあたり、長沢松平家へ養子に入った後、別家して大河内松平家を興し、
平林寺を祖廟とした・・・松平伊豆守信綱と平林寺にはそんな関わりがあるそうです。


平林寺 松平信綱の墓

信綱の墓です。松平伊豆守信綱は才知に富んでいたことから知恵伊豆とも呼ばれた三代将軍家光の老中。
川越藩主でもあり、藩政では武蔵野新田開発や野火用水の開削に力を入れた俗にいう名君ですね。
岩槻にあった平林寺を野火止に移すよう遺言し、川越ではなくこの地に静かに眠っています。


平林寺 松平信綱の墓

没年は1662年。その時からあるんですもんね。石灯籠にもそれぞれ古い元号がたくさん書かれてます。
少しでも知恵にあやかりたいと思い、墓前にておもむろに合掌・・・・墓所は静かで別世界のようです。


平林寺 松平信綱の墓

ずらーっと松平家のお墓が並んでます。大河内松平家の墓所は3000坪もあるそうです。
見渡す限りお墓と五輪の塔・・壮観です。平林寺には他にも電力王と呼ばれた安松松永安左エ門、
そして増田長盛のお墓や武田信玄の二女で穴山梅雪の正室見性院の供養塔などがあります。
こちらはまた別のエントリーでまとめてご紹介するつもり。

新座の街中にあるとは思えない別世界のように静寂な平林寺。見どころも多くおすすめです。


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| 武将の墓 | 22:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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林泉寺の堀秀政の墓

[武将] ブログ村キーワード

新潟県春日山城の麓にある林泉寺には堀秀政のお墓があります。

林泉寺 堀秀政の墓

以前、上杉謙信のお墓を紹介した林泉寺には織田信長、豊臣秀吉に仕えた堀秀政のお墓もあります。

秀政さんは万事をそつなくこなすことから「名人久太郎」と呼ばれ、蒲生氏郷同様、長生きしていたら
相当な出世をしたかもしれない武将でした。享年38歳。小田原征伐の陣中で病没したと言われています。
座右の銘は「油断」だったというからきっと暗殺ではないとワタクシは勝手に決めつけていますww

秀政さんの墓は堀家が秀治の代に越前北の庄から移封になった際、林泉寺に改葬されたんだそうです。


林泉寺 堀秀治の墓

ここには秀政さんの嫡男 秀治さんのお墓もあります。堀家のお墓は謙信公のお墓より一段低いとこにひっそり。
秀治さんは会津に移封となった上杉家に代わって越後に入ると林泉寺を保護し、堀家の菩提寺としました。


林泉寺 堀秀重の墓

こちらは秀重さんのお墓。秀重さんは秀政さんの父・・秀治さんにとっては祖父ですね。
3人のお墓は真ん中に秀重さん、手前に秀治さん、そして一番奥に秀政さんという風に並んでいます。
秀政さんの父である秀重さんと嫡男秀治さんは同じ年に亡くなったといいます。秀政さんが早すぎる死でした。

林泉寺は堀家始め、高田松平家や榊原家から手厚く保護され今に至るそうな。

しっかりしていて信頼できる手堅い印象の秀政さん。林泉寺に訪れた際はぜひこちらもお参りをどうぞw



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| 武将の墓 | 20:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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駿府城の徳川家康の銅像

[徳川家康] ブログ村キーワード

駿府城公園の本丸跡には徳川家康の銅像があります。

駿府城 徳川家康の銅像

今川氏の人質としてこの駿府に19歳までの12年間、暮らしていた家康さん。
家康さんの銅像は主だったものだけでも岡崎城、静岡駅前、浜松城と他にもありますが、
この駿府城公園のは天下を取って大御所、そして神君となった貫禄たっぷりな銅像です。
岡崎城の銅像は同じ晩年でも何となく年寄くさいから、こっちの方がよろしいなw


駿府城 徳川家康の銅像

今川の人質だった子供の頃から鷹狩りを始めたという家康さん。肥えてる印象があるけど健康オタクだったから
多分、実はそうとう筋肉質だと見ます。ちなみに浜松城にある銅像はもう少し若くてスマートw


駿府城 徳川家康の銅像

ワタクシ、数ある家康さんの銅像の中で、ここ駿府城公園にあるのが一番イメージ近くて好きです。
家康さん、左側からの角度の方が決まって見えますねw 駿府城登城の際はお見逃しなく!! 


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| 武将の銅像 | 19:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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熊本城の加藤清正の銅像

[加藤清正] ブログ村キーワード

熊本城の行幸橋近くには加藤清正の銅像があります。

熊本城 加藤清正の銅像

ワタクシが一番ときめいた銅像です。加藤清正の銅像は熊本市内だけで他に2体、
それ以外に名古屋城や中村公園にもありますが、清正の銅像としてもこれが一番!
そして銅像としてもウルトラスーパー完璧なものの一つだと思っています!!

