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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2013年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年01月

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桶狭間古戦場公園の義元と信長の銅像

[織田信長] ブログ村キーワード

名古屋市緑区有松町の桶狭間古戦場公園には今川義元と織田信長の銅像があります。

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ここは桶狭間の戦いの中心地で、田楽坪とも言われ、今川義元最期の地です。
桶狭間の戦い450年を機に整備され、信長・義元両雄の銅像が建立されました。


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タイトルは「近世の曙」。この戦を境に時代が変わっていくということでついたそうです。
敵味方だった武将が銅像として一緒に建っているのは珍しいケースだと思います。

銅像を作る時は背格好の近い男性をモデルにし、ふんどし1丁から甲冑を着せていったんだって。
で、その甲冑も専門家の時代考証をを元に、当時にかなり近い形のものになっているんだそう。
清洲公園の信長像も同じ桶狭間出陣前の姿ですが、こっちより立派。盛ってあったのねw

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今川義元さん・・でっぷりしていて鉄漿をつけた公家風の印象とは違って精悍な感じです。
東海一の弓取りと言われた義元さんらしく、弓を手にして威風堂々の佇まい。
今川義元は地元の人には大変慕われていたそうですが、戦国時代が最後の盛り上がりを迎える前に
破れてしまったからでしょうね・・銅像があるのはここだけなんだそうです。


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で、こちらが若き日の織田信長・・桶狭間の時は26才とか27歳とか言われています。
遠・三・駿の太守、義元とは違って、この頃の信長は尾張一国やっと統一したところ。
義元さんに比べて若さはあるけど、貫録や迫力がない感じはよーく表現されてると思います。
ただし好みで言えば清洲公園の方がいいです。
でも信長様特別ルールにより4割増なので銅像点数は高めでw


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2人の後姿にも注目しておきましょう。当時の力や財力の差が歴然な背中ですw

銅像義元さんの差料は名刀「左文字」。義元を討った時から信長の愛刀になった刀です。
南北朝時代に作られ、三好宗三→武田信虎→今川義元を経て、信長に渡りました。


桶狭間古戦場公園には桶狭間の合戦の様子を再現したジオラマ(位置関係わかりやすい)の他、
義元の墓、駿公墓碣、馬つなぎの松、義元首洗いの泉、すぐ近くには義元本陣跡などもあります。


ボランティアガイドを頼むとものすごーく勉強になります。
ガイドさんとまわった公園史跡詳細はLove城!で紹介してます。

桶狭間古戦場公園
http://okehazama.net/

予約すれば一人からでもやってくれるんだって。

ワタクシは現地でたまたま掃除に来ていたボランティアガイドさんが声をかけてくれたので、
とってもラッキーでした。これは聞かなきゃダメだと思いましたよ。イヤ、まじで。



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| 武将の銅像 | 16:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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崇福寺の織田信雄七代の墓

[武将の墓] ブログ村キーワード


群馬県の甘楽郡小幡の崇福寺には、織田信雄から七代のお墓があります。

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小幡陣屋(楽山園)の通りを道沿いに進むと、「織田宗家七代の墓」という看板が出てきます。
そこを左にはいって車を停め、つきあたりを右に進むと墓所の案内版が見えてきます。


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甘楽町の指定文化財になっている織田家七代の墓。七代というのは織田信長の次男、信雄から
信良、信昌、信久、信就、信右、信富までのこと。信雄以外の人は良く知りませんがお参りですw


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元和元年(1615)、織田信雄は大和と上野合わせて5万石の領主となり、子の信良が小幡に入封して
織田藩政が始まりました。当初、菩提寺は宝積寺でしたが4代信久の時、ここ崇福寺に移されたそう。


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五輪塔が並ぶお墓の中、信雄さんのお墓は向かって一番右にあります。

