武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2013年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年09月

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安土駅前の織田信長の銅像

安土駅前ロータリーには織田信長の銅像があります。

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人間~50年~んん・・・かどうかは分かりませんが、舞ってる感じのポージングね。

梅雨の合間、観音寺城の林道ゲートが開くのを待つ間の早朝撮影で、何しろイケてない写真です。

銅像もなんだかイマイチ。表情にリアリティがないっていうか、マンガっぽい感じがなんかイヤ。
狭いロータリーなのにお立ち台が高すぎるのも微妙だし、真後ろ同じ高さの電線も色気なし。

本拠地の銅像を前にしてなんだけど、ワタクシは清洲公園の桶狭間出陣前の織田信長像が好きだ!! 


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この銅像は平成3年にアサヒビールの樋口会長という方が寄贈して建てられたものだそうです。
ビール大好きなワタクシの買ったスーパードライもきっと貢献してるんだわ~と思って眺めますw
そんな古くないのに汚れや緑青がすごい目立つの気になります。メンテナンスしてほしいですね。


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ブロンズ信長様の背中・・安土城の方を向いているのかと思いきや背中向けてる感じでΣ(゚Д゚)!
他にもいっぱい信長観光スポットあるんだから、わざわざ駅前じゃなくてもよかったのかも。


でも安土めぐりするならやっぱりマストw「安土観光マップ」ももらえるし駅前にはもれなく寄りましょう。


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| 武将の銅像 | 14:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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長浜市石田町の石田三成供養塔

[石田三成] ブログ村キーワード

長浜市石田町には石田三成公一族及家臣の供養塔があります。

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一族の供養塔のある場所は石田町に着いたら八幡神社を目指します。車だと細い道なので注意!
八幡神社となっていますが境内に「石田神社」という標柱があるので三成ファンの方お見逃しなくw


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神社の横を抜けていくと、塀に囲まれた石田一族の供養塔がある一角があります。
造作もちゃんとしているし敷地も何気に広いです。綺麗に手入れされているのがすぐにわかります。
ワタクシが写真を撮っていると、地元の方らしきオジサンがやってきました。
オジサンまっすぐ供養塔に向かうと長いこと手を合わせます。三成ラブ度合にちょっと感動。


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昭和16年に八幡神社の地中より故意に破壊された五輪塔の残欠が発掘され、墓石の残欠が石田三成公の先祖に
関係のあるものと推定されました。関ヶ原の戦いの後、徳川方の追求を逃れるため、神社を隠れみのに
里人が密かに埋め隠していたものと考えられているのだとか。その後、仮の墓所で30年間供養していましたが、
昭和48年この地に「石田三成公一族家臣供養塔」が建てられたんだそうです。


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香炉堂なんかもある立派な供養塔です。ガラスもぴかぴか!地元に人の手入れなんでしょうね。
命日なんかは特に、全国から石田ファンが押し寄せる石田三成の聖地なんだそうですよ。
ワタクシ東軍より断然西軍。もちろん石田三成は好きです。頭がいいのだからもっと突き抜けて、
人を転がすためには何でも出来るバカになってしまえばいいのに、それが出来ない不器用さが何かねw


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大きな五輪塔の周りに小さな五輪の塔が置かれています。石の様子から時間が経っている感じがします。
三成は善政を敷いて領民に慕われたというから、三成ラブだった当時の人々が、徳川に見つからないよう
埋めたり壊したりして、大切に守ってきたものだったんだなという感じが伝わってきますよね。
ここでも遠藤直経のお墓同様、綺麗にシャンとしたお花が綺麗に活けてあるのが印象的でした。


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供養塔の近くには石田三成の辞世の句が掘られた碑も置かれていました。

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

筑摩江にともるかがり火が消えるように、自分も消えていくのだな・・

筑摩江は滋賀県の琵琶湖東北端にある場所を指すようです。三成が処刑されたのは京都の六条河原。
処刑場への護送中、のどが渇いたと言って柿を勧められ、痰の毒だと断ったエピソートが有名だけど、
どのタイミングで読んだのか・・辞世の句を見るとちょっとエピソートが示す印象と違う気もします。
でも死に際に及んで変にかっこつけたり気取ったお高い句を読んでいないところに逆に好感を持てたり。