いつもは「騎馬で2割増」とか言ってるけど、この佇まいならむしろ馬なんかいなくてよし!
賤ヶ岳の七本槍から54万石まで上り詰めた男の、武将の生き様がビシビシ表現されてる。


熊本城 加藤清正の銅像

実はワタクシこの時は熊本に出張で来ていました。清正公に会う前日の朝は4時起きで飛行機、
熊本城を横目に1日中、市内を仕事でかけずりまわり、接待終わったのが午前様で2時就寝・・。
2日目だって仕事がある・・せっかく人生初熊本なのに仕事で見られないなんて生き地獄よ!!
なので根性で朝5時起床。そして日の出を待って鼻息荒く、熊本城に行った次第w

ホテルのフロントがやっていなかったので、どこにいるかも分からないくせにタクシーを探し、
「清正公の銅像のところまでお願いします!!」と伝え、待つこと10分。

写真を眺めている時から、これぞ清正!これぞパーフェクト銅像!と萌えていましたから
ようやく会えた清正公に思いもひとしお。早朝で誰もいないので見とれてしまいました。


熊本城 加藤清正の銅像

清正は父親を早くに亡くし、9歳で秀吉の小姓になりました。賤ヶ岳の戦いで「七本槍」の1人に数えられ、
以降、数々の武功を立てると、天正16年、肥後北半国19万5000石の領主となって領地経営に力を注ぎます。
文禄・慶長の役では朝鮮に渡り主力部隊として7年間戦い、54万石の大大名となって熊本城を築城しました。

勇猛で戦上手な武将であると同時に、政治手腕も築城技術もあった清正。
仁智勇を兼ね備えた感じ、ワタクシは三国志の関羽のイメージを持っている。

地元の人に今もとても愛されているようで、載せてきてくれたタクシーの運転手さんはじめ、
熊本で仕事中に会った誰に聞いても、次から次へと清正公の自慢をきかせてくれました。
ワタクシなんか埼玉で北条支配ながら支城ですからね、自慢の殿様いるのが羨ましい限り。


熊本城 加藤清正の銅像

後ろ姿ももれなく撮っちゃうわよ!! ああ・・かっこいい。膝の上に座りたいです。

清正と言えば長烏帽子形の変わり兜。高さが70センチくらいあったんだとか。
兜は黒漆が塗られた上に銀箔が押され、両側面には朱で日輪。
清正は大柄だったというから、戦場でひときわ目立っただろうね。


熊本城 加藤清正の銅像

別にリアル清正じゃないけど、ワタクシたぶんガン見する目がハートだったと思います。
鐘馗髭はありませんが、思慮深そうな、そして大音声が出そうな迫力のあるお顔のつくり。
銅像を作った彫刻家さんのセンスに感謝せずにはいられないわ!!


熊本城と清正が好きで熊本城の一口城主になっているワタクシ。
結局、この出張中、仕事をまいて2時間ほど駆け足で登城することはできたんだけど、
そんなんじゃ満足できるわけがなく、他の清正公の銅像や菩提寺参りも含めて、
次に行く時は熊本に住民票置くか迷うくらい居つく覚悟での登城を目論んでいます。

威風堂々・・・熊本城の清正公マジかっこよすぎです。




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| 武将の銅像 | 21:22 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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信玄VS謙信の龍虎一騎討ち像

長野県の八幡原史跡公園には武田信玄と上杉謙信の一騎討ち像があります。

信玄VS謙信 一騎討像

この一騎討ち像は昭和44年に放映された大河ドラマ「天と地と」を記念して建てられました。
永禄4年(1561)の川中島の戦いにおけるクライマックスシーンが再現されたものです。
八幡原史跡公園からほど近い「典厩寺」にある武田上杉両雄合戦之碑に書かれた絵が元ネタ。

実際にはあったとかなかったとか、あってもこういうんじゃなかったとか色々言ってるけど、
ワタクシは学者じゃないから100%分かってること以外、基本は自分的歴史ロマン優先で考えるわよ!!


信玄VS謙信 一騎討像

紺糸縅の鎧に萌黄緞子の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、
長光の太刀を抜いて名馬放生の上から斬りつける謙信・・・気迫が伝わるわぁ(はあと)


信玄VS謙信 一騎討像

諏訪法性の兜、黒糸縅の鎧の上に緋の法衣、軍配で受ける床几上の信玄・・・濃いわぁw

それにしてもすっごいレベルの高い銅像よね~躍動感があって世界観が表現されていて
信玄にしろ謙信にしろ、万人がイメージする通りの雰囲気が出ていて。見惚れてしまいます。


信玄VS謙信 一騎討像

謙信は3度切りつけたと言われているんだよね・・・・・見惚れながら3Dで脳内再現中


「いやぁーーっ!」
「ぬ!」
「いやぁーーっ!」
「ぬっ!」
「いやぁーー!」
「ぬぅーっ!」


戦国最強軍団の大将同士の渾身の一騎討ちだもの。言葉少ながいいと思って。
「信玄覚悟!」とか「おのれ謙信!」とか妙に芝居がかってたらイヤじゃない?