信雄さんと言えば、信長の息子3人の中で一番出来が悪いと言われていて、本能寺の変後には、
血迷って安土城に放火したと言われてしまっている人物。清州会議で織田重臣の誰も味方なかったし、
小牧長久手の戦いでも後ろ盾だった家康を放って、勝手に秀吉と和睦してしまったり、その後も
秀吉の口車に乗って弟である信長の三男、信考も自害に追い込んでしまったと言われている
暗愚で残念なイメージの人です。ワタクシも信長の野望であてにしたことはありません(´Д`)


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墓地の先に進んで崇福寺の境内に入るとすぐ位牌堂があります。写真手前は本堂。

悪い言われようがあまりにかわいそうすぎる信雄さんですが(ワタクシもゲームで全く信頼してないけど)、
織田家中でも常に「三介殿(信雄)のなさることよ・・」と呆れられていたのは事実の様子。
ワタクシは安土城に放火というのは、いくらなんでも・・とひそかに思ってはいるんだけど、
そういうことにされても不思議ではないおバカさんぶりを発揮してたのは間違いないんだと思います。


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位牌堂がこちら。案内板には信雄が小幡を支配するにいたった経緯や、152年間この地を統治したこと、
昭和61年に建設され、歴史的に価値の高い位牌を安置保存している・・と言ったことが書かれてます。


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宗家初代である信雄さんの位牌は真ん中かと思いきや、なんと右から2番目のやつなんですね~

残念なイメージの信雄さん最大の功績は、織田信長直系の血を後世に残したことと言われています。
信長の三男で信雄さんの弟、信考さんは子供作る前に自害させられちゃってるし、信長の嫡男、
信忠の子、三法師・・秀信はたしか子孫は残したと思うけど・・この人って何だかよくわからない。
ワタクシは何百年も後の子孫には何の感慨も覚えないので、どうでもいいっちゃいいんですけどw


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信雄さんのお墓は安土城にもありましたけど、そういえばやっぱ代々引き連れてたねwwww


近くには小幡城(小幡陣屋)跡や、信雄さんが作った大名庭園 楽山園もあります。


庭園は素晴らしいのでこれはぜひセットでw




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| 武将の墓 | 16:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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守綱寺と随應院の渡辺守綱の墓

[渡辺守綱] ブログ村キーワード

愛知県豊田市の守綱寺には渡辺守綱のお墓があります。

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豊田市内ということで国道323号線を走って、走って、橋を渡って・・けっこう走るなΣ(゚Д゚)!
左手に「真宗大谷派・守綱寺」という看板が見えたら曲がって住宅街を進むとお寺がありました。


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渡辺家の菩提所である守綱寺。入って右側の駐車場に車を停めて歩き出すと、
山門に行く手前の植え込みのところに碑が建っていました。


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山門をくぐると本堂があり、中からお経の声が聞こえてきます。渡辺さんのお墓はこの裏手。
ちなみにこの本堂は伏見城の軍議評定所を拝領して移築したと言われているそうです。


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夏の夕暮れなのでヤブ蚊がハンパないですが、薄暗い本堂の裏手の墓所でしばらく頑張ねば。

渡辺守綱は「槍半蔵」と呼ばれた槍の名手で戦上手、徳川十六将の1人に数えられる武将です。
先祖は源頼光四天王の一人・渡辺綱だというから、肝っ玉の太さは筋金入りと思われますw


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墓所の入口には石塔配置図がありました。親切なお寺ですよ。

守綱は御三家設置の時、尾張徳川家の軍事担当として尾張藩家老となり寺部を領しました。
元和6年(1620)に没した際、守綱の子である2代重綱が墓を作ってお堂を建て菩提を弔い、
寛永16年(1639)3代治綱が渡辺山守綱寺として渡辺家の菩提寺としたそうです。


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石灯籠の並ぶ通路を抜けて墓所の入口に来ました。正面に見えているのが守綱さんのお墓。


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守綱さんのお墓を中心に整然と並ぶ渡辺家代々のお墓。
お寺の手入れが行き届いてるわね。忠勝さんが眠る浄土寺とは大違い!