近くには三成ファンの聖地 石田会館もあります。
長浜に行った際は、あるいは三成ファンの方はぜひ行ってみてください。



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| 武将の墓 | 19:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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太田駅前の新田義貞の銅像

[新田義貞] ブログ村キーワード

群馬県の太田駅前には新田義貞と脇屋義助の銅像があります。

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勇ましげな新田義貞と兜を持って従う脇屋義助・・脇屋さん義貞さんの弟なんですが従者のようw
新田一族は館を構えたところの名を名乗るので、脇屋に居を構えた弟は脇屋さんなんですね。


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義貞さんは後醍醐天皇の挙兵に応じて生品神社で挙兵し、上野国府、小手指原、分倍河原の合戦に勝利。
鎌倉幕府を滅ぼします。後醍醐天皇による新政が始まりますが、論功行賞をめぐって武家の不満がたまり、
足利尊氏は天皇と袂を分かちます。しかし義貞さんは楠正成とともに後醍醐天皇に忠節を尽くし、
尊氏と闘います。一時は九州まで撃退するものの、勢力を回復した尊氏に追いつめられ、湊川の戦いで
楠正成は自刃。義貞は京へ敗走し、後醍醐天皇は都から追放され、吉野へ逃れて南朝を開きます。

義貞は後醍醐天皇の再起の希望を担って皇太子 恒良親王と尊良親王を奉じて越前国敦賀へ下向します。
しかし義貞はこの地の戦闘で乗馬もろとも転倒し、泥田に足をとられた兜の目庇の下に矢が刺さり戦死。
義貞は最後の気力を振り絞り、自らの首を泥田の中に掻き落としたと云われています。享年 38歳。

ワタクシ後醍醐天皇嫌い。かといって足利尊氏もどうもいまいち好きになれません。


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脇屋さんは兄の義貞が鎌倉幕府倒幕の兵を挙げると共に鎌倉の北条氏を攻め、
功績により駿河守に任ぜられました。南北朝内乱が起きると義貞と共に各地で戦い、
義貞の戦死後も新田党を率いて奮戦しますが南朝勢力回復はかなわず伊予で戦死しています。


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義貞さんや楠さんは天皇に最後まで忠節を尽くした忠臣ということで明治以降は特に
クローズアップされたみたい。教育なんかでね、ああ云う風にあるべきだって。

再開発できれいに整備された太田駅を見つめる義貞さんと脇屋さんの思いやいかに・・。
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| 武将の銅像 | 00:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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熊谷駅の熊谷直実の銅像

[熊谷直実] ブログ村キーワード

埼玉県熊谷市の熊谷駅前ロータリーには熊谷直実の銅像があります。

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ロータリの中・・タクシープールを越えたところにあるので写真を撮るのちょっと大変。
ずかずか歩いてタクシープールを横切り、銅像がある場所まで近づく必要があります。
バス待ちしてる人やタクシー運転手さんの目が気になりますが、気にしてたら銅像は見れませんw


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平安末期から鎌倉時代初期、武蔵国熊谷郷(現・熊谷市)で活躍した武将。
元は平家に仕えていましたが「石橋山の戦い」で破れた源頼朝が木の洞に隠れているのを
見つけたものの、直実はホヤの枯れ枝で木の洞を隠し捕らえることをしませんでした。
平家の兵が怪しんで入り口をつつくと二羽の鳩が飛び出し、野生の鳩がいるなら
人が隠れているはずがないと納得してその場を立ち去ったため、頼朝は助ります。

後に直実は頼朝の御家人となりますが、この時のことを覚えていた頼朝から「向かい鳩の紋」
をもらったと言われています。その後、直実は数々の戦さで名を上げ鎌倉幕府成立に貢献しました。


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直実は一ノ谷の戦いで平家の若武者、平敦盛を打ち取りますが、息子ほどの年齢の若者の命を
奪ったことに戦の無情さや世の無常観を感じ、頼朝の前で髪を落として出家します。
浄土宗を開いた法然上人の弟子として蓮生と名乗って修行を重ね、各地に寺院を開基しました。


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気性が荒く直情型だったと言われる熊谷直実さん。こうと決めたら曲げない人ですね。
何を思って石橋山の戦いで頼朝を助けたのか詳しい事情や心情は分からないし、
なぜ一の谷の戦いで急に出家するほど無常を感じたのか、それも全く分からないけど、
ワタクシは面白い・・魅力があるという意味で直実さんみたいなの結構好きですw

