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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2015年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2015年10月

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俵藤太(藤原秀郷)の墓

群馬県佐野市には俵藤太(藤原秀郷)のお墓があります。

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ムカデ退治で有名なアノ彼。佐野市は秀郷さんが築城した唐沢山城があってゆかりの地。
とはいえ・・場所が分かりづらかったこと。そもそもナビでドンピシャ目指せないので、
近くにある「道の駅たぬまどまんなか」を目印に接近。そっからグーグルマップに切り替え、
じわじわ近づくんだけど、入口になる角が狭すぎて分からず行ったり来たり怪しいワタクシ。
うろつくこと数分・・車1台やっとの生活道路を通り住宅街に入ることに気付いた次第w


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秀郷さんは平安中期の武将で、「平将門の乱」の時に本拠地へ攻め込み、
将門をみごと討ち取って乱を鎮圧した武勇の人。秀郷さんはこの功により従四位下を与えられ、
下野守、武蔵守、鎮守府将軍に任じられました。

また伝説として残っている有名な「ムカデ退治」というのは・・

瀬田の唐橋の上に大蛇が横たわっているのを見て、他の者が恐れて通らない中、
秀郷さんは大蛇を踏みつけて橋を渡ります。実はこの大蛇は琵琶湖に住む龍の化身。
龍は肝っ玉の据わった秀郷さんに悩まされている三上山のムカデ大事をお願いします。
秀郷さんはさっそく三本の矢を持って三上山に向かい、三本目の矢で見事ムカデを退治。
退治のお礼に龍から俵などを貰ったことから「俵藤太」と呼ばれるようになりました。

ってやつですね。ムカデにビビる龍もどうかと思うけど、まぁそれはおいといて。
大蛇を踏みつけ大ムカデをやっつけ、かの将門さえも蹴散らす秀郷さんはブラボー!


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源氏平氏に次ぐ武家の名門として小山氏・結城氏・佐野氏・藤姓・佐藤氏・太田氏・・
嫡流はもちろん後裔を称した人を含め、秀郷さんには後裔氏族がたくさんいます。
お墓も佐野市のこの場所とは別に、群馬県伊勢崎市にもあるんだそうですよ。


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一説によると「当時の」イケメンでもあったらしい秀郷さん・・・
強い、名門、イケメンと来たらそれはモテモテだったことでしょうねw


機会があれば伊勢崎市の方のお墓にも巡礼しようと思います。


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傑山寺の片倉小十郎景綱の墓

宮城県白石市の傑山寺には片倉小十郎景綱の墓があります。

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片倉小十郎のお墓がある傑山寺は白石城から車で5分ちょいくらい。
慶長13年(1608)に片倉小十郎が妙心寺第十一世天心智寛大和尚を開山として
建立された臨済宗のお寺で、代々の城主と家族が弔われています。


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一般のお墓もある墓所内には分かりやすい案内板もちゃんと出てるので安心! 
歴代墓所は後回しにして、景綱さんのお墓のある一本杉を目指します。
景綱さんの名前にいちいち「初代」とつくのは、鬼小十郎の異名をとった
片倉小十郎重長さん2代目と区別をするためよね。大事なことですよ。うん。

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ちょいちょい案内が出てるので、広い墓所で迷わなくていいのはありたがい。

片倉景綱は伊達輝宗(政宗の父)の小姓として仕え、19歳の時に当時9歳の
梵天丸(政宗)の近侍になりました。文武に優れていた景綱は姉の喜多が
政宗の乳母だったこともあり、信頼のおける家臣として重用されました。

喜多さんは景綱と腹違いの20歳も年の離れた姉上。文武に通じた女傑と言われ、
早くに両親を亡くした景綱はこの喜多さんに養育され影響を受けたそうな。
喜多さんタイプの女性ワタクシ大好きなのでこの後、彼女のお墓参りもします。

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樹齢は分かりませんが高くて上まで映りません。俺の墓標は一本杉・・って別に
景綱さんが決めた墓標じゃないけど、自分の生涯をかけた政宗ラブな生き様が
一本ピーンと通ってるように感じて、景綱さんのお墓らしいのかなと思います。

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元和元年(1615)10月14日、景綱は59歳でその生涯を閉じました。
悲しんだ政宗は自らの愛馬を下賜、棺を引かせて景綱を見送ったそうです。

遺骸はこの傑山寺に埋葬され、敵にあばかれないようにあえて墓石は建てず、
一本杉を墓標にしたといわれています。「傑山寺殿俊翁常英大居士」。

晩年には肥満し、糖尿病を患っていたのではないかと言われる景綱さん。
悲しんだのは政宗ばかりでなく、慕った家臣が6名も殉死したのだとか。

子供が先に生まれたからって殺そうとするくらい政宗ラブすぎだから、
景綱さんより政宗の方が先に亡くなっていたら・・くわばらくわばら。

この後、分骨された愛宕山の廟所にもお墓参りをするので、
景綱さん妄想はひとまずこの辺にしておきましょうw


それにしても政宗ラブすぎwww



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