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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2013年10月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年12月

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福田寺の武田信玄と馬場信房の墓

[武田信玄] ブログ村キーワード

愛知県北設楽郡設楽町の福田寺には武田信玄公塚と馬場信房の供養塔があります。

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福田寺は少々分かりづらかったです。車の場合は設楽町役場に車を停めて区役所並び沿いを歩くと
住宅の間に挟まれるように入口だけ出現。入口自体も少し奥まっているので見逃さないで。


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入口から山門までけっこうあるのよ。住宅の間を抜けて階段を上り、山門まで行きます。
福田寺は臨済宗妙心寺の末寺で応永9(1402)年の開山と伝えられているなかなか古いお寺です。


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本堂です。本堂の左手にある池のほとりに信玄塚と信房の供養塔があります。

天正元(1573)年武田信玄が野田城攻略中に病に冒され、本国に引き上げる途中、
この寺で療養したと伝えられているそうです。


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木々に囲まれた池のほとり、石の見えるところがお二方の塚です。


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近づいてみます・・・向かって左の高い方が信玄の塚、一段低い右側が信房の供養塔です。


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天正元年6月26日甲州太守武田大膳大夫信玄法性院殿機山玄公大居士当所尊体を埋む、と書かれてます。
梨県甲府市には信玄の遺体を荼毘に附したという信玄火葬塚なる墓がありましたが、
信玄クラスのビッグネームになると、やっぱりあっちこっちに墓やら塚やら供養塔やらがありますねw


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武田信玄は野田城で病に伏した後、甲斐への帰国途中に駒場で他界したとされていますが、
実際に死去した場所がどこだったのかハッキリしたことは分かっていません。
ここ福田寺の信玄塚は小さな石塔でお墓ではなく供養塔の類なんだと思うけど雰囲気があります。


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数いる武田家臣の中で馬場美濃守信房がお屋形様の塚のとなりに・・信頼関係がうかがえます。
馬場さんのお墓は長篠城の近くにもあります。長野県の駒場にもあるそうなのでそちらも行ってみたいわ。

ワタクシ馬場さんみたいな武将は大好物w 供養塔ではありますが心をこめて合掌・・・です。




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| 武将の墓 | 15:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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岡崎城の本多忠勝の銅像

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岡崎城の二の丸には本多忠勝の銅像があります。

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三河武士の館があったり、岡崎城おもてなし武将隊の演武なんかが行われる二の丸広場。
桑名城と同じく角脇立兜に蜻蛉切(とんぼきり)の槍が一緒の「忠勝スタイル」で出現!


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岡崎城は徳川家康の生誕地なので家康の銅像はもちろんあるんだけど、
他の四天王を差し置いて忠勝さんがここにいるのは、彼もまた岡崎生まれだからなんです。


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同じ「忠勝スタイル」だけどこちらの銅像は桑名城よりちょっぴり小さ目。
蜻蛉切は岡崎城の方が刃先まで凝っていて大きいのでかっこいいです。
ただ、お顔に造りがどうもねぇ・・個人的な趣味ですが忠勝さん、これはダメです。


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お約束の「男の背中」を拝見!・・・イメージじゃないの顔だけなんで、後姿はオッケ!
忠勝さんに蜻蛉切持たせたのが正解。槍の角度がバッチリだから雰囲気あるんだよね。


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生誕地には背を向けて建ってますけど・・微妙に家康の銅像の方も見てませんけど・・

何年か前は忠勝銅像の後ろに屋台トラックとか停まって台無しだったけど、
今はこのあたりもきれいに整備されているから、写真も撮りやすくてよいです。


岡崎城の近くには忠勝さんの生誕地も残っています。
少々分かりづらい上、民家の一角にありますが、せっかくだから銅像とセットでぜひ。




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| 武将の銅像 | 16:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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太田歴史公園の新田義貞の銅像

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群馬県太田市の太田歴史公園には新田義貞の銅像があります。

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南朝方として後醍醐天皇に従った忠臣として楠正成と並んでとっても有名な人ですね。
鎌倉を攻めあぐねていた義貞が稲村ケ崎で黄金の太刀を海中に投げいれて竜神に祈願したら、
潮がひいて鎌倉に突入することが出来たという・・その祈願のシーンが銅像になっています。


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義貞さん神妙に祈願しています。バランスがいまいち好みじゃないのでワタクシ的にはいまいち。
まだ見れていないのですが、写真で見る限り分倍河原の騎馬像の方が断然迫力でかっこよさそう。