戦国時代も色々な武将がいて面白くてやっぱり一番好きだけど、戦国の頃とはまた微妙に違う
武士としての考え方や道徳観のある源平の頃の武将も知れば知るほど興味深く思えます。


熊谷駅近くに行ったらぜひ、人目に負けず熊谷さんの銅像を見てみてくださいw






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| 武将の銅像 | 21:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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菅谷館の畠山重忠の銅像

[畠山重忠] ブログ村キーワード

埼玉県比企郡の菅谷館跡には畠山重忠の銅像があります。

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菅谷館は鎌倉時代に武蔵武士の畠山重忠が住居したと言われています。
吾妻鏡にも記述があり、畠山重忠さんとともに当時は有名なところでした。
大きな郭や深い空堀や土塁が見事に残る二の郭の土塁上に畠山さんが立っています。


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畠山重忠さんは知勇兼備の武将として常に先陣を務め、鎌倉幕府創業の功臣です。
武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と言われた畠山さん。
以前のエントリー、畠山重忠公史跡公園のところでも紹介していますが全くもって素敵な武士です。

静御前が源頼朝と北条政子の前で舞を舞った時、鼓を打ったのは重忠さんだったそうで、
武勇に優れるだけじゃなく文化芸術もイケる! 源平盛衰記 義経記にも登場するわけだ!

銅像は圧倒的に畠山重忠公史跡公園の方が実寸イメージにも近くポーズも含めかっこいいけどねw


P1060396.jpg

ほら・・銅像の作りもバランスも悪いから前のめり気味で紐につられちゃって・・(ノд-。)
昭和4年(1929)に造られた竹筋コンクリート製(!)なんだって・・・いい加減やばいでしょ。
菅谷館跡は国の史跡。でも銅像は町指定文化財なんだとか。寄付でも募って早く直してほしいわ。


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やぶ蚊に刺されながらも畠山重忠さんの銅像をねっちり眺めているワタクシ。
どこに行ってもだいたいこんな感じで、前から後ろから下から脇からガン見が常ですw


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畠山重忠さんの銅像in菅谷館は、埼玉県立嵐山史跡の博物館の敷地内にあります。
駐車場あり、館跡は無料。博物館は有料ですが、貴重なロボ畠山重忠さんが見れますw



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| 武将の銅像 | 19:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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平林寺の増田長盛の墓

埼玉県新座市の平林寺には増田長盛のお墓があります。

増田長盛の墓

最初に知った時、あまりに脈絡ないように思えて「マジで?」と思ったのですがマジですw

増田長盛は豊臣秀吉に仕えた豊臣五奉行の一人。大和郡山20万石の城主でしたが関ヶ原で敗戦し、
所領没収の上、高野山に追放されると、元和元年(1615)5月27日自刃。享年71歳でした。
岩槻の平林寺に葬られ、野火止移転に際し、この場所に改葬されたのだそうです。
政権にいたころは埼玉なんておそらく全く縁のなかっただろう土地で眠っているんですね。


見性院の墓

こちらは見性院・・武田信玄の二女で穴山梅雪の正室の供養塔。梅雪の死後、梅雪と懇意だった家康に養われ、
秀忠の子幸松丸(後の保科正之)と母お静の方を引き取り養育しました。お墓は浦和市の清泰寺にあるそうです。
家康や禅師と懇意だったため、後に建立されたものなのだとか。

ちょっと話が飛ぶけれど、ワタクシ何かで、武田勝頼が母である諏訪御料人の供養を平林寺に頼んだという話も
聞きかじった記憶があります。古刹には戦国にまつわるエピソードが何かしらあるものね。埼玉だとしてもw

平林寺は新座市役所近くで駐車場あり、バス便のアクセスよしで観光しやすい所だと思います。
今回ご紹介した増田長盛らのお墓の他、松平伊豆守信綱の墓もあり、お寺としては指定文化財になっている
総門、山門、仏殿、中門など見どころがたくさん。境内の植栽や四季の花々もとても綺麗!おすすめです。


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| 武将の墓 | 19:08 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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清州公園の織田信長の銅像