松代(海津)城への登城や川中島出陣の場合はもちろん、善光寺参りなどの際ももれなく
「八幡原史跡公園」に寄ることをお勧めします。見ておいて絶対に損はない迫力ですものw



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| 武将の銅像 | 11:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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典厩寺の武田信繁のお墓

[武田信玄] ブログ村キーワード

長野県の八幡原史跡公園の近くにある典厩寺には武田信繁のお墓があります。

典厩寺 典厩信繁の墓

典厩寺は川中島の合戦で戦死した武田信玄の弟、典厩信繁と同合戦で亡くなった6000人を弔い供養したお寺。
元は鶴巣寺と号し、合戦から60年後の元和8年、武田典厩の名を取って寺号を改められたのだそうです。

信繁さんは信玄と同母の弟。左馬助と称し典厩は唐名で、世間では信繁を典厩と言ったそうです。
兄の信玄を守って37歳で討死した典厩信繁は信玄をよく支え、かしこく強く人望がある武将でした。
真田昌幸は典厩を理想の武将として、次男に信繁の名をつけたと言われています(幸村)。

自然石を使った墓石と卒塔婆には「松操院殿鶴山巣月大居士」と書かれていました。

ワタクシ武田軍には好ましいと思う人が何人かいて、馬場美濃守信春と同じように典厩信繁さんにも
ずっと以前からかなりの好印象を抱いています。ワタクシの中では「のぶ君」と呼んでるくらいw
ちなみに仁科君にも同じ印象を持っていマス。そんな信繁さんなのでおもむろに墳墓に合掌。


典厩寺 典厩信繁の墓

典厩信繁公の首きよめの井戸。奪い返してきた典厩の首をここで清めたと言われています。
敵にとっての大将首を命がけで奪い返すだなんて家臣どんだけ気合い入ってんだ!と思います。

信繁の後を追うように討死した諸角豊後守昌清のお墓もこの典厩寺から近いようだけど、
この時は川中島古戦場がメインで、時間が余って思い付きで典厩寺に寄ったので、
ナビにも出ず、土地勘がないところで狭い道とかはまると嫌なので探すのは断念しました。


ところでこの典厩寺には川中島合戦記念館というのがあります。寺宝として伝わってきた60点が
展示されているのですが、お宝の貴重さはもちろん、管理の仕方はインパクト大ですw

信繁さんの兜、刀、鎧の下着、甲陽軍鑑が数冊山積みに謙信公の鉄扇とか原大隈の槍の鞘・・

どうも本物らしいので、ちょっとした複製ばっかの博物館よりよっぽど価値あるすっごい展示なんだけど、
「典厩信繁の刀」とブツの隣に置かれた説明書きは厚紙に手書きだし、博物館でよく置いてある
湿度や温度を調整するやつとかも何もなく・・管理は大丈夫なのかと心の底から心配でした。


典厩寺

ちなみに典厩寺には武田上杉両雄合戦之碑というものもあり、この碑に書かれた絵が
八幡原史跡公園にある信玄と謙信の一騎討ちの像の元になっているそうです・・え? 分かりづらい?
※一騎討ちの像は次回更新で念入りにご紹介w


典厩寺 武田上杉両雄合戦之碑

アップにしてみました。一騎討ちの像を見たことある方なら「なるほど!」と思うはず。
信繁さんのお墓参りのつもりで行って、こんなのまで見れたらこりゃもうけものですよw


典厩寺

典厩寺・・どう考えても見逃しちゃいけないところだけど人がいなさすぎなのがよいですw
お墓や記念館だけでなく、本堂には信繁さんの位牌の他、日本最大の閻魔様など見どころ満載なので、
川中島方面に出陣または善光寺参りの際はぜひ典厩寺にも立ち寄ってみてね!



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| 武将の墓 | 21:44 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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米沢林泉寺の上杉セレブの墓

米沢林泉寺には直江兼続と船夫妻の他にも上杉セレブ達のお墓があります。


米沢林泉寺 甘粕備後守の墓

まずは甘粕備後守景継のお墓から。甘粕君は謙信・景勝に仕えた豪勇で名高い武将です。
越後上田長尾家の嫡男でしたが謙信の命を受け、1577年に討死した甘糟継義の名跡を継ぐ形で
甘粕家を相続。上杉軍の中で最強と言われた上田衆の一人として活躍しました。
謙信の死後、御舘の乱が起きると景勝を助け、最終的に白石城主となりました。享年62歳。


米沢林泉寺 武田信清の墓

お次は武田信玄の六男、武田大膳太夫信清のお墓。信玄の娘「菊姫」が景勝に嫁いでいた縁で
天目山で武田家が滅亡した後、上杉へ身を寄せ、高家衆として1000石の処遇をされ80歳まで生きたそうな。

「謙信は義理堅いから頼めば見捨てることはない。和睦して謙信を頼れ」

本当かどうか分からないけど、信玄は勝頼にこのような遺言を遺したと言われています。
それは勝頼の時ではなかったけれど結果、信玄の言う通りみたいになったことは興味深いです。
30万石に減封された後も信清の子孫たちは代々、高家筆頭として処遇されたといいます。
大変な台所事情だけど預かったからには責任持って・・的な感じ。やっぱ上杉だなと思いました。

信清の墓は五輪の各輪に禅の公案である「祖師西来意」の五文字が刻まれています。


米沢林泉寺 上杉家廟所

歴代藩主は上杉御廟所に葬られているのでここに眠るのは上杉家のセレブ女子たち。
甘粕君や信清君と違い、柵と門で仕切られて別格な扱い。そのせいかちょっとお高い雰囲気ねw


米沢林泉寺 仙洞院の墓

次は上杉景勝の実母(上杉謙信の姉で長尾政景の妻)仙洞院のお墓です。
81歳大往生のパワフル女性ですw 上越林泉寺の住職を招き、米沢に林泉寺を建立することに
尽力したことから林泉寺中興開基と称されています。仙桃院とでなく仙洞院が正しいそう。