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太田歴史公園は世良田東照宮・長楽寺・新田荘歴史資料館などひとまとめに色々なものが見られます。
新田氏は清和源氏の流れをくむ武家の名流。その発祥の地がこの辺りなんだそうですよ。

新田氏は元をたどると清和天皇から始まって何とかさん、何とかさん、何とかさん・・と続き、
義重という人の時に新田に領地を広げて新田荘を興し新田を名乗ったところから始まるそうです。

新田義貞は新田義重から数えて8代目。新田本家直系の血筋ということになります。
ちなみに足利尊氏も同じ新田氏の系統でやっぱり8代目。足利に住んだ義康という人の血筋。


そんなわけでここには義貞さんの銅像があるのでした。分倍河原のぜひとも見なきゃだわ。。



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| 武将の銅像 | 21:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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筒井順慶歴史公園の順慶の墓

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奈良県大和郡山市の筒井順慶歴史公園には、筒井順慶の墓があります。

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住宅街の中にひっそりと区画があります。それと思って探してないと見逃すかもしれません。
ワタクシはナビで近くまで行けたものの核心にせまれずウロウロした挙句、たどり着きましたw
駐車場はないので路駐です。少し離れても広いところに停めましょう。見学時間はかかりません。


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入口入った正面に案内版が。地味でひっそりしてますが、国の指定文化財ですよ!
順慶さんは天正12年に郡山城中で亡くなり、奈良の円証寺に葬られましたが後に改葬し、
この地に埋葬されたそうです。1944年(昭和19年)重要文化財に指定されました。


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山崎の合戦で明智光秀が加勢を求めたものの、兵を動かさなかった順慶は日和見で
有利な方につこうとしたと伝えられ、「洞ヶ峠」なんて良くないイメージに言われてるけど、
本当は洞ヶ峠にいたのが光秀で、順慶は大和郡山城で軍議をしていたとかで城にいたようです。

戦国史全般でもスポットは当たりづらいし、信長の野望とかでもあんまパッとしないけど
大和でしぶとく生き抜いたのはミスター下剋上の松永久秀ではなく、筒井さんなんだよね。

おまけに家臣にはあの「島左近」もいました。島左近は順慶の死後、士官の誘いを断りつづけ
三成に仕えるまでずっと浪人していた武将。そういう意味でも筒井さんすみに置けない人よ。

18歳の時に興福寺で得度した筒井さんは、出陣する時も常に頭巾をかぶり、
金襴の守り袋をかけていたそうな。能や和歌、茶の湯にも明るいインテリでもありました。


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五輪塔覆堂は天正12-13(1584-1585)年頃の建築で、桁行や梁間は一間、本瓦葺。
五輪塔は中にあるので見えません。法要とかそういう時だけ開かれるみたいですね。


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筒井順慶歴史公園はこんな感じ。周りは住宅街、目の前は一般の墓地。普通すぎて見逃すw
大々的に看板とかあるわけじゃないのでGooglemapに登録してナビにするといいです。


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| 武将の墓 | 00:31 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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浄土寺の本多忠勝の墓

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三重県桑名市の浄土寺には本多忠勝の墓があります。

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桑名城からもほど近い浄土寺。本多忠勝が葬られ、菩提寺でもあったお寺です。
2013年8月の訪問時、本堂建て替え工事中であまりに寺らしくなさすぎて通り過ぎましたw
本当は奥に本堂があって、この碑の手前にお寺の門があったんですよね、以前見た写真では。
1049年創建の古刹なんですが、建て替え前も古刹っぽい雰囲気ではなかったです。


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堂々たる碑が建っているのですが、忠勝の墓がどこだかの案内とかは全くありません。

幽霊アメ・・アメを買いに来る女がいるけど様子がおかしいのでアメ屋の主が後をつけると
墓で消え、赤ん坊の泣き声がするので墓を掘り返したら死んだ女に抱かれた赤ん坊がいて。
で、女性を手厚く葬って赤ん坊を育て、幽霊が買いに来たアメとして店は繁盛した。

そういう昔話? はここのお寺の話らしいです。その説明は書かれていますw


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で、ただでさえ場所が分からないのに、工事中で立ち入り禁止エリアもあるので、
非常にウロウロしてしまいました。お盆でお墓詣りに来た人に聞いてようやく発見。

本堂があろうがなかろうがお墓の位置は変わらないと思われるので書いておくと、
お寺に向かって左手奥の方にあります。一般の方のお墓がそっちの方にあってその中の一角にある。

