達磨寺の松永久秀の墓
奈良県北葛城郡の達磨寺には松永久秀の墓があります。

正式名は片岡山達磨寺。臨済宗南禅寺派の寺院だそうです。聖徳太子が達磨像を刻み、
安置したことに始まると伝わっているそうです。本堂は2002年に建て替えられたものだそうです。
お寺の案内板を見ると重要文化財になっている千手観世音菩薩像、聖徳太子像、達磨大師像などがあるらしく、
拝観料100円を払うと本堂の中でそれが拝めるようなのですが、ワタクシ今回それに用はないので割愛w

で、松永さんの墓はどこだ!?とキョロキョロすると、本堂の左手の方に絶対それだってのを発見!
さて、ここでクイズです。3つならんで墓石がありますが、どれが松永さんのお墓でしょう?
・・・答えは一番右はしのこじんま~りしたやつ(´Д`)
片岡八郎公十七代、片岡春利二十七代というお墓の方がドーンとしていて、豪快オヤジ松永久秀は地味。
そうなると「片岡なにがしって・・いったい誰?」と不勉強なワタクシは思うわけで。
以下、現地案内板を抜粋してみます。
片岡八郎利一は王寺の人で、南北朝の頃、鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇の皇子、
大塔宮護良親王の重要な家来だったそうです。京都で幕府軍と戦いますが戦況は不利となり、
矢田彦七(誰?)と紀州熊野に逃れようとした途中、玉置荘司盛高(誰?)が待ち構えていて、
宮に協力するよう頼んだけど聞き入れてもらえず、仕方なく宮に危機が迫っていることを報せるため
引き返そうとすると追手に追われて深手を負ってしまい、彦七に宮への伝言を頼んで敵中に切りこみ、
桜花の散るように勇ましく戦死。八郎の忠義の死によって大塔宮は危機を脱したそうな。
で、大正4年(1915年)国家につくした者として正五位が贈られた・・人なんだそうです。
片岡春利は片岡城の城主で、永禄12年(1569)に松永久秀に攻められてよく守った。
とこういう説明。筒井順慶配下の武将だったみたいね。だけど結果、松永さんにやられちゃったみたい。
八郎さんとかこの際どうでもいいけど、しかし戦国史は奥深いね・・もっともっと勉強しなければ。

で、右側の松永久秀さんのお墓にズームイン! 戦国の梟雄の墓はあまりにも地味地味しいね。
松永さんと言えば足利を裏切り、興福寺を裏切り、三好も裏切り、東大寺の大仏を焼き・・
戦国史に燦然と輝く謀略と裏切りの武将ですw 出自ははっきりしないそうですが有名なところは
三好家に仕えて13代室町幕府将軍、足利義輝を襲撃するも三好家と諍いが起きると三好家が
立てこもる東大寺を大仏もろとも焼き払う。その後、信長が上洛すると九十九髪茄子の茶器を
差し出して仕えるものの、足利義昭が織田包囲網を展開するとこれに乗って信長に造反します。
織田包囲網が信玄の死によって失敗に終わると、多聞山城を明け渡して信長に再び従属。
しかし本願寺攻めが開始されると、そのどさくさに乗じて信貴山城に立てこもり謀反を起こします。
信長軍に包囲された松永久秀は降伏することなく信長が欲しがっていた平蜘蛛の茶釜を抱いて爆死しました。
2度目に裏切りにもかかわらず「平蜘蛛の茶釜を渡せば許す」と信長は言ったそうですが、
松永さんの心中やいかに・・渡したところで2度目はないと思ってあてこすったのかもしれないね。

あの信長にして「普通は生涯かけて1つできるかの悪事を3つもやってのけた」と言わしめる松永さん。
松永さんはある意味「ミスター戦国」よw 謀略、裏切り・・ワタクシは松永さん嫌いじゃありません。
下剋上の世の中、きれいごと言ったって始まらない。この時代にモラルの大小問うても仕方がないし、
正々堂々としてるつうかね、二枚舌だったり玉虫色だったりいやらしいやり方だったら嫌いだけど、
分かりやすいっていうか、愛すべき悪役というか・・天下とか狙ってないんだよね、松永さんは。
天下狙ってたら将軍やらないでしょw その時のフィーリング? 本能のままって感じがいいのよw
信貴山城で爆死した松永久秀の遺骸は、同じ大和にいてライバル関係だった筒井順慶が
この寺に葬ったと言われているそうです。信貴山城に籠城した松永さんを攻めたのは筒井さん。
同郷のよしみなのか、何かしら縁あってのことか分かりませんが、地味にグッとくるエピソードw
達磨寺には他に聖徳太子の愛犬「雪丸」の像などもありました。
近くには松永さんが爆死した信貴山城跡(朝護孫子寺)もあります。
ワタクシは信貴山城へ行く前に立ち寄り。何だかリアルだったわ~
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| 武将の墓 | 06:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