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守綱さんのお墓にお参りします。法名「守綱院殿心空釈道喜居士」。

主たる戦に出陣して何度も功を上げ、徳川十六将にも数えられた守綱さんだけど、
最終は1万石で尾張義直の家老。譜代の人生も色々だな~と思います。

ただワタクシのイメージだと守綱さん、槍一筋だけに器用じゃなさそうだから、
家康は武があって実直ってところを見込んで義直を任せたのかなとも思ったり。


と守綱寺はここまでなんだけど、今回は特別バージョンちょいと長いよw


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翌日は足助城に行くので豊田市内に泊まったんだけど、飲みながらアレコレ見ていたら
守綱寺の近くにもう1つ渡辺家墓所があることが分かり、翌朝、行きがけの駄賃で寄ってみた。
で、行ってみたらホントに守綱寺の目と鼻の先にありました。こちらは随應院というお寺。


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蓮のお寺としてとっても有名だそうです。ネットで蓮の花だらけの素敵な写真を見て、
夏だしあわよくば・・と思ったけど、こちらの蓮は全部咲き終わった後でした・・・


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気を取り直して山門を入り本堂に向かいます。「随應院 渡辺家墓所」の碑があります。
渡辺家墓所といっても、こちら随應院は守綱から治綱3代までの夫人が眠るお墓です。


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本堂の周りも蓮は終わった後・・でも植物の手入れが行き届いたお寺です。
渡辺家の墓所は本堂の裏手らしいので、通路に沿って歩きます。


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ありました。たぶん住職の奥さんがちょうど墓所内をお掃除しているとこだったけど、
挨拶したら「どうぞ~」そして「本堂も開いてるから入って見て行ってください」と。


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ちなみにこちら随應院での配置はこのようになってます。正面が渡辺家のご婦人方。
左手の方は鈴木下野守重明とか鈴木日向守重教の供養塔で、右手の方は・・・よう分からん。


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鈴木下野守重明、鈴木日向守重教ってワタクシ不勉強であんまり知らないんだけど、
寺部城主で今川方から織田方に寝返り、当時は松平元康と名乗っていた家康に攻められ落城し、
以降、かくかくしかじかあって、討ち死にしてしまった方のようです。
渡辺家の前に支配していた所縁の地なので一緒に供養塔が建てられたのかしらね。


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右から渡辺守綱の夫人、2代重綱夫人、3代治綱夫人 一番左の小さいのは2代重綱の娘みたい。
4代以降の夫人は守綱寺の方に葬られているようです。


夫人の墓はおまけだけど、守綱寺と随應院は近いので見る場合はセットでね。
随應院はできれば蓮の時期に行くと良いと思われます。




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| 武将の墓 | 11:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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岡崎城の徳川家康像たくさん

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岡崎城には徳川家康の銅像としかみ像と出世ベンチなるものがあります。


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まずはスタンダードに家康像。家康像は色んなところにありますが、これ駿府城の家康像の次に好き。


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岡崎で晩年は過ごしていないので、そういう意味では何か違うんだけど晩年の家康のイメージ近いのでw
やっぱり家康といったらある程度の貫禄がないとダメなのよ。浜松城の銅像はやっぱ違うわよね。


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ここの家康像は高い位置にあって、銅像エリアが柵で囲われて近づけないので寄るのがムズイ。
でもこういう角度はきれいに撮れます。なじみのある岡崎の現代の風景を眺める家康ですw

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続いて有名な「しかみ像」。漢字で書くと顰像・・ムズイね。変換じゃなきゃ絶対無理。
三方ヶ原の合戦で武田信玄に打ちのめされ、恐怖のあまり敗走しながら脱糞してしまった家康は、
帰城後、その惨めな姿を決して忘れまいと絵師に肖像画を書かせました。その絵が「しかみ像」。


