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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2013年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年10月

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達磨寺の松永久秀の墓

[松永久秀] ブログ村キーワード

奈良県北葛城郡の達磨寺には松永久秀の墓があります。

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正式名は片岡山達磨寺。臨済宗南禅寺派の寺院だそうです。聖徳太子が達磨像を刻み、
安置したことに始まると伝わっているそうです。本堂は2002年に建て替えられたものだそうです。
お寺の案内板を見ると重要文化財になっている千手観世音菩薩像、聖徳太子像、達磨大師像などがあるらしく、
拝観料100円を払うと本堂の中でそれが拝めるようなのですが、ワタクシ今回それに用はないので割愛w


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で、松永さんの墓はどこだ!?とキョロキョロすると、本堂の左手の方に絶対それだってのを発見!
さて、ここでクイズです。3つならんで墓石がありますが、どれが松永さんのお墓でしょう?

・・・答えは一番右はしのこじんま~りしたやつ(´Д`) 

片岡八郎公十七代、片岡春利二十七代というお墓の方がドーンとしていて、豪快オヤジ松永久秀は地味。
そうなると「片岡なにがしって・・いったい誰?」と不勉強なワタクシは思うわけで。

以下、現地案内板を抜粋してみます。

片岡八郎利一は王寺の人で、南北朝の頃、鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇の皇子、
大塔宮護良親王の重要な家来だったそうです。京都で幕府軍と戦いますが戦況は不利となり、
矢田彦七(誰?)と紀州熊野に逃れようとした途中、玉置荘司盛高(誰?)が待ち構えていて、
宮に協力するよう頼んだけど聞き入れてもらえず、仕方なく宮に危機が迫っていることを報せるため
引き返そうとすると追手に追われて深手を負ってしまい、彦七に宮への伝言を頼んで敵中に切りこみ、
桜花の散るように勇ましく戦死。八郎の忠義の死によって大塔宮は危機を脱したそうな。
で、大正4年(1915年)国家につくした者として正五位が贈られた・・人なんだそうです。

片岡春利は片岡城の城主で、永禄12年(1569)に松永久秀に攻められてよく守った。

とこういう説明。筒井順慶配下の武将だったみたいね。だけど結果、松永さんにやられちゃったみたい。

八郎さんとかこの際どうでもいいけど、しかし戦国史は奥深いね・・もっともっと勉強しなければ。


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で、右側の松永久秀さんのお墓にズームイン! 戦国の梟雄の墓はあまりにも地味地味しいね。
松永さんと言えば足利を裏切り、興福寺を裏切り、三好も裏切り、東大寺の大仏を焼き・・
戦国史に燦然と輝く謀略と裏切りの武将ですw 出自ははっきりしないそうですが有名なところは
三好家に仕えて13代室町幕府将軍、足利義輝を襲撃するも三好家と諍いが起きると三好家が
立てこもる東大寺を大仏もろとも焼き払う。その後、信長が上洛すると九十九髪茄子の茶器を
差し出して仕えるものの、足利義昭が織田包囲網を展開するとこれに乗って信長に造反します。

織田包囲網が信玄の死によって失敗に終わると、多聞山城を明け渡して信長に再び従属。
しかし本願寺攻めが開始されると、そのどさくさに乗じて信貴山城に立てこもり謀反を起こします。
信長軍に包囲された松永久秀は降伏することなく信長が欲しがっていた平蜘蛛の茶釜を抱いて爆死しました。
2度目に裏切りにもかかわらず「平蜘蛛の茶釜を渡せば許す」と信長は言ったそうですが、
松永さんの心中やいかに・・渡したところで2度目はないと思ってあてこすったのかもしれないね。


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あの信長にして「普通は生涯かけて1つできるかの悪事を3つもやってのけた」と言わしめる松永さん。
松永さんはある意味「ミスター戦国」よw 謀略、裏切り・・ワタクシは松永さん嫌いじゃありません。
下剋上の世の中、きれいごと言ったって始まらない。この時代にモラルの大小問うても仕方がないし、
正々堂々としてるつうかね、二枚舌だったり玉虫色だったりいやらしいやり方だったら嫌いだけど、
分かりやすいっていうか、愛すべき悪役というか・・天下とか狙ってないんだよね、松永さんは。
天下狙ってたら将軍やらないでしょw その時のフィーリング? 本能のままって感じがいいのよw

