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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

2015年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2016年01月

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弘前城の津軽為信の銅像

弘前城東門前には津軽為信公の銅像があります。

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弘前藩初代藩主だけど岩手の出身ですw 元は大浦姓で南部家に属していましたが、
跡目争いで南部家が衰えると反旗を翻し、津軽地方を中心に勢力を築き上げ、
津軽為信と名乗りました。地味だけど津軽で頑張ってた為信さんですw

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立派なひげがあったことから「髭殿」と呼ばれていたらしい為信さん。
西国中心に見る戦国史にバンバン出てくることはありませんけど、
中央の大名と親交を持って秀吉に通じ、所領安堵されていたりとか、
関ヶ原では秀吉の小姓をしていた嫡男を西軍につかせて自身は東軍につき、
どっちが勝っても家名を残す真田と同じ策を取るなかなかのしたたかオヤジ。
津軽弁のなまりがきつくて、田舎大名と揶揄され悔しい思いもしたようですが。

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武将銅像としてすごく素敵な類だと思います。威風堂々とした感じもいいし、
津軽さんの立ち姿が何とも言えず凛としてかっこいいんですよね。

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こちらは弘前城前にある物産館?の中にいた津軽さん。
ねぶたの展示の隣におりました。目線の高さに見られるのがいいw

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たぶんね、髭はもっとわっさー美しく長かったんだと思うのw
でも武将銅像としては面構えもよく、こちらのもよいです。


弘前城に行ったら、津軽為信さんの銅像2体も忘れずご覧くださいませ。

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| 武将の銅像 | 09:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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傑山寺の片倉小十郎景綱の銅像

宮城県白石市の傑山寺には片倉小十郎の銅像があります。

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短い参道を抜けて本堂前に来ると入り口に鎮座する片倉景綱さんのお姿が。
あちこちで色々武将銅像を見てるけど、こういうパターンは珍しいのではないかと。

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伊達家中では「武の伊達成実」と並び「智の片倉景綱」と言われた景綱さんは
秀吉から5万石で召し抱えたいという話が来るほど高い評価をされていたようです。
戦では常に先陣を務めたというから、景綱さんは智勇に優れた武将だったんですね。
政宗も景綱さんの言うことは素直に聞き入れることがほとんどだったような。

景綱さんの銅像は平成24年に完成したもの。銅像出来てから来てよかったわw
御影石も手入れしてんでしょうね。銅像も綺麗なら、台座もピッカピカです。

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何しろ政宗が「第一」とにかく「大好き」で人生を政宗に捧げた景綱さん。
病を患って飛び出た政宗の目をえぐりだしたとか、敵を深追いして窮地に陥った
政宗を助けるため「我こそ政宗」と乗り込んで大暴れして救い出したとか・・

また政宗より先に子が生まれたことを恐縮&憚るあまり実子を殺そうとして、
政宗に説得されてようやく思いとどまった、なんてエピソードも有名です。

景綱さんって冷静ながら政宗に関しては熱血みたいなイメージなんだけど、
こちらの銅像は何がベースなんだろう? 穏やかに白石市内を見つめる表情。
ちなみに危うく殺されそうになった小十郎ジュニアは大変な美少年だったそう。
となると景綱さんもそこそこイケメンとか・・銅像から想像はできませんがw


こちらの傑山寺には景綱さんの一本杉の墓標があります。
政宗ラブを感じつつ、ぜひセットでお参りをしてください!


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| 武将の銅像 | 20:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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当信寺の阿梅の墓

宮城県白石市の当信寺には幸村の娘、阿梅さんのお墓があります。

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こちらは白石城の二の丸大手二の門だったもの。明治7年(1874)白石城解体の際、
専念寺に売却され、その後、当信寺山門として移築されたものなのだそうです。
2階に「眼象窓」を設けたり、開口を無くするなどの工夫がしてあります。

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当信寺は法然上人によって開かれた浄土宗の寺院で、白石が蒲生氏から片倉氏に移った時、
現在の場所に移りました。片倉家二代重長公の後妻、真田幸村の娘阿梅の方の菩提寺です。
本堂の右手の脇を進んで行くと墓所があります。

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阿梅さんと大八さんのお墓。裏庭のような場所に入るとすぐ見えて分かりやすい。

元和元年(1615)の大坂夏の陣の際、討死の覚悟を決めた真田幸村は敵将ながら
智勇を見込んだ片倉重長に阿梅、阿菖蒲、おかね、大八の4児を託しました。

遺児たちは白石城二の丸でひそかに養育され、後に阿梅は重長の後妻となり、
阿菖蒲は田村定廣に嫁ぎ、大八は片倉守信と名乗って伊達家に仕えました。
おかねさんは詳しく分からないのですがどうも早逝したようですね・・・

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人の形をしたのが阿梅さんのお墓。西国生まれの阿梅さんは西国人が多く通る
街道近くに埋葬されたいと願い、奥州街道沿いにあった当信寺に葬られました。

享年78歳。法号は泰陽院殿松源寿清大姉。大八さんは58歳で亡くなっています。

阿梅さんは両親の位牌もこの当信寺に安置したそうだから、こうして静かに
眠りについた今も、亡き父母のことを思っているのかもしれませんね。

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阿梅さんの墓石は如意輪観音像で、頬杖をついて瞑想している姿が
歯痛のため頬を押さえているように見えることから、墓石を削って飲むと
虫歯に効くとの迷信が生まれたらしく・・相当削られてると見ました(泣)


阿梅さん白石では有名なので、白石城とセットで立ち寄ってください。
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| 武将の墓 | 16:52 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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