[織田信長] ブログ村キーワード

清州城前の清州公園には織田信長と濃姫の銅像があります。

清州 信長と濃

まずは信長様から。若かりし日・・桶狭間の戦いの出陣場面を表現しているんだそうです。
なるほど後年のイメージから受ける迫力や貫禄はまだなく、凛々しい感じがよい銅像だと思います。
安土駅前の能を舞う信長像より、岐阜駅にあるゴールデン信長より、ワタクシはこれが好きです。


清州 信長と濃

で、こちらがもれなくセットの濃姫。濃姫は形式ばかりの正室だったとか、ほとんど関わらなかったとか
色々な説があるようですが、まぁ戦国ロマンってことで清州に建つ銅像としてセットはありだと思いました。
信長が寵愛したのは吉乃やお鍋の方だというから、こういうシーンくらいは正室の存在感をあげてもね。


清州 信長と濃

二人の位置関係はこーんな感じ。信長はそっぽ向いてるんじゃなくて桶狭間方面を見ているらしいよ。
愛する夫の死ぬか生きるかの出陣を黙って見送る・・後に桶狭間の戦いと呼ばれる戦の厳しさを知ればこそ、
「ご武運を」って言葉すらかけられず、ただただ祈るしかないみたいな感じが表現された銅像だと思います。


清州 信長と濃

最後に凛々しすぎる信長様を別角度からもう1度w イメージ通りかと言われれば難しいケド、
採点2割増の騎馬像でもないけど、信長様特別ルールで4割増カウントw いい銅像だと思いました。

信長と濃姫の銅像は清州城の中ではなく、線路の向こうにある清州公園の中にあります。
やたら観光客に人気な模擬天守の清州城以上に清州古城跡とこの銅像をお見逃しなくw


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| 武将の銅像 | 01:02 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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妻沼聖天山の斉藤実盛の銅像

[平家物語] ブログ村キーワード

埼玉県熊谷市の妻沼聖天山には斉藤実盛の銅像があります。

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戦国ロマンじゃなくても、生き様がかっこいい武士らしい武士は称えておかなきゃ!
ということで畠山重忠さんに続き、源平の頃・・平家物語に登場する斉藤実盛さんの銅像です。


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実盛さんが右手に筆、左手に鏡を持っている姿は平家物語(巻第七「実盛最期」)の場面より。

実盛は当初源氏に仕えていて、合戦で討ち死にした源義賢の子、駒王丸を匿い木曽に送りました。
この駒王丸は後の木曽義仲。その後、実盛は平治の乱で源義朝を助けて戦いますが、敗北後、
時の流れに従って平宗盛に仕え、領地(熊谷市妻沼)を安堵された恩義を貫きます。

寿永2年(1183)、倶利伽羅峠の戦いで源平が激突しますが、平家は敗北。
源氏の追跡軍をかわしながら篠原まで退いたところで総崩れとなってしまいます。

兵士が逃げる中、実盛はたった一騎で源氏方に挑み、討ち死にする覚悟を決めます。
この時、実盛73才。老武者と見られることを恥じて白髪を黒く染めて覚悟の出陣でした。
そして潔く一騎で斬りこみ奮戦するものの、源氏方の手塚光盛に討ち取られます。

首実検をした源氏方の大将・・・木曽義仲は実盛の首を見て人目を憚らず泣いたと言います。


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実盛さん大丈夫。ちゃんと染まってますよ!!バッチリ決まってますよ!!

この銅像は覚悟の出陣前、実盛さんが髪を染めている姿を表現していたもの。う~泣ける。

当時の73歳で叶わぬまでも一騎打ちして死に花咲かせようという気概もすごいし、
首実検の時に老武者と見られることを恥じて髪を染めて出陣する覚悟もすごいし、
相手方の大将が木曽義仲と知りつつ何も言わず戦い散っていく壮絶さもすごいし。


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男の、武士(もののふ)の背中ですよ。涙が出そうになってきます。

自分が助けた時2歳だった子供が立派な大将になって目の前の敵軍を率いている・・
実盛さんはどんな思いでそれを眺め、どんな気持ちで源氏にむかっていったのだろう。

畠山重忠さんにしろ、斉藤実盛さんにしろ、ブレない、潔いのはマジ惚れますね。


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実盛さんの銅像がある妻沼聖天宮は、実盛さんが本拠地である武蔵国長井庄に自分の守り本尊である
大聖歓喜天を奉り、聖天宮(1179年)を開いたのが始まりとされています。日本三大聖天の一つで、
2012年に何と国宝に指定されました!写真がその国宝になった本殿「歓喜院聖天堂」。
平成の大修理でよみがえった極彩色の彫刻がすばらしかった~! 山門も見どころよ。

