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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2014年07月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年09月

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瑞龍寺の前田利長の墓

[武将の墓] ブログ村キーワード

富山県高岡市の国宝瑞龍寺には前田利長のお墓があります。

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少し前まで晴れてたのにここで急に雨に降られましてね・・・心も写真も暗いお参りです。

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禅堂の裏には石廟があります。今回のエントリーは「前田利長の墓参り」なんだけど、
ワタクシがひそかに見たかったのはむしろこちら・・信長や利家の分骨廟なんです。
石廟は手前から前田利長、前田利家、織田信長、正覚院、織田信忠と並んでます。
ちなみに信長サマの隣にある正覚院というのは信長公の側室なんだとか・・誰?

P1090361_R.jpg

どれも同じようなので、みなさまにはもちろん信長サマの石廟をご覧いただきますw

前田利長は本能寺の変後、信長父子の分骨を迎えて霊を慰めたと伝えられており、
利長の菩提寺として瑞龍寺を造営した時、開山広山恕陽禅師が利長父子も加えて
同じ形式の五基の廟を建造したのが由来なんだそうです。これは県指定文化財。

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雨はザーザー降ってますけどね・・分骨ったって骨なんか絶対ないんですけどね・・
でも信長サマのところではやっぱり丁寧に手を合わせてしまいましたわw

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瑞龍寺から1キロくらいはあるんじゃないか・・雨の中行って戻っては難儀すぎる。
車で来て大正解だったわ。車を停めとくスペースもあるので瞬撮で済むから結果オーライ!
車から降りて木立の中へ入り、石灯籠が整然と並んでいる参道を進んで行きます。

15a_R.jpg

前田利長公の墓所です。利長の33回忌にあたる正保3年(1646)に前田利常が建てたもの。
金沢市にある野田山墓所と合わせて「加賀藩主前田家墓所」として国の史跡になっています。
明日は前田の本拠地、金沢ですから、ワタクシもちろん野田山墓所にも行くつもり。

16_R.jpg

墓石の前までは入れないんだけど、せっかくなので出来るだけ近くで見たいわ~と思い、
墓周りにめぐらされた堀を渡ってかぶりつきに行きます。雨で増水してるのか、
元からこんなザブザブなのか分からないけど、ワタクシ高低差ビビりなので怖かったわw

17_R.jpg

でかっ!! 大名の墓としては日本一と言われるそうで、高さ11.9メートル。
墓標は花崗岩で、基壇には狩野探幽下絵と言われる蓮華図文様が彫られています。
利長が高岡に入城した9月13日、前田利長公顕彰祭の時だけ一般公開されるそうです。


近くの高岡城跡、高岡駅前には利長さんの銅像があります。
こちらもぜひセットでどうぞ!


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| 武将の墓 | 16:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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金剛寺の皆川広照の墓

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栃木県栃木市、皆川城の麓の金剛寺には、皆川広照のお墓があります。

P1090024 (2)

お墓の由緒などは詳しく分からないんだけど、金剛寺には皆川広照が着用した南蛮鎧兜や
広照の子、隆庸が寄進した薬師如来像などがあって市の文化財となっているとのこと。


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住職さんとかお寺の人がいたら話を聞きたかったんだけど、お彼岸の最中で忙しいのか、
人影はなく・・というより墓地もあるのに墓参りの人すらおらずシーンとしていました。


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本堂の左手に皆川歴代の墓所がありました。案内板には↓なことが書いてあります。

藤原秀郷を祖とする皆川氏は長沼五代を経て、長沼五郎秀宗の時にこの地に移り
その子氏秀に至り皆川姓を名乗り、永享元年(1429)観音山に皆川城を築きました。
皆川広照の代、秀吉の小田原攻めに際し家康のもとに降伏し、旗本として幕府に仕えました。


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ずらーーっと並ぶ皆川氏歴代の墓石が。戦国時代から遺骸は必ず菩提寺である金剛寺に葬られ
一代も欠けることなく現在に至るんだそうですよ。これはなかなかすごいことです。


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入口から見て一番奥にあるのが広照さんのお墓。石の劣化が少なく一番きれい。


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墓石にはもれなく歴代藩主の名札が立っているので非常に分かりやすい。

皆川歴代城主の中で一番名君だったと言われているのがこの広照さん。
信長の野望だと浪人登場で扱いイマイチ悪かったりする場合もあるんだけど、
先見の明があり、乱世を生き抜く嗅覚が冴えてる人だったようです。

広照さんは天正9年(1581)、信長に馬を贈って礼状をもらっていて、
家康もそれを喜んだという記録があるのだとか。武田がようやく滅ぶかって頃に
栃木にいる広照さんが信長に誼を通じておこうとしたって結構すごい。

残念ながら信長は翌年、本能寺の変で死んでしまい、広照さんはその後、
時節の流れで北条方として小田原攻めに参陣するけれど、開城前に城を抜け出し
家康を通じて投降、皆川は安堵されたんだから、はしっこいことこの上ないです。


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広照さんの墓の並びには初祖や初代など始め、皆川の中でもビッグネームがずらり。


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広照さんのお墓からは、在城した皆川城跡がよく見えます。小田原攻めの後、
広照さんは栃木城に移ったけど、やっぱり生まれ育った城ですからね。


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門前でもう1度、皆川城を~別名を「法螺貝城」というだけにマキマキですw



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