武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2015年03月 | ARCHIVE-SELECT | 2015年05月

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龍譚寺の石田三成の銅像

彦根市の龍譚寺の参道には石田三成の銅像があります。

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龍譚寺は奈良時代(734)、行基菩薩によって遠江の浜名湖北井伊谷郷に開基された臨済宗の
寺院であったものを、井伊直政が佐和山城主になったのを機に山麓に移築開山したんだそう。
伊井家の位牌があり、歴代藩主も立ち寄ったという伊井家ゆかりの古刹です。

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この龍譚寺は三成の居城だった佐和山城跡への登城口があるので、
山門にはこのような手書きの説明が。山道は足場悪いので注意が必要です。

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龍譚寺は「ふだらくの庭」と名付けられた枯山水の素晴らしいお庭がありました。
拝観するとお庭の他、伊井家歴代の位牌や佐和山城の襖絵、書院なども見られます。

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参道の途中にある石田三成の銅像がこちら。

善政をしいていた三成は民から慕われていたので、後に入って佐和山城を壊すとこから
始めた直政・直孝ら井伊家の人々は後のちまでかなり神経を使ったんでしょうね。
龍譚寺には三成の肖像や遺品も所蔵されているそうです(見れなかったけど)

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若干、濃いめの三成さんです。ワタクシは長浜の石田会館の銅像の方が好きですw


彦根城から少し離れているのですが、セットで拝観することをお勧めします!




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| 武将の銅像 | 15:15 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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四天王寺の信長生母と高虎夫人の墓

三重県津市の四天王寺には信長生母と高虎夫人の墓があります。

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四天王寺は曹洞宗のお寺で、推古天皇の勅命で聖徳太子が建立したと伝えられている古刹。
山門は寛永18年(1646)に再建されたもので、戦時の空襲を免れて今に残っているのだとか。

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立派な中雀門。創建以来、兵乱や戦火で焼失と再興を繰り返していた四天王寺は
元和5年(1619)津城に入国した藤堂高虎が改築、2代藩主高次が寺領を寄進したことで
寺領を取り戻し、藤堂家ゆかりの寺として今に続いているそうです。

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山門、中雀門と江戸時代の再建ながら年季の入った建物が続いていましたが、
戦後、再建されたという本堂はツルッとしすぎて何だか味も素っ気もない感じ。

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高虎夫人「久芳院」と信長生母「土田御前」の墓所は本堂左奥の墓域の奥のようです。
この案内版しかないので、余計な曲がりとかしないでまっすぐ進んでいきましょう。

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ずっと進んでいくと石段見えます。これを登ったところにお二方の墓所があります。

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まずは石段登って右側にある織田信長の生母「土田御前」のお墓まいり。

土田御前は信長の弟信行を寵愛したため、信長とは不仲だったと言われますが、
兄弟で争った末、信行が誅殺されると信長に引き取られ共に暮らしていたそうな。

本能寺の変で安土城から逃れた土田御前は孫である織田信雄の元に身を寄せ、
信雄が改易されると信長の弟信包を頼って安濃津城に移り、1594年に死去。
ここ四天王寺に祀られました。報春院花屋寿永大禅尼。享年は・・わかりませんw

土田御前ってドラマや小説で描かれ方がイヤな感じにされることが多いよね。
母親に遠ざけられたことが信長の人格形成に大きな影響を与えたって説もあるしね。
本当の人柄なんかは分からないけど、ワタクシはたぶん嫌いなタイプの女性ですw

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で、土田御前の隣り・・石段登って左側にあるのがこちら高虎夫人「久芳院」のお墓。

高虎夫人は一色修理太夫義直の娘。高虎が26歳の頃に娶ったんだそうな。
2人の間に子供は生まれず、高虎は長いこと側室を持たずにいたようですが、
後に長高連の娘、松寿を側室に迎え、44歳の時に出来たのが嫡男の高次でした。