近くにお立ち寄りの際はぜひ、斉藤実盛の銅像in妻沼聖天堂をご覧くださいw



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| 武将の銅像 | 19:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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高野山奥の院の武将のお墓その2

[武将の墓] ブログ村キーワード

高野山奥の院の武将のお墓その1の続きです。

石田三成墓所

石田三成のお墓。敗戦の将は奥まったところにあったり規模が小さかったり・・
それでも三成はそんな変な場所じゃないけど。気の毒だと見るか、それでも奥ノ院に
お墓があることでよしと感じるか人それぞれ。ワタクシは石田三成嫌いじゃありません。
徳川時代に抹殺されず、他の武将と並んでここにお墓があってよかったと思いました。


明智光秀墓所

明智光秀のお墓。これまた道からそれたところにひっそりと・・
しかも向きも変で何だか気の毒になりました。三成より奥まってましたし。

順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元

正しい順序と逆の順序には一本の道しかないのであろう。
人の大道(人の守るべき正しい道)とはなんであろうか。
五十五年の夢が覚めたような今、心の源に到達したような気がする
私はいま土へと帰るが、己の生き方に悔いはない。

何しろ信長が一番ですがだからといって光秀が嫌いではないんです。
辞世の句。清廉潔白で品があってわたくしはとっても好きです。
次に好きなのは謙信の辞世の句。秀吉のはあまり好きじゃないです。

榊原康政墓所

榊原康政のお墓。榊原君は言わずと知れた徳川四天王。本多忠勝のお墓はあるけど
伊井君と酒井君はあったかな? ビッグネームだらけなので四天王でも正直目立ちませんw


本多忠勝墓所

ワタクシの好きな武将ベスト5のひとり本多忠勝君のお墓。
お墓をくぎる柵みたいのもなくドーンとね。囲いがないと取ってつけたみたいな・・
忠勝君は千葉の大多喜にもお墓があるから、そのうち本拠地のそちらにも行こうと思う。


豊臣家廟所

秀吉のお墓は大きいです。一族分あるので敷地?区画?が大きい!!
でも墓石がいまいちしょぼかったので「?」な感じがしました。
秀吉はもしかしてあの世で派手な廟を欲しがっているかもしれないね。
誰が建てたか分からないけどセンスはいまいちだと見ましたw


織田信長墓所

信長のお墓もメインルート沿いではなく横道を登ったところにあります。
ただメジャー中のメジャーですからちゃんと案内の看板が出てるので見逃すことはありませんw
信長はワタクシ的超カリスマ。中学生の時から今日までずっとナンバーワンカリスマ。
骨なんかもちろん入っていませんが気持ちの問題。神妙に手を合わせておきました。
しかし・・・秀吉より低い場所にあることには地味に納得いきませんでしたが。

安土城の二の郭にある信長廟所より、奥ノ院の方がモロお墓でお参りモチベが上がりますよ。


筒井順慶墓所

筒井順慶のお墓。ちゃっかり信長のお墓の隣!!隣は蘭丸君とかがよいんじゃないかw
って、そもそも蘭丸のお墓はここにないけど・・奥ノ院にお墓がある基準は何なのかな?
加藤清正とか蒲生氏郷とか国持ち武将もお墓ない人いるし・・真言宗とか関係なさそうだし。


武将の墓マイラーとしては、ゆかりの地やゆかりの寺院にあるお墓の方が
真剣に手を合わせる度が高くなるし、より思いを馳せれて感慨深いんだけど、
奥ノ院はそれとは違うお得感があり、お腹いっぱいになるからよかったですw


また行って他に見逃した武将のお墓を改めて見たいけど遠いし、不便だし、混んでるし・・
ただ真田君ゆかりの九度山にいずれ行くと思うので、何ならその時気合いを入れてだなw


高野山に行ったら金剛峰寺とかだけじゃなく、奥ノ院も絶対に時間の余裕を持ってて行ってね。



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| 武将の墓 | 21:39 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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高野山奥の院の武将のお墓その1