分かんなかったら緑の屋根のお家を目指してそっちの方に墓の中を歩いていくのが正解ぽい。
寺なのに忠勝のお墓の前には鳥居が立ってるので、それを目指してもいいと思う。

本堂がなかったら見つけやすい。本堂ができあがったらとにかく墓地を目指す・・これで。


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本多忠勝は桑名城の銅像のところでも書いたけど、大小五十余度の戦いで
一度も傷を負わなかったといい、徳川四天王として
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と謡われた名将。

関ヶ原の合戦の後、桑名城主となり、慶長15年10月18日、63歳で死去。

法号は長誉良信西岸寺。菩提寺であったここ浄土寺に火葬されたそうです。

忠勝のお墓は他に、元いた大多喜の良玄寺に分骨もされているので、こちらも近く行くつもり。
高野山の奥ノ院はすでにお参り済みだけど、こちらはたぶんお骨はなし。


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本多家の家紋「立ち葵」が刻まれています。
供えられたお花がカッピカピなのがちょっと許せなかったり・・ヽ(`Д´)ノ
大好きな大好きな武将なので、いつもより念入りにお参りしておきました。


桑名城に訪れた際はぜひ浄土寺もセットで。ちなみに駐車場はありますw



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| 武将の墓 | 00:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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九華公園(桑名城)の本多忠勝の銅像

[本多忠勝] ブログ村キーワード

三重県桑名市の九華公園(桑名城跡)の駐車場横に本多忠勝の銅像があります。

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公園の入り口で駐車場の横なので行ったら「絶対に」見逃すはずはありませんw


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德川四天王のひとり 本多忠勝は慶長6年(1601)桑名に入封した際、積極的に街づくりを行い、
川の流れを変え「慶長の町割り」と呼ばれる整備をしました。現在の町並みの大部分はこの時のものだとか。


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忠勝の銅像は鹿角脇立兜に蜻蛉切(とんぼきり)の槍とともに。
トンボが止まっただけで真っ二つになった事から蜻蛉切の名がつきました。


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忠勝の背中・・銅像でも抱きつきたいくらいですw
生涯57度の戦において、かすり傷一つ負った事がなく負け戦はなかったそうです。


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織田信長からは「日本の張飛」と称えられ、豊臣秀吉からは「天下無双の大将」とまで言われた忠勝。
徳川家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八 も有名ですね。

ただし、ワタクシ信長は超絶尊敬してますが、張飛ってのは何か違うと思ったりw
酒飲みでずんぐりむっくりで強いケド乱暴者ってイメージだから強いってとこだけね。


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たかが銅像だけど好きな武将でイメージに近いものだと、離れがたい何かがあります。
朝っぱらから銅像の前をうろうろするワタクシ・・通る車からの視線を感じますが気にしないよw


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奥が駐車場。銅像手前が九華公園入口。駐車場は有料です。城跡もセットで見るならここしかありません。


鹿角脇立兜をかぶった忠勝の銅像は他に岡崎城、大多喜城でも見ることが出来ます。




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| 武将の銅像 | 15:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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昌福寺の上杉房憲・憲盛の墓

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埼玉県深谷市の昌福寺には上杉房憲と憲盛の墓があります。

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人見山昌福寺は上杉右馬助房憲が古河公方に備えて深谷城に移った時、父祖の冥福を祈るために創建、
慶安4年(1648)には寺領20石を拝領した名刹と言われるお寺なんだそうです。深谷市内にあります。

扇谷上杉家とか、山内上杉家とかよく出てくるけど、こちら深谷の上杉憲房さんは
山内上杉家の庶流で14代関東管領上杉憲実の孫にあたる人です。


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でこちらが本堂。本堂内には釈迦三尊像・千手観音像・開山禅師などがあるそうです。
裏に室町時代と推定される禅宗庭園があって、特別の時だけ見せてもらえるのだとか。


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本堂の左奥を入っていくとすぐ、上杉房憲のお墓が見つかります。
立てた時期とか誰がとか説明がなく調べてもよく分からないのですが、なかなか立派な佇まい。


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累代の墓ということで憲房だけでなく、何代か血筋の人のお墓も並んでいるようなのですが、
昌福寺自体の説明には「房憲と憲盛の墓」としか書いてなく案内板もないのでよくわかりません。
房憲は室町の頃の深谷上杉氏初代。憲盛は川越野戦の後、北条に乗り換えた時の城主です。

市の文化財なので案内板詳しく書いてもらえるとありがたいですね。


深谷城や深谷上杉氏の詳細はLove城!の方でご紹介しています。




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| 武将の墓 | 11:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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