武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2014年06月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年08月

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勝願寺の小松姫と仙石秀久の墓

[戦国] ブログ村キーワード

埼玉県鴻巣市にある勝願寺には小松姫、戦国秀久、真田信重のお墓があります。

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この地に建立されたのは天正年間(1573~1592)。2世住職円誉不残上人は学僧の誉れ高く、
慶長11年(1606)に後陽成天皇から、僧として最高位の紫衣を与えられたそうです。
浄土宗の関東十八檀林の由緒あるお寺で、仁王門もどっしり年季入った堂々たるかまえね。


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徳川家康が鷹狩りの際、この勝願寺を何度も訪れていて、文禄2年(1593)には
不残上人の学識に感銘を受け帰依したそうで、以来、徳川家の庇護をうけました。


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そんなわけで将軍家の定紋である「三つ葉葵」の使用も許されていたそうで、
本堂にかかる幕には、イヤでも目に入るアノ紋所があります。すっごい存在感ですw


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屋根の上にも三つ葉葵。写真には写ってないけど軒下丸瓦ももちろん御紋入り。


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本堂の中もふすまから壁からふんだんに三つ葉葵がちりばめられています。
軒下のちょっとしたところも含めて、「使用を許されてるアピール」すごいですw


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お墓は本堂の左手にありました。向かって左の見えづらい小さいのが仙石秀久さん、
真ん中が真田信重さんとその室の墓、右が真田小松姫のお墓となっております。

最初、案内版がどっちの五輪塔のなのか分かりづらくてまいったね。


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仙石秀久さんは秀吉の最古参の家臣の一人で、もっとも早く大名になった人です。
淡路洲本で5万石>島津相手の九州攻めで大失態を犯し、高野山に追放されますが、
天正18年(1590)小田原征伐に、浪人を集めて家康の後押しを受けつつ陣借りで参戦。
功績を挙げたことにより信州小諸5万石の大名に復活しました。

秀久さんは慶長19年(1614)江戸から小諸への帰路、ここ鴻巣で病没し、
遺名により長野県上田市の本廟から勝願寺に分骨されたそうです。

秀久さんの墓の隣にあるデカい方のが、なんとまさかの真田信重の室の墓w
その奥の控えめなやつが真田信重さんですよ。信重さんは信之の三男。
慶安元年(1648)に鴻巣で病没し、母の小松姫の縁で勝願寺に埋葬されたそうな。


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で、こちら右が小松姫のお墓。真田お兄ちゃん信之の正室で、本多忠勝の娘。
ワタクシはこういう気丈でしっかりした女性が好きなので大大大ファンです。

小松姫は元和6(1620)年、病いの療養のため江戸から草津に向かう途中、
ここ鴻巣で亡くなりました。享年48歳。遺骸は火葬され上田市の芳泉寺に葬られ、
鴻巣の勝願寺、沼田市の正覚寺に分骨されました。

お墓参りの人の目も気にせず、丁重に手を合わせて拝んでおきました。
近いうち上田市の芳泉寺にもお参りに行きたいと思ってマス。


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善導寺の榊原康政の墓

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群馬県館林市の善導寺には榊原康政のお墓があります。

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善導寺は和銅元年(708)、行基により開山され、赤井氏、由良氏、長尾氏、小田原北条氏など
歴代領主に庇護されながら戦国時代の戦火で建物や寺宝が焼失し、一時衰退していたところ、
天正18年(1590)、館林城主になった榊原康政が再建、諸堂を建立し菩提寺としたお寺です。


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正式には「終南山 見松院 善導寺」。浄土宗の関東十八檀林の由緒あるお寺です。
関東十八檀林というのは、家康が定めた浄土宗の学問所のことなんだって。
家光には朱印地百石、明治天皇から勅願寺の勅命ももらったというからすごい!
なかなか広いお寺で本堂の他に薬師堂、観音堂、不動堂、弁天堂などもあります。


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本堂の左手を進むと墓地があり、墓域手前にある榊原康政の墓所が見えてきます。


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一角には5つのお墓が。写真では見えないけど南直道という人のが最左にあって、
左の大きいのから榊原康政、大須賀忠政、榊原康勝、花房氏と並んでいるようです。
花房氏ってのは、榊原康政の側室で康勝の生母なんだそう。


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榊原康政のお墓は高さ5m46㎝の宝筐印塔。法名「養林院殿前大守職上誉見向大禅定門」。
墓の解体復元に伴う調査で、康政さんたちの火葬された遺骨が確認されたそうです。
お骨の入ってないお墓もたくさんあるから何となく感慨深い。さすがは菩提寺!


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康政さんの墓奥に見える宝筐印塔が南直道さんのお墓。康政さんの側近で殉死した人だそう。

榊原康政は天文17年(1548)、三河国上野郷に生まれ12歳で徳川家康の家臣となりました。
15歳で三河の一向一揆に初陣して功績を挙げ、家康に一字をもらい小平太康政を名乗ります。

以後は姉川合戦、三方ヶ原の合戦、長篠の合戦、小牧長久手の戦いなど主な戦で功績を挙げ、
本多忠勝、井伊直政、酒井忠次と共に徳川四天王に数えられます。小牧長久手の戦いでは、
侮辱的な高札を立てた康政に激怒した秀吉によって10万石の懸賞をかけられますが、
秀吉と家康の和睦後、従五位下式部大輔に叙され、京都への使者を務めました。

天正18年(1590)家康の関東に移封とともに康政は10万石を与えられ上野館林に入ります。
関ヶ原では徳川秀忠軍の軍監として従軍、遅参に激怒した家康に身を賭してとりなしました。
廃嫡の危機を免れた秀忠はたいそう感謝し「榊原家を粗略にしない」と約束したのだとか。

四天王の一人として「向かうところ打ち破らずということなし」と称された康政でしたが、
本多忠勝らと同じく次第に武功派の旧臣は遠ざけられていき、慶長11年(1606)館林で死去。
享年59才。の訃報を聞いた本多忠勝は館林に駆けつけ、亡骸を抱いて号泣したそうな・・


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で、こちらが大須賀忠政さん(手前)と榊原康勝さん(奥)のお墓。五輪塔です。
忠政さんは榊原康政の長男で、横須賀城の大須賀家を継ぐため養子にいった人です。

康勝さんは榊原康政の三男で、二男が夭折したため跡を継いだものの、大坂夏の陣中で病没。
康勝さんには後継ぎがなかったので本来は取り潰しなんだけど、秀忠の「粗略にしない」が
ここで効いたんでしょうね。幕府はなんと大須賀家に養子に行った康勝の兄、忠政の子に
榊原家を継がせます。おかげで榊原家は無事存続。でも大須賀家はこれで断絶だから気の毒だわ~
そんな微妙な関係にある二人のお墓が並んでいると、見てる方がなんか複雑な気持ちね。


德川幕府が出来ていく過程では、邪魔な外様に限らず、三河時代からの譜代だって
言いがかりつけられちゃ容赦なく取り潰されたことを考えると榊原家はミラクル。
子が無くて断絶のところ幕府の配慮で存続したのもすごいけど、もっとすごいのは
実は康勝には子がいたことが後に発覚しても、大した咎めがなかったらしいところ。


榊原家やりますな~


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