米沢林泉寺 菊姫の墓

そしてこれが信清の姉である菊姫のお墓。上杉景勝君の正室ですね。愛する夫とは別の場所で眠ってます。
信玄の死後、上杉と和睦した勝頼が嫁がせた政略結婚でしたが、武田の娘である誇りを持った女性で、
甲州夫人として敬愛されました。景勝が兼続を頼みに思うように兼続の妻、船を姉のように慕っていたそうです。


米沢林泉寺 お豊の方の墓

そして最後は上杉鷹山公の側室、お豊の方のお墓。お豊の方は30歳で10歳若い鷹山公の側室となり、
養蚕の奨励をするなど江戸にいる正室に代わって鷹山公の藩政改革を支えた才気ある女性です。
領民に大変敬愛されていたそうです。享年81歳・・仙洞院に負けず劣らずの大往生w


上杉神社(米沢城跡)に訪れた際は、林泉寺にもぜひ寄ってみてください。
せっかくだから本堂拝観料300円と境内拝観料100円はケチらないことをお勧めしますw



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| 武将の墓 | 20:35 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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米沢林泉寺の直江兼続のお墓

山形県の林泉寺には直江兼続と船さんのお墓があります。

山形林泉寺 直江兼続の墓

林泉寺は上越市の春日山城の麓に長尾家の菩提寺として建立されたのが始まりで、こちら米沢の林泉寺は
景勝公が30万石で米沢に入った際、謙信公の遺骸や文書、宝物と一緒にこの地に移されたのだそうです。

春日山城山麓の林泉寺でも貴重なお宝が見れましたが、こちら米沢林泉寺もたいそう充実しています。
謙信や兼続直筆の書や直江兼続夫妻の位牌や毘沙門像とか・・持てるだけ持ってきた的な貴重なお宝満載!
拝観料は本堂と宝物館見るのに300円。境内拝観するのに100円。あのお宝で300円は安いと思いました。
境内拝観100円ってのは要は直江夫妻を始めとする上杉セレブ達の廟所・・お墓の見学代ってことですw


山形林泉寺 直江兼続の墓

直江兼続と船さん夫妻のお墓です。本堂と境内拝観は別料金ですから回るルートが決まっていまして、
本堂を拝観する場合、本堂を見たにここに来る感じになります。5月GWでしたが東北はまだ桜がキレイ。
規模ももちろん立派で案内版もありますが、天地人以降立てていると思われる旗で存在感ばっちりですw


山形林泉寺 直江兼続の墓

向かって左が直江さん、右が船さんのお墓なんですが夫婦で同じ大きさってのは珍しいそうです。
船さんは再嫁で直江さんと一緒になりましたが、二人はとても仲睦まじかったと言われています。

独特のお墓の形は「万年塔(堂)」といってこの地方にしかないもので、直江兼続の考案だそうです。
有事の際は取り外して積み上げることで防塁にし、直江家の家紋を表す三つの穴は銃眼として使えるように
なっているんですって。水害時は中が空洞なので土を詰めて土嚢にも出来るとか・・直江さん恐るべしw

ここ米沢林泉寺境内では直江夫妻の他、甘粕備後守景継、武田大膳太夫信清の墓や
仙洞院を始めとする上杉レディたちが眠る上杉家廟所
も見ることが出来ます。(100円でねw
彼らの墓所については後日改めて、ひとまとめでご紹介しちゃうわよ。



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| 武将の墓 | 20:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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川越市役所前の太田道灌の銅像

[太田道灌] ブログ村キーワード

埼玉の川越市役所前には太田道灌の銅像があります。

川越市役所 太田道灌の銅像

川越市役所は川越城大手門跡にありますが、碑がなきゃわからないくらい普通の交差点前です。
なので道灌さんの銅像はとても目立ちます。遠目に見て早くもバランス悪いのが気になりましたw

光秀の銅像勝頼の銅像秀吉の銅像・・頭がデカいとか手足のバランスが悪いのはどうも・・(´Д`)
銅像ってのは全く違和感感じない(イメージに近い)のと、「おや?」っつうのと2種類ありますね。


川越市役所 太田道灌の銅像

写真でしか見たことないけど日暮里駅前やさいたま市にある騎馬の銅像は堂々として英雄らしさ満載なのに。

太田道灌は室町時代の武将で扇ガ谷上杉家の家宰として、関東平野を駆け回り負けなしの戦歴を誇る
文武両道の名将と言われ人望も厚かったそうです。道灌の活躍で扇ガ谷上杉家は関東管領山内上杉家を
凌ぐ勢いになると、恐れた山内上杉顕定は「道灌が謀反を企てている」と扇ガ谷上杉家正に讒言。
道灌はその言葉を信じた主君家正に糟谷の館(伊勢原市)に招かれ暗殺されました。享年55歳。

