武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2014年02月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年04月

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建福寺の由布姫の墓

[武田信玄] ブログ村キーワード

長野県伊那市の建福寺には、信玄の側室となって武田勝頼を生んだ由布姫のお墓があります。

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建福寺は高遠城からほど近いところにあります。駐車場ないので近くの商店街のを利用。
商店街からエッチラオッチラ階段上っていくと、山門が見えてきます。


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立派な本堂。鎌倉時代からあるお寺で武田勝頼や保科正之など
高遠城主との関わりが深く古文書なんかもたくさん持っているのだそう。


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本堂の左手にある墓域の最前に、由布姫 with 保科正光・正直のお墓があります。

由布姫は諏訪頼重の息女で、天文11年(1542)に諏訪家が武田信玄に滅ぼされた時、
側室となって甲府に移り、勝頼を生みました。体があまり強い性質ではなかったらしく、
勝頼が10歳の時に病没。勝頼が城主であった高遠の建福寺に葬られたそうです。


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3つのお墓が並んでいまして・・向かって左から保科正光、正直、そして由布姫です。
・・・てか保科正光と正直って誰? 保科正之ならともかく超~違和感ある並びだわ。


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謎の保科さん2名の墓はおいておき、左側の由布姫の墓にフォーカスしますw

父を殺した敵の側室となった由布姫は、諏訪氏再興を願って勝頼を産みます。

信玄は諏訪衆を取り込むため、勝頼を武田の後継ぎに指名せず、
「諏訪四郎勝頼」と名乗らせて高遠城主としました。勝頼は由布姫がなくなると供養に努め、
元亀2年11月に大龍山臨済寺の鉄山和尚を招来して17回忌を高遠城で執り行ったそうです。


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敵の側室となって子を産み、その子、勝頼が成人する前に亡くなった由布姫。
信玄はとても大事にしたというけど、由布姫はどんな思いだったんでしょうね。
戦国の世の女はこんなものと割り切ってそれなりに幸せな短い人生を過ごせたのか、
イヤだイヤだありえない・・と思って世をはかなんだ末に短い人生を終えたのか・・・


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法名を乾福寺殿梅岩妙香大禅尼。甲府では諏訪御料人と呼ばれていました。
諏訪家を滅ぼし由布姫を側室にして子を産ませた信玄でしたが、武田家が滅亡した時の当主は
信玄が後継ぎに指名しなかった諏訪家の血を引く勝頼でした。まぁ結果論ですけどね。


由布姫の墓はきちんとお花が活けられ、丁寧に扱われているのがよかったわ。
由緒あるお寺にある有名武将の墓でも、ろくに手入れされていないのとかもあり、
そういうの見ると何だか物悲しい気持ちになるものでね・・・年かなwww



建福寺は高遠城のすぐ近く。五郎山には仁科盛信の銅像もあります。ぜひ全部セットで!



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五郎山の仁科盛信の銅像と洞

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長野県高遠市の五郎山山頂には仁科盛信の銅像と祠があります。


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仁科五郎盛信さんは武田信玄の五男で、武田勝頼の異母弟です。
信玄は信濃攻略をする際、その地の有力豪族と婚姻関係を結んで支配したので、
勝頼は「諏訪勝頼」に、盛信さんは仁科を継いで「仁科盛信」というわけです。

信玄は勝頼が諏訪の名を継いでいたため、後継者には勝頼の子、信勝を指名し、
勝頼を信勝が成人するまでの後見にしたとも言われてますね。余談ですけど。


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石碑と洞、そしてでっぷりとした仁科盛信さんの銅像がある五郎山の山頂。
盛信さんは天正10年(1582)武田滅亡の時には高遠城を守っていました。


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アップでどーん!! ・・でっぷりはいいとして、もうちょい若さがほしいとこねw

5万の軍勢を率いて高遠を包囲した織田信長の嫡男、信忠は盛信に降伏勧告をします。
しかし盛信は使者である僧の耳を切り落として追い出し、徹底抗戦をアピール。


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なかなか貫録のある厚みは甲府駅前に鎮座するオヤジ様に通ずるもんがありますねw

高遠城の兵はわずか3000。押し寄せる大軍に挑んで討たれる者、恐れをなして投降する者・・
しかし盛信は最後まで城に踏みとどまって織田軍を迎え撃った後、十文字に腹を掻き切り、
はらわたをつかんで唐紙に投げつけるという壮絶な最期を遂げました。享年26歳。



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勝頼の数少ない味方だった盛信さん。哀愁漂う男の背中をどうぞw 

ちなみに・・盛信の討ち死を知った勝頼は新府城に火をかけ、逃亡を開始。
岩殿城を目指すも小山田信茂に裏切られ、天目山で自害・・武田家は滅亡しました。
盛信さんの壮絶な死から9日後のことだと言われています。


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盛信さんの死に際やら祠の説明なんかが書かれている記念碑もあります。
盛信さんの遺体は地元の農民たちの手により、この地に葬られたんだそうです。
以来この山は仁科五郎盛信・・「五郎山」と呼ばれるようになったのだとか。


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盛信さんが眠る五郎山からは高遠城下が見えます。どんな思いで見てるだろうか・・。
一人になっても最後まで戦い続けた盛信さんは、地元で大切にされているんだと思いました。


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ちなみに場所なんですが・・ちょいと分かりづらい(ノД`;) ので書いておきます。
ハイキングコースになってて登山客なんかも来るらしいけど、車のが便利だね。

車の場合、高遠城から白山トンネルに向かって走りトンネルを通過。
トンネル出たらすぐ左折。するとすぐ写真のような案内版が見えますのでまた左折。


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で、ひたすら登る・・ずっと離合困難な道が続きます。心配になるけど進みます。
ちなみに写真は不安げな心持の行きには撮れず、帰りに撮ったので下ってるとこよw


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で、こういうところが見えたら到着。車は路肩にギリで停めとくしかありません。
この先は未舗装で離合困難どころじゃないので、停め場所探してうろついてはダメw

車を停めたら登って行けば5分足らずで仁科盛信さんのでっぷり銅像が拝めますよ!





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