[武将の墓] ブログ村キーワード

世界遺産 高野山奥の院には武将のお墓が大量にあります。

奥ノ院

高野山は広い!武将の墓所がある奥ノ院は金剛峰寺などの中心部から2キロぐらい離れています。
弘法大師のいるところを奥ノ院というそうです。どういう経緯でそうなったのか分からないけど
奥ノ院にはメジャーからマイナーまで、はたまた近現代の著名人まで多くのお墓があります。
全部見きれないのでピンポイントで墓参りしました。その中でも超メジャーをご紹介します。


島津家墓所

島津家の墓所・・って家単位だからメジャーっていってもピンと来ないかw

奥ノ院は散策マップがあり、もらってから行けばどこに誰のお墓があるかが記されてます。
でも参道沿いに全部があるわけじゃないので、目皿にしてないと奥の方のは見逃します。


武田信玄

武田信玄・勝頼親子のお墓は参道沿いで看板も立っているので大丈夫w
お墓と言っても武将の場合、必ずしも骨が埋まっているとは限りませんが、
お墓は偲ぶ人のためにあるとも言いますから気持ちの問題ということで。


上杉謙信廟所

上杉謙信の廟所。これは奥まったところにあるからボーっとしてるとちょいと危ない。

この廟所は重要文化財なんだとか。謙信の遺言によって建てられた霊廟なんだって。
あちこちにガイドさんを頼んだ団体がいるので、見つけたらさりげなくそばに行き、
何食わぬ顔で説明を聞くのがポイントですw


伊達政宗墓所

伊達政宗のお墓もあります。これも参道沿いなので大丈夫。
ビッグネームだけど信玄や謙信とは違って五輪塔のお墓です。
梵字が入った五輪塔は苔むして年季が入っています。


結城秀康の石廟

結城秀康のお墓は何気に立派です。お墓じゃなくて廟か・・謙信並みの待遇ですな。
ワタクシ的に結城秀康には食いつきどころがないので、ふうん・・という感じで終了w


浅野内匠頭墓所

急に時代が飛ぶけど、浅野内匠頭のお墓。赤穂浪士はいませんよ。浅野さんだけです。


奥ノ院、パナソニックとかメジャーな日本企業のお墓もたくさんあるんだけど
リッチな新しい墓石が妙に浮いてて超違和感。空気読んだ方がいいと思ったわよ。


高野山奥の院の武将のお墓その2に続く。



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| 武将の墓 | 15:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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石田会館の石田三成の銅像

[石田三成] ブログ村キーワード

長浜市の石田町にある石田会館には石田三成の銅像があります。

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石田町は石田三成の地元。
三献の茶の銅像のところでご紹介しましたが、子供の頃、小姓をしていた秀吉と出会ったお寺は
この石田町から山一つ越えたところにある観音寺です。三成さんは石田町で生まれ、育ったんです。

その町内にある石田会館という三成ゆかりのブツの展示をしている建物の敷地内に建っている銅像。
石田治部少輔出生地の碑もあいまって、出生の地=三成ファンの聖地って感じを盛り上げますw


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どうこれ、いいお顔じゃない? 平成2年(1990年)に三成の390回忌に際して建立されたもので、
京都の大徳寺に葬られている遺骸と青森杉山家に伝わる三成の肖像画を参考にして作られたそう。
よく細面で狐顔とか言われるけど、それも徳川の悪口作戦じゃないかと疑りたくなりますw
肖像画とか優しげな感じのやつあるものね。ゲームがイケメンすぎるのは別問題としてΣ(゚Д゚)!
知的で品があって温和な表情で・・・三成のイメージどうりかは別としていい銅像だと思いました。

ワタクシは特に三成の大ファンというわけじゃありませんが、嫌な印象とかは全然持っていなくて、
むしろ大した人だと思っています。大谷さんや直江さんなんかとも堅い友情で結ばれてたしね。
関ヶ原は断然、西軍派なので未だ三成さんを慕う地元民のいる石田町めぐりは楽しかったわ~


石田町には石田三成公一族の供養塔や香炉堂の立つ一角や三成産湯の井戸などがあり、
また近くには三成が小姓をしていた観音寺や、三献の茶の水汲みの井戸などもあるので、
三成ファンだけでなく戦国ファンも一度は訪れるといいと思います。

訪れた際はぜひ、三成さんのことが大好きな石田町の人々とお話をするのがおすすめです!

※石田町と近隣のスポット、石田町の方がどれだけ三成さんが好きかはこちらでご紹介しています。


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| 武将の銅像 | 18:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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