道灌は死に際「当方滅亡!!」と叫んだという。(扇ガ谷上杉もこれまでという意味)
その後、両上杉家は何度も戦いを重ね、最後は北条氏の前に滅んでしまいました。

アフォな主君に仕えると尽くしてやっても馬鹿を見ちゃうね・・
下剋上の世の中、道灌さん謀反した方が世のためにはむしろよかったかもw

文武の他、築城の才もあり、江戸城・河越城・岩付城の縄張もした太田道灌。
川越市開府の始祖と仰がれて川越市役所前に今こうして銅像があるそうです。


川越市役所 太田道灌の銅像

ワタクシは生粋(?)の埼玉っ子。心も思いも常に戦国が激熱だった西を向いていますが、
限られた貴重な埼玉の有名武将・・畠山さん北条さん、そしてこの道灌さん・・
城はもちろん、銅像や墓についても引き続き地味に食いついて行こうと思っていマスw




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| 武将の銅像 | 13:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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畠山重忠公史跡公園と満福寺の畠山重忠の墓

[畠山重忠] ブログ村キーワード

埼玉県深谷市の畠山重忠公史跡公園には畠山重忠のお墓があります。

畠山重忠史跡公園

鎌倉武士の模範とされる畠山重忠さんは1164(長寛2)年、武蔵国男衾郡(おぶすまごおり)
畠山荘(現在の埼玉県深谷市畠山)に生まれました。人望が厚く文武に優れていた重忠さんは
地元のヒーロー。で、ゆかりの地に名前がついた公園が整備され、銅像やお墓があるわけです。


畠山重公史跡史公園

鎌倉武士の模範と言われた重忠さんの最期は実に非業なものでした。

重忠に信頼を寄せていた源頼朝は死に際し、頼家のことを重忠に託します。
しかし頼朝亡き後、実権を握った北条時政にとって重忠は邪魔な存在でした。

時政は「鎌倉由比ヶ浜に謀反あり」と告げて菅谷館にいた重忠をおびき出すと
北条軍1千騎の兵で待ち構え、だまし討ちにします。この時、重忠さんの手勢は郎党130騎。

重忠さんは館に戻ることをよしとせず、この地を一歩も動かず戦い誉れを後代に残そうと郎党を諭し、
多勢を相手に夕刻まで戦い続けた後、全滅したそうです。時は1205年6月22日。享年42歳。

北条軍として参戦していた御家人の中には重忠さんに大恩ある者が多かったため、
戦いに積極的でなかったばかりか、後味の悪い思いが残ったといわれます。

重忠さんが最期を迎えた地は神奈川県の二俣川の万騎が原。でもここにだけ慰霊碑が建っています。
重忠さんみたいな武士のこの最期が残念すぎるとも思い、清廉で潔い生き様はあっぱれすぎる!
室町、戦国、江戸そして現在と時代が変わっても畠山重忠の名が残っているの本当に納得です。

ちなみに感じの悪ーい北条時政はその後ほどなく失脚。心からざま~みろ~!!と。

太田道灌さんも同じような非業の死を遂げているのですが、「やぁやぁ我こそは~」なんて
悠長な戦をやっていたくせに、反面だまし討ちとか普通にあるからほんとエゲツなくてイヤよ。


畠山重忠公史跡公園

このお堂の中に畠山重忠と家臣の墓があります。墓は五輪塔なんですが屋内なんですw
賽銭箱の前には新しいワンカップとお菓子が置かれていました。愛されてますね。


畠山重忠公史跡公園

埼玉県指定史跡である畠山重忠の墓。重忠主従六基の五輪塔を墓碑として祀ってあるんです。
中には入れないから扉の隙間から五輪塔を拝見。綺麗に手入れされています。
お供え持って真剣にお参りする人の存在を知り、ワタクシも散歩のオッサンを尻目に真剣に合掌。


畠山重忠公史跡公園

重忠さんが討死した際の板石塔婆には1304年卯月9日の記念銘と光明真言の梵字が書かれています。
重忠さんの百年忌にあたって建立されたものと伝えられているそうです。昔から慕われているのよ。


満福寺 畠山重忠菩提寺

畠山重忠公史跡公園のすぐ近くには重忠さんの菩提寺である満福寺もあります。
真言宗のお寺で鳥羽天皇の頃に建てられ、後に重忠が再興して菩提寺にしたそうです。
このお寺には位牌と重忠廟の碑があると知り、近いので立ち寄ってみました。


満福寺 畠山重忠菩提寺

朝早いせいもありますが、お墓詣りの人もいなくてひっそりとした境内。立派な本堂です。
住職さんとかウロウロしてたら絶対、お話を聞きたいところなんですが、人の気配がまったくないので
一般の方の墓地ゾーンにはズカズカ入らないようにして、お目当ての重忠廟の碑を探すことにします。


満福寺 畠山重忠菩提寺

墓地を挟んで本堂の隣にある観音閣には重忠の守本尊である等身大6尺3寸の千手観音もあるのだとか。
鎌倉の頃に180センチ越え・・文武に優れて人望厚く、堂々たる体躯・・忠勝君や清正君に通じるものが。

観音閣の中は覗きようもなく、守り本尊は御開帳の時じゃなきゃ見られないだろうけど、
このお寺の存在を知らなかったら普通に通り過ぎていただろうから下調べしといてよかったわw


満福寺 畠山重忠菩提寺

観音閣の右奥にある重忠廟碑。菩提寺というけれど重忠さんのお墓はないみたいです。
畠山重忠公史跡公園で見た五輪塔も彼を祀るための墓碑。本物のお墓はどこにあるんだろう?
でも少なくとも重忠さんも菩提寺であるこのお寺には来ただろうから妄想すればいいかw