側室を自らも勧めたという久芳院は慶長20年(1616)高虎に先立ち津城で亡くなり、
四天王寺に葬られました。久芳院殿桂月貞昌大禅定尼。

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高虎夫人の墓所は前の通路が狭くて撮りポジ取るのが難しい~なので角度強引!
それにしても普通の墓石っぽいし区画も狭いのでイマイチ雰囲気は出ないですw

ちなみに高虎さんの側室、松寿の墓は寒松院の藤堂家墓所にちゃっかり。
高虎より先に亡くなったとはいえ、自分だけ信長母と四天王寺・・微妙に気の毒なw


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| 武将の墓 | 08:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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崇福寺の織田信長父子の廟所

岐阜市の崇福寺には織田信長父子の廟所があります。

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崇福寺は文明元年(1469)に美濃守土岐成頼とその家臣斎藤長弘によって
創建された臨済宗のお寺で、現在は織田家の菩提寺となっています。

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こちらのお寺は「安禅はかならずしも山水をもちいず心頭滅却すれば火もまた自ら涼し」
で有名な快川紹喜が住職を務めたこともある古刹。余談ですが快川紹喜はこちらにいる時、
武田信玄に招かれ甲斐の恵林寺に行き、後に織田信忠によって焼き殺されています。

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崇福寺はお寺の敷地内に入るのは自由拝観なんだけど、信長父子の廟所と本堂内を見るのに
拝観料がかかります。この200円をケチってはいけません。これを見なきゃ来た意味なし!
ってことで書いてあるとおり呼び鈴を押して受付をし、中に入れてもらいます。

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本堂内には色々なお宝が展示されているのですが撮影禁止なので血天井だけご紹介。
関が原合戦で西軍の猛攻を受けて落城した岐阜城の床板が血天井として張られてます。
当時の岐阜城主は信長の孫信秀。38名の城兵が戦死したそうで、その菩提を弔うため、
血痕の付着した床板を天井に張って供養しているのだそうです。リアルでなんか怖ーっ!

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本堂内の見学を終えると、信長父子の廟所をご覧くださいと入り口を案内されます。
入り口に生えているリュウゼツラン(竜舌蘭)が違和感だけど、まぁ気にせずに。

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何を表現したものかワタクシにはさっぱりわかりませんが、趣のあるお庭がありました。
お寺のすぐ前は大通りなんだけど、奥まった庭園は静寂そのもので気持ちが落ち着きます。

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お庭を回っていくと入り口があり、この先が信長父子の廟所があるようです。
本能寺の変で斃れた信長の遺体はなく、あちこちに墓や廟所はいくつもありますが、
こちらの廟所はらしい雰囲気で、高野山安土城での墓参りより厳かな気持ちになります。

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入って正面にあるのが信長父子の墓碑。縦に両分して父子の法名が左右に刻まれています。
信長が右に摠見院殿贈一品大相刻圀泰岩大居士、左に信忠の大雲院殿三品羽林高岩大禅定門。

案内板によれば6月2日本能寺の変後、6日には信長の側室お鍋の方から崇福寺に
書状が送られており、直ちに崇福寺に安置された・・とありました。

ワタクシそれを読んで正直「えっ何が安置された?」と思ったけど、それはいわぬが花。
教育委員会とか何やらが書くこういう説明ってのは本当にうまいな~と思いますねw

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墓碑の隣には立派な位牌堂もありました。中には入れませんが、この中には天正10年10月
京都の大徳寺で行われた葬儀で使われた位牌が安置されているんだそうです。

遺骨だ遺髪だがあるわけじゃなくても、お墓って故人を偲ぶためのものでもあるから、
あちこちにたくさん墓やら供養等やらのある信長サマはやっぱすごいってことよw
そう思ってオーマイカリスマ信長サマの墓碑と位牌堂に丁寧に手を合わせました。


斎藤道三の墓碑がある道三塚はここからすぐ近く。
拝観した後はふら~と歩いてぜひセットでご覧ください!



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