武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2014年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年10月

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安宅の関 義経・弁慶・富樫の銅像

石川県小松市の安宅住吉神社には弁慶・義経・富樫の銅像があります。

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小松市にある「安宅(あたか)の関」は義経と弁慶にゆかりのある名所。
歌舞伎の勧進帳で有名なので、小松城に行きがてら寄ってみた次第。

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銅像のある安宅の関は安宅住吉神社の奥、日本海丸見えのところにあるので必然通りかかると、
遠方の方ですか?由緒などご説明させていただいております~と巫女さんが声をかけてきます。
が、ワタクシはホントに時間がなかったので丁重に、しかしきっぱりとお断り。
事前調査でみた色んな人の話だと最後にマストでお守り勧めてくるらしいので面倒だしね。
フフフ・・こりゃワタクシもさっそく難関突破しちゃったわと勝手にほくそ笑みますw

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神社の先の松林を抜けると目の前が開け・・左から義経、弁慶、富樫の銅像にロックオン!
右下に書かれた「智仁勇」というのは弁慶の知恵、富樫の情、義経の勇気を表したもの。
さっそくもっとかぶりついて、難関突破のシーンを勝手に妄想していきましょうw

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こちらが源義経さん。壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした義経さんはノリノリで京へ戻りますが、
兄頼朝に謀反を疑われ追われる身となってしまいます。義経さんは弁慶と共に山伏の姿となり、
奥州平泉の藤原氏の元へ落ちのびようとしますが、頼朝が設けた関所「安宅の関」で
安宅の関守、冨樫に見とがめられ、厳しい詮議を受けることになるのです。

凛々しい武者のイメージでいてほしいって勝手な思い込みがあるの中年ぽくて少々残念w
安宅の関の場面では弁慶と富樫に食われ、坊ちゃん育ちの義経さん正直影は薄いです。

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こちらが武蔵坊弁慶さん。富樫の尋問を受けた弁慶は「東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧」
だと言い張ります。しかしそもそも疑われての詮議。「ああ、そうでしたか」とはなりません。
そこで弁慶は持っていた白紙の巻物を取り出し、富樫の前で勧進帳として読み上げて見せます。
勧進帳というのは寺院建立の資金集めの趣意を記した書類。主君を守りたい弁慶必死の演技でした。

弁慶さんは「牛若丸」の絵本を読んだから、幼稚園の頃から知ってる歴史上の人ですw
怪力無双の荒法師で、五条大橋で笛を吹いていた牛若丸に戦いを挑んで返り討ちに合い、
以来、家来となって活躍します。弁慶は最後まで義経に寄り添い、たどり着いた奥州で
藤原氏の裏切りに合うと、義経を守って堂の入り口に立って薙刀をふるって奮戦し、
雨の様な矢を受けて立ったまま死んだ・・弁慶の立往生っていうのもとっても有名

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こちらが富樫泰家さん。富樫さんは弁慶が必死の演技で勧進帳を読み上げるにも関わらず、
強力姿(荷人役)の義経に目を付けます。しかし弁慶が金剛杖で義経を打ち付けるのを見て、
その忠義に心をうたれ、義経主従と気付きながら関の通行を許してしまうのでした。

弁慶は「お前が義経に似てるから面倒なことになってるんだ、その顔が憎い」的な事をいって
義経を打ち据えたそうですが、大ピンチを切り抜けるためとはいえ主君をぶっ叩くなんて
なかなかできない。主従に絆があって、お互いの思いが通じているからこそのことで、
それを感じとるだけじゃなく、実際に情けもかけた富樫さん。あんた・・立派な男だよ。

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弁慶と富樫の妄想に大満足したところで、安宅住吉神社に戻って巫女さんと目が合わないよう
勧進帳を読み上げる弁慶の銅像を眺めます。プレッシャーハンパない中、白紙の巻物を眺め、
さもあちこち勧進に廻ったように次々と自信ありげに読み上げるって考えるほどすごい!
神社よりむしろ弁慶の銅像に「難関突破のご利益を」と心の中で拝んでしまいましたわw


この後、ワタクシは小松城に向かうのですが、途中渡った橋の欄干に弁慶と富樫を見つけ、
しかし停まることも分離車線で戻ることも出来ず少々無念でした。事前に知ってたらなぁ・・

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| 武将の銅像 | 20:46 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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前田家歴代藩主が眠る野田山墓所

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石川県金沢市の野田山墓所には前田家歴代藩主の墓所があります。

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野田山墓地はでかいんです。墓域のあちこちに入り口がいっぱいあるんです。
戦没者墓苑とか軍人の墓とか一般ピープルの墓とかあって分かりづらいったらヽ(`Д´)ノ
ウロウロした挙句それっぽい入口見つけて勇気を持って進み、やっとたどり着きましたw

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さすが本拠地の前田家墓所。利家やまつのみならず、利長さんや豪姫やら・・
前田オールスター勢ぞろいという感じになってるので大場所だけお参りする作戦。
敷地をキューキューで使わない、こしらえはケチケチしない前田イズムが感じられます。

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で、利家とおまつこと芳春院のお墓にお参り。墓所入って正面ドーンが芳春院のお墓、
旦那の利家さんと倅はその両サイドという布陣。パワーバランスが伺えますw
嫁もしくは母上を下にも置かなかったのね、おまつさんは百万石の功労者なんですもの。

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おまつこと芳春院さんのお墓がこちら。関ヶ原合戦の後(利家が亡くなった翌年)、
加賀藩存続のため進んで人質となって江戸に行った女傑ですよ。おまつさんは。
15年も江戸で加賀藩のために心を砕き、元和3年(1617)金沢で没。享年71才。

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で、こちらが芳春院さんの横っちょにあった前田利家さんのお墓。
14歳で信長に仕え、生涯40数回の戦で功績をあげ「槍の又佐」の異名を取った
加賀百万石の藩祖。時節がら黒田軍師官兵衛にスポット当たってますが、
秀吉が天下取れたのは、利家の存在も大きなものだったと思います。

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利家は慶長4年(1599)大阪城で死去。享年62才。関ヶ原の合戦が起きる前年のことでした。
利家の死をきっかけに家康はなりふり構わず天下取りへの道を突き進みます。
家康の腹を察していた利家は「自分の死後、三年は上方を離れるな」と嫡男利長に遺言します。
しかし利長は家康の口車に乗せられてわずか3ヶ月で金沢に帰ってしまったため
家康に交戦の口実を与えることとなり、母の芳春院を人質に出すハメになったのでした。

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その利長さんの墓所がこちら。奥方または母上を挟んで父と倅が対峙するポジですw
利家さんはどう思っているか分かりませんが、案外、利長が凡庸でよかったのかも?
利家さんの遺言どおり、利長さんが大阪に3年居座ってても結局は家康に貫禄負けして、
結果はそんな変わらないどころか、百万石はなかったような気がしないでも・・www

野田山の前田家墓所は金沢城からも見えるような場所。
前田めぐりをする際はぜひセットでどうぞ。独特の空気感がありますよ。




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