後日、この満福寺の隣にある井椋神社も重忠君ゆかりの場所だと知りショック大!
畠山重忠公史跡公園と満福寺見て満足して、鳥居は見かけたけどすっかりスルーしていたよ。


仕方ない・・深谷城に登城する時また行くかwwwww



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| 武将の墓 | 20:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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畠山重忠公史跡公園の畠山重忠の銅像

[畠山重忠] ブログ村キーワード

埼玉県の畠山重忠公史跡公園には畠山重忠の銅像があります。

畠山重忠の銅像

戦国からさかのぼりますが、ワタクシけっこう気質が武闘派なのでお上品な平家より源氏好き。
なので鎌倉武士・・特にこの畠山重忠さんなんか大好きなんです。

畠山重忠さんは源頼朝の信頼が厚かった御家人。武蔵七党の一つとして千葉常胤と共に頼朝を助け、
木曾義仲追討では先陣を務めてこれを破り、義経に従って平氏討伐にも参戦。
文武両道で忠誠心の厚い、これぞ坂東武者!の見本のような素敵な武士なんです。


畠山重忠の銅像

一の谷合戦の鵯越(ひよどりごえ)の逆落しの際、自分の愛馬三日月を背負って斜面を降りたという
有名なエピソードが残る重忠さん。普通に考えたらありえないから、せいぜい馬を降りて労わりながら
降りたんだろうけど、強くて人柄がよく、慕われていたからこそ残る逸話なんだろうと思います。

ワタクシは平安末期から鎌倉時代のことは戦国ほど覚えた知識や興味があるわけじゃなかったのですが、
地元埼玉は戦国ターゲットで見ると北条だらけで西に比べて面白みはないけど、時代をさかのぼると
鎌倉街道あり、新田義貞ゆかりの地あり。でもって登城で足利氏館や菅谷館に行ったりするうち、
畠山重忠さんを知り、知れば知るほど惚れ込んでしまった次第。そしたらなんと名前の付いた公園が
埼玉にあるというから、思い立ってすぐ行ける埼玉県民でよかったと珍しく心の底から思ったわw


畠山重忠の銅像

ワタクシ銅像の採点は騎馬で2~3割増の計算ですが、これを見ると馬背負いもアリですねw
この銅像かっこいいよね。ビビッて腰が引けてる馬の様子もよけりゃ落ち着いた風格の重忠さんもいい!

重忠さんは6尺3寸も身の丈があったと言います。強い!人望がある!かしこい!戦上手!
加えて押し出しのある堂々たる体躯だったら文句なし! ツボにどんぴしゃなんだわ~


畠山重忠ロボ

ちなみにこちらは埼玉県比企郡の菅谷館がある資料館内のロボ重忠君Σ(゚Д゚)!

大鎧で坂東武者の風格漂わせながら、目の前に立つとギシギシ妙な音をさせながら身振りを交え、
重忠さんが生きた鎌倉時代の武士の生き様~な話を聞かせてくれるんです。

誰もいない展示室・・・せっかく話してくれるのに何だか悪くて重忠さんの一代話、
ついつい最後まで聞いてしまったワタクシなんて人がいい!!(笑)

人望の厚い御家人だったと言われる重忠さんらしく、北条氏に騙し討ちされた
非業の死について自らは何も語らなかったところがまたナイス!

ワタクシこのロボ重忠君に毒気を抜かれて、菅谷館跡の郭や土塁を見ながら
肝心な銅像を見逃してきてしまいましたww 絶対また行かなけりゃ!!

畠山重忠公史跡公園内にはお墓もあります。さらに近くには満福寺という菩提寺もあります。
長くなるからそれはまた別のエントリーで紹介したいと思います。


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| 武将の銅像 | 20:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大垣城の戸田氏鉄の銅像

大垣城のある大垣公園内には戸田氏鉄の銅像があります。

大垣城 戸田氏鉄 銅像

イケてる感は「騎馬で2割増」のはずなのですが・・すいません、あなた誰?って感じです(´Д`)
戸田氏鉄(とだうじかね)と読みます。そもそも大した知識があるわけではありませんが、
それにしてもまったくワタクシの記憶の中に名がない武将 戸田さんです。

調べてみると大垣城の大垣戸田藩の初代藩主で、維新まで230年余続く大垣藩の藩祖のようです。
近江膳所城主である父の跡を継いで城主となり、関ヶ原、大阪の陣を経て最終的に大垣10万石へ。


大垣城 戸田氏鉄 銅像

譜代大名で10万石なんて相当のものよ。四天王と言われた本多忠勝だって10万石だったんだから!
天正17年くらいに家康の近習になって、文禄の役の頃には従五位下采女正になったそうですが、
戸田さんどんだけのスピードで出世したんだ! というよりどんな功でマッハ出世をしたんだ!
名前もそうですが、活躍の次第がよく分からないところが謎すぎて気になって仕方ありません。

それまで藩主が入れ替わりまくっていた大垣は、戸田氏鉄が藩主になって藩政が安定。
治水や新田開発、教育などにも力を入れた戸田氏鉄は地元のヒーロー。銅像が建ちました。



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| 武将の銅像 | 22:08 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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北の庄城跡の柴田勝家の銅像

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越前北の庄城跡には柴田勝家とお市プラス三姉妹の銅像があります。

北の庄城跡 柴田勝家の銅像

北の庄城跡は現在、北の庄城公園になっていて柴田勝家とお市さんを祀った柴田神社も建てられています。
その北の庄城公園のど真ん中で柴田のオッサン・・もとい、柴田勝家が睨みを利かせております。

信長が若い頃には信長の弟、信行に肩入れして信長排除を画策、一時は信長と争いながら、
戦いに敗れて剃髪して降伏。それが許されたのも信長の後年にはあり得ないミラクルΣ(゚Д゚)!