信貴山城で爆死した松永久秀の遺骸は、同じ大和にいてライバル関係だった筒井順慶
この寺に葬ったと言われているそうです。信貴山城に籠城した松永さんを攻めたのは筒井さん。
同郷のよしみなのか、何かしら縁あってのことか分かりませんが、地味にグッとくるエピソードw



達磨寺には他に聖徳太子の愛犬「雪丸」の像などもありました。

近くには松永さんが爆死した信貴山城跡(朝護孫子寺)もあります。
ワタクシは信貴山城へ行く前に立ち寄り。何だかリアルだったわ~



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| 武将の墓 | 06:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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新発田城大手門前の堀部安兵衛の銅像

[武将] ブログ村キーワード

新潟県の新発田城本丸大手門前には忠臣蔵の堀部安兵衛の銅像が建っています。

堀部安兵衛の銅像 新発田

安兵衛の仕えていた浅野家は赤穂、そして討入りは江戸・・・・で、なぜに新発田? と思ったら、
堀部安兵衛の生まれ故郷なんだそうです。安兵衛の父親は新発田藩士でしたが、櫓の失火の責めを負い、
浪人となりました。安兵衛は父の死後、江戸に出て赤穂藩士の堀部弥兵衛と知り合い、養子となります。
で、赤穂藩に仕えることになった後、四十七士となって吉良邸に討入りするわけなんで・・・

ここの銅像ちょっと無理やりじゃない? 

と、ワタクシのように思う人がいることを想定してのことかは分かりませんが、
この銅像は安兵衛が新発田から江戸に旅立つ時の姿を表現しているそうです。


忠臣蔵にワタクシはそんなに食いついていないので写真はとりあえず見かけて撮ったこれ1枚w


県立新発田病院の南東隅には生誕地碑が立っているそうです。お好きな方はセットでどうぞ。


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| 武将の銅像 | 23:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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佐倉城の堀田正睦の銅像

千葉県の佐倉城には堀田正睦公の銅像があります。

武将じゃない上、おっそろしく地味Σ(゚Д゚)! 武将じゃないけど武士なので一応ご紹介しますw

堀田正睦の銅像 

堀田正睦さん(1810~1864)は天保の改革なんかで名前が出てくる幕末の老中で佐倉藩5代藩主。
蘭学好きで藩内に学問を奨励したり、西洋かぶれと言われるほど知識も豊富な人だったそうです。

堀田さんはしたたかな駐日総領事ハリスと会談を重ねて交渉し、日米修好通商条約締結を目指しますが、
孝明天皇の勅許を得ることに失敗。また同じ頃、将軍家定の跡継ぎ問題で一橋慶喜側に立ったていたため、
家茂を推す井伊直弼が大老になると失脚。井伊は独断で日米修好通商条約を締結し翌日、堀田さん罷免…。

めんどくさいこと押し付けられて結果これ・・扱いが地味すぎる上、報われなさが切ないわ(ノд-。)

国益を考えて奔走した堀田さんは、日本の開国に確実に貢献した人のひとり。
井伊にオイシイとこどりされましたが、地元佐倉ではこうして銅像が建てられています。



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| 武将の銅像 | 20:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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正龍寺の北条氏邦の墓

[北条氏] ブログ村キーワード

埼玉県大里郡寄居町にある正龍寺には北条氏邦のお墓があります。

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正龍寺の歴史は古く、元は花園城主藤田五郎政行が創建し、貞和4年(11348)臨済宗の僧實翁和尚が、
山号を青龍寺と改号。天文元年(1532)に乾翁瑞元和尚が教化して十五代城主藤田康邦が開基となり、
天正19年(1591)に正龍寺に変わりました。現在は曹洞宗のお寺だそうです。

正式な名前は「曹洞宗 高根山藤源院 正龍禅寺」。北条氏邦夫妻と藤田康邦夫妻のお墓があります。
北条氏邦は北条氏康の3男で氏政や氏照の弟、藤田康邦は当時の花園城主で氏邦の養父であり義父です。


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藤田氏は古くから一帯を治め、室町時代には関東管領上杉氏の重臣でしたが、川越野戦の後、
北条氏の支配下に入ると、氏康の三男、乙千代(後の氏邦)を娘(後の大福御前)の婿に迎えて
天神山城と花園城を譲り、康邦自身は男子の重連・信吉を連れて用土城に移って隠居となります。
氏邦が鉢形城主となったのは永禄年間。この時に大規模な改修が行われ北条最大規模の支城となりました。


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お墓の中をちょいちょい登りながら進んで氏邦さんたちのお墓に到着。霊廟のようになってます。
2組の夫妻のお墓はそれぞれ埼玉県指定史跡及天然記念物に指定されているそうです・・天然記念物?