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家康はしかみ像の絵を持ち歩き、自分を戒めたと言います。負の自分と向き合うって強いよね。
怒っているのか、悲しんでいるのか、自嘲しているのか・・何とも言えない表情です。
ワタクシも何か大失態をした時はしょぼくれた顔を自撮りして戒めようか・・余計へこむかw


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で、次が出世ベンチ。これ何年か前に行った時はなかったと思うので割と新しいかと。
座ると出世するというから、人目がないのをさいわい。家康の方に座って肩組んでやりましたw


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竹千代の方がこれ・・若干、小憎にくたらしい顔にも見えてしまうのは気のせいですか?
ふっくらしてるのが何かイメージと違うわね。苦労した人質時代もう少しスリムな方が・・


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こっちが家康さん、ワタクシはこっちに腰かけて念入りに肩組んだり抱きついたりしましたがw
というか、よく見たら水木しげるの絵風? 出世するには若干ゆる~い感じしますが大丈夫かしら?


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騎馬像もあります…19歳の松平元康(家康)が岡崎家臣団と共に岡崎城へ帰城する姿だって。
ワタクシは写真で見た時も実物見ても見始め一瞬はなんだかオマルに乗っているように見えてしまうw


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岡崎へ帰城するっていうシーンはいいんだけど・・・いや~なんか残念!! 


岡崎城には他に本多忠勝の銅像もあります。登城した際は全部ひっくるめてお見逃しなくww



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| 武将の銅像 | 16:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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松平氏館の松平信親の銅像

[徳川家康] ブログ村キーワード

豊田市の松平氏館には徳川の祖、松平信親のバタくさい銅像があります。

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ワタクシもあちこちで銅像見てるけど、遠目から見てただならぬ気配を感じます。
信親さんは武将と言っていいかすらわからない人ですけど、德川の祖なんですよ!


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武将の銅像と言えば甲冑、もっとイケてたら騎馬が定番の中、親氏さんは胸をはだけて
袴の裾をまくりあげたワイルドな装い。さらにポージングも侍うんぬん通り越してグリース風?
もう完全日本人離れしちゃってんですけど!!遠目に見ると一瞬、親指立てた「Good!」ポーズを
してるように見えんのよ。なんだろ? 意味不明に目が吸いつけられて銅像から目が放せないわw


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さ ら に!! この彫の深い端正な顔・・・日本人離れどころか、完全に外人です Σ(゚Д゚)!
おまけにお腹のライダーベルトを見てごらんなさい・・・完全にちょい悪系じゃないの!!
銅像作った人は存じませんが、その型の類まれなるセンスにも称賛を送りたくなりますよ。

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松平氏館は元は弘安年間(1278~1288)この地の領主だった在原信盛によって築かれた城館で、
時宗の僧「徳阿弥」がこの地に流れ着き、信重の婿となって松平親氏を名乗り本拠にしたことが始まり。

で、この「徳阿弥」なる人物が実は新田源氏「徳川義季」から8世にあたるらしいんですね。

「徳川義季」ってのは新田義重の四男で、世良田に館を構えて得川を名乗り、後に改称して
徳川とした人物で、家康はこの血筋だから源氏として征夷大将軍になったという話でした。

つまり・・

源氏である徳川義季の血を引く「徳阿弥」が 松平親氏を名乗ってこの地を本拠とし、
その松平家が三代信光の時に宗家と分家にわかれ、信光は三河に進出して基盤を広げると、
かくかくしかじかあった後、そこから9代目になる松平元康が徳川家康として天下を取ったと。


ずんぐりむっくりしていたと聞く家康の祖は德川信親。
テルマエロマエに出てた?と聞きたくなるような銅像でした。

松平館に行った際は是非、この銅像をお見逃しなくw

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| 武将の銅像 | 22:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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