六角氏に兵糧攻めを受けた時は、残りの水を兵士に分けた後、水瓶を叩き割って出撃したため
「瓶割り柴田」などとも呼ばれ、勇猛で猪突猛進、戦以外の細かいことに頭が回らないみたいな
イメージの武将ですが、お市さんが添い遂げたくらいだし、小説やドラマで作られたイメージより
実際は豪快ではあるけれど、非常に気持ちの優しい気配りのできる人だったのではと思います。


北の庄城跡 柴田勝家の銅像

ワタクシ親しみを込めて、柴田勝家のことを「柴田のオッサン」と呼んでおります。
無骨一辺に語られることが多い武将ですが、個人的には不器用だけど暖かい優しい人だと思っていて。
どう贔屓目に考えてもイケメンでもないし品もないだろうけど、人間的な魅力がありますね。

この銅像はちょっと小柄でワタクシのイメージする「鬼柴田」感が少し足りない気がしてマス。
顔ももうちょっと・・豪快でいかつい雰囲気があったらよかったな~なんて思ったりw


北の庄城跡 お市さんの銅像

北の庄城の片隅にある柴田神社の鳥居をくぐったところにはお市さんの銅像もあります。

お市さんは天正10年(1582)10月、柴田勝家に嫁ぎますが翌年4月24日、北の庄城は落城。
勝家は娘と共に城を出るよう諭しますが、お市の方は娘3人を秀吉の陣に送った後、
勝家と静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害したと言われています。

「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 夢路を誘う ほととぎすかな」

短い夏の夜の眠る頃合いだというのに、別れをせかすようにほととぎすが鳴いています・・

お市さんの辞世の句です。今風に言ったらこんな感じの雰囲気なんじゃないかしら・・。
1年と満たない結婚生活ながら夫とともに自害する道を選んだお市さんの心中はいかばかりか。

「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井に揚げよ 山ほととぎす」

そしてこれが柴田のオッサンの辞世の句。無骨なだけじゃないことがうかがえる句だと思います。


北の庄城跡 浅井三姉妹の銅像

お市さんと少し離れて茶々、初、江与・・浅井三姉妹の銅像もあります。
茶々が伸ばした手は、義父勝家とと母の市が残る北の庄城に心を残す様子を表現したものかしら?


北の庄城跡 柴田勝家ファミリーの銅像

5人の銅像の位置関係はこんな感じ・・なんでお市さんを柴田のオッサン側にしてあげなかったの?
それでなきゃ、せめて娘3人と同じところにするとかね。お立ち台スペースの関係かと思いますがw


北の庄城は結城秀康の福井城築城に際し取り壊され、現在の公園には目立つ遺構はありませんが、
柴田のオッサンとお市さんに思いを馳せに、近くに行った際はぜひ立ち寄ってみてください。



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| 武将の銅像 | 19:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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八王子城の北条氏照の墓

八王子城には北条氏照のお墓があります。正確には八王子城入り口前駐車場のちょい手前w

八王子城 北条氏照の墓

北条氏照さんのお墓は城内ではなく、少し手前の路地を入った奥にある藪というか山の中にあります。
城址入り口に向かう道すがら右手に細い路地(確か看板はあった)を曲がり畑の中をズンズン進みます。


八王子城 北条氏照の墓

すぐこんな感じになってきます。橋を渡った奥にある看板が氏照さんと家臣たちのお墓入り口です。


八王子城 北条氏照の墓

だいたいこの辺だろう程度の下調べで畑の中とか入ると、案内を見つけた瞬間とホッとしますw
さも立ち入り禁止風になってますけど大人は大丈夫ですw 何気に段数ありますけど頑張りましょう。

[北条氏照] ブログ村キーワード

八王子城 北条氏照の墓

階段を登ると開けた場所に出ました。氏照さんの墓石は一番奥ですが静かな藪の中には
他にも古びた墓石がいくつもあって・・兵どもが夢の後というか、独特の雰囲気があります。


八王子城 北条氏照の墓

氏照さんのお墓には戒名「青霄院殿透岳宗関大居士」と書かれています。
落城の後、7月11日に秀吉の命により小田原で自刃した氏照。享年46歳。
もとのお墓は小田原にあり、これは供養塔として氏照の家臣であった中山家範の孫の
中山信治が百回忌に際し、小田原から分葬したものなのだそうです。
両隣には城とともに討死した家範、後に水戸藩家老になった信治の墓が。
家臣からの人望が厚かったという氏照。人となりが垣間見える感じがします。


八王子城 北条氏照の墓

古びた墓石は氏照さんの家臣たちのもの。死して尚、氏照さんに従っているように見えます。
不規則に不揃いの墓石が建っている様は、八王子城落城やその後の北条氏の命運と重なって
何だかとても物悲しく感じられます。戦いによる生き死にってどんな時代も誰のも切ないですね。