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供養祭など特別な時以外、普段は鍵がかかっていて中に入ることはできないようです。
向かって左に北条氏邦と大福御前、右側に藤田康邦と西福御前の宝篋印塔が並んでいます。
戦国期の宝篋印塔としては大型で、笠に彫られた蕨手や竪連子の模様などに特徴のあるこの四基の墓は
戦国末期の領国支配と戦国大名の動静の一端を如実に物語っています・・と説明がありました。


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氏邦は豊臣秀吉による小田原攻めの際、野戦での撃退を主張したとも言われる武闘派で、
兄の氏照とともに勇将の誉れ高い武将でした。子供の頃には氏政を何度もケンカで負かせており、
家臣の中には氏邦や氏照の方が世継ぎに向いているのではという声も上がっていたほどだったとか。
父の氏康は後継ぎ問題を恐れ、氏邦を藤田氏へ、氏照を大石氏に養子へ出したと言われています。

氏邦は野戦を得意とする武勇の将でしたが、鉢形城改修と同時に城下町を整備して養蚕を奨励し、
領国経営にも力を入れていたそうです。小田原攻めの際には抗戦を主張しますが評定に従い、
3千あまりの兵とともに鉢形城に籠城しました。しかし上杉景勝、前田利家ら5万の兵に包囲され1ヶ月後、
氏邦は城兵の助命を条件にやむなく開城。正龍寺で出家して前田利家のもとに降伏したと言います。

その後、氏邦は前田利家に預けられて加賀に移り、7年後に死去しました。享年57歳。
氏邦の夫人、大福(おふく)御前は正龍寺で仏門に入っていましたが落城の後、自害したそうです。


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用土城に隠居した藤田康邦が亡くなったのは天文24(1555)年。ここ正龍寺に葬られました。
この時、康邦が連れて出た2人の実子・・重連は19歳、信吉は3歳だったそうです。
天正6(1578)年、重連は沼田城主をめぐる問題から存在を危険視した氏邦によって毒殺されます。
沼田城代となっていた弟の信吉は氏邦を恨んで武田勝頼に寝返り、武田氏の滅亡後は上杉へ仕えると、
鉢形城攻めでは上杉軍の先鋒を務めました。一説によると信吉は姉の大福御前に頼まれて
氏邦の助命嘆願をしたとも言われていますが、寝返るほど恨んでいた兄の敵だし・・どうなんだろ? 

氏邦の遺骨は加賀から家臣が持ち帰り、藤田氏康夫妻の眠る正龍寺に葬ったと言われています。


義弟毒殺とかぶっそうな話もあるけど家のため家臣のため・・戦国時代だから何でもありますよ。
それでも数々の戦功をあげ、堅固な鉢形城を築き、領地経営にも力を注ぎ、抗戦派にも関わらず、
城兵の命を救うため開城を選び・・そんな氏邦の葬儀には弟氏規や北条旧臣や領民などを含め、
一山を越える人が集まったと言われています。今でも地元の人からは慕われているそうです。


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正龍寺の近くには藤田氏の菩提寺である善導寺もあります。鉢形城も近いので全部セットで。



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| 武将の墓 | 07:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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安土城の信長廟所と信雄供養塔

[安土城] ブログ村キーワード

安土城には織田信長の廟所と信長の次男、信雄の供養塔があります。

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まずは順番的に信雄の供養塔から。本丸方面に向かう黒金門を越えた左手の方にあります。
正確には信雄以降四代の供養塔で、右から初代信雄、四代信武、三代長頼、二代高長と並んでいます。


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信雄と言えば、無断で伊賀国に出陣して大敗し信長に譴責されたとか、
本能寺の変後、安土城を燃やした張本人ということにされていたりとか、
小牧長久手の戦いでは家康に無断で秀吉と単独講和をしてしまったりとか、
とにかく愚将のイメージが付きまとう人ね。安土の放火の真偽は別として、
やっぱり考えが浅いというか、周囲からの評価は低い人だったんだと思う。
ワタクシも信長の野望をやる時、頼りにした試しは1度もないですw


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信雄の供養塔・・写真じゃなくて供養塔そのものが少し傾いているのよw

清州会議でも次男ながら家老は誰ひとり信雄を推戴しなかったといいます。
多少アフォでも父親が信長じゃなければ、そこまで評価低くされなかったかもね。
傾いた供養塔に偉大な父を持った信雄の悲運というか・・哀愁漂ってますね。


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二の郭には信長の廟所があります。元は信長一周忌に伴って羽柴秀吉が建立したそうです。
手前は百名城スタンプを押すところ。なんでこんなところにあるのか違和感あって謎w


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安土焼失といっても二の郭なんかは大丈夫だったみたいで整備された後、
遺骸の代わりに信長の太刀や烏帽子なんかを埋めて弔われたんだって。
ワタクシは秀吉の「信長ラブ」アピールのためのパフォーマンスと見ますw


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この廟が建てられた翌年、安土城は廃城になりました。秀吉だけに何か意味深。
ワタクシは信長の太刀や烏帽子を見たいわ。発掘とかしないのかしら?

この廟所が完全に当時のまま残っているものなんか分からないけど
廃城になっても徹底的に破壊されず安土城が今日まで残ってよかったと思いマス。

信長のお墓はあちこちにあり、ワタクシ先に高野山の名前入りお墓を見ているし、
本拠地、安土城の中・・しかも普段生活していたという二の丸に立っているので
そっちの方が感慨深く、廟所にはイマイチ興奮しきれませんでした(勝手な女)w



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| 武将の墓 | 14:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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常楽寺の源義経と大道寺政繁のお墓

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埼玉県川越市の常楽寺には川越重頼、源義経と京姫、大道寺政繁のお墓があります。

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常楽寺は平安時代末~南北朝時代に、武蔵国(関東)で大きな勢力を持っていた河越氏の持仏寺。
常楽寺の真裏には国史跡の「河越館跡史跡公園」なんかもあって当時はこのお寺も館の一部だったとか。


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山門、鐘楼門を潜ると本堂に至る手前左側に川越重頼と源義経、京姫(郷御前)のお墓があります。

真ん中が河越重頼さん。平安時代末期にこの地で最も強い勢力を持っていた武将です。
源頼朝が伊豆で挙兵した際、頼朝の御家人となり平氏討伐に参戦、その縁から頼朝の弟、
義経に娘の京姫を嫁がせます。しかし後に頼朝と義経が不仲になると、義経に荷担したと目され、
重頼さんは誅殺されてしまいます。


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義経といったら静御前の方が吉野の別れとか、鎌倉での舞とか有名なエピソードが多いけど、
京姫は奥州藤原氏を頼って東北に都落ちする義経についていった義経最後の女性らしいです。
義経モテモテ。ワタクシ、頼朝か義経だとうっかり義経になるけど、男性としてはどうでもいいですw


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本堂の方へ進んで左手にある一般の墓地の中に北条氏の家臣だった大道寺政繁の墓もあります。
一般の墓地の中に紛れているので分かりづらいのなんのって・・探し回ってしまったわ。

大道寺さんは北条家の重臣で本家からの信頼が厚い武将でしたが、1590年の小田原攻めの際には
本領安堵を条件に籠城していた松井田城を開城したばかりか、豊臣方の北国勢に加わって
長年忠義を尽くしてきた主家、北条家の忍城攻めの先峰を務めてしまいます・・・


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松井田城は北条家にとってとても重要な拠点、そこを任されるほどの大道寺さんは
決しておバカさんではありません。家のため、家臣のためと思い、大道寺さんなりに
生き残る道を模索した結果、秀吉に上手く利用されたのかもしれません。

大道寺さんは北条家滅亡後、秀吉に不忠を責められ切腹を命じられています。
松井田城の前に城代を務めていた川越にあるここ、常楽寺で切腹をしたそうです。享年57歳。
政繁の子供たちは家康の懇願によって秀吉に許され、徳川の家臣として秀忠に仕えました。


となりにある国指定遺跡の河越館跡史跡公園とぜひセットで。



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| 武将の墓 | 21:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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