この近所には「八王子城址歴史資料館」という北条氏の子孫の方が個人でやっている
資料館があるらしいんだけど、八王子城ファーストアタックでは場所が分からず断念。
氏照さんのかぶった兜とか貴重なものが見られるそうなので八王子城に登城する方は
ぜひ見せて頂くといいと思います。ワタクシも次は冬枯れの時期に再登城でトライw


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| 武将の墓 | 23:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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長篠城近くの馬場美濃守信房の墓

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長篠城跡のほど近くに馬場美濃守信房のお墓があります。

長篠 馬場信房の墓

長篠城址史跡保存館のHPからダウンロードした史跡めぐり用周辺マップを片手に確認しながら、
道端に立っている案内板をたどっていくと、どこに行くのか心配になるくらいどんどん畑の中へ・・
そんなところに馬場美濃守信房のお墓はあります。(後から車でも行けたことが判明)

長篠の合戦で勝頼を退却させ、敵中に飛び込んで討死した馬場さんの首を埋めた場所と言われているそうな。
ただ討死した場所というのは別に残っているそうなので、首があるかどうかは怪しいと思いますw


長篠 馬場信房の墓

でもいいの。首があるとか胴があるとか歴史ロマンにそんなの関係ないの。
そんなお墓はこれまでだってたくさん見てる。それでもワタクシ真面目に合掌してきたわ!
というわけで人目がないのをいいことに心静かに「合掌」・・馬場さん素敵ですw

ワタクシは熱心な武田ファンではないのですが、家臣には何となく好きな人が結構います。
馬場さんはその一人。信玄の父・信虎から信玄、勝頼の三代に仕えた武将で、
40年間で70回以上の戦に出陣して1度も負傷していないというエピソードがあるあたり、
本多忠勝君と同じ匂いがぷんぷんw 信長も「馬場美濃守手前の働比類なし」と称賛したという。

馬場君はこの長篠の合戦で討死します。織田軍の設置した馬防柵によって武田軍が総崩れになると
主君、勝頼が敗走するのを見届け「我こそは馬場美濃守という者なり」と・・・享年61歳。


長篠 馬場信房の墓

ここに来る前、長篠城跡を見て長篠城址史跡保存館で資料や展示を見てきているので妄想の下準備済み。

決戦前夜、馬場信春、土屋昌次、内藤昌豊、山県昌景は大通寺に集まり、この戦では勝利は難しい、
勝頼公は一国を束ねる器ではない。明日は討死しよう」と語り、今生の別れに水杯を交わしたと
伝えられています。翌日の合戦で敗走する勝頼を逃がしてあえて守って付き添わなかったのは、
この戦で討死すると決めていたからなんですね、きっと・・あまりにも壮絶すぎます。

ちなみに馬場さんは美濃守を許された時に信房から馬場美濃守信春と改名しています。
だから討死した時の名前は信春で、信房だと美濃守の官位はないんじゃないかと思うのですが、
案内板にあるまま、このエントリーでもタイトルはそのまま「馬場美濃守信房の墓」としています。


ワタクシにとっては武田の馬場さんと言ったら一人だけなので房でも春でもいいけんだけど、
強いて言うならやっぱり馬場信春の方が何となくしっくりするる気がしますけどねw

長篠城周辺は設楽原も含めると1日で見切れないくらい史跡や見どころがたんまりあります。
長篠城や馬場さんのお墓近くだけでも鳥居強右衛門磔の場所、お墓のある新昌寺があるので、
登城の際は見逃さないようにマップで予習をして、ガツガツ見て回るといいと思いますww


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| 武将の墓 | 23:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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長浜城天守跡の豊臣秀吉の銅像

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長浜城の天守台跡(豊公園)には豊臣秀吉の銅像があります。

長浜 豊臣秀吉の銅像

元は「今浜」と言ったこの地を信長に与えられた秀吉が、信長の一字をとって「長浜」に改称し、
城下町を作りました。江戸時代、伊井家の領地となって長浜城は廃城となりましたが、
秀吉によってつくられた城下町ということで未だ、【秀吉ラブ】が強い土地柄なんだそうです。
歴史博物館となっている模擬天守の目の前にある天守台跡に秀吉さんの銅像が建てられています。


長浜 豊臣秀吉の銅像

大阪城内の豊国神社にある秀吉像を見た時にも、銅像としては素晴らしいケド何かイメージ違うわ~
なんて思ったけど長浜に来てまた違った秀吉像を見て、その思い「さらに倍!」みたいなΣ(゚ロ゚;)
大阪城にある銅像より年齢的にも外見的にも太閤イズム満載なのに風格よりもどことなくファニーww


長浜 豊臣秀吉の銅像

ワタクシ色んな銅像を見て何となくわかってきました。頭デカ目な銅像はワタクシ的にしっくりこない!
近いうち、名古屋にある秀吉の銅像を見に行くつもりだけど、秀吉の銅像は期待できない気がしてマスw

ちなみにワタクシが長浜を訪れたのはゴールデンウィークの夕刻、西日の時間。
綺麗に銅像を撮りたい場合はあまり遅くない時間の方がいいのかもしれません。


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