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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

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高岡城の高山右近の銅像

富山県の高岡古城公園の大手口には高山右近の銅像があります。

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キーーー!! 銅像の真ん前に停まった無神経な軽トラのせいで真正面撮れなかったわヽ(`Д´)ノ


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高山右近はキリシタンの父友照に命で洗礼を受け、ジュストの名を授かりました。

右近と父の友照は元は高槻城主、和田惟長の家臣でしたが他の家臣にそそのかされた
惟長に暗殺されかけます。反撃にでた父子は切り合いの末、惟長を倒して高槻城主となり、
天正元年(1573)当時、織田信長につかえていた荒木村重の支配下となります。

この時の切り合いで命に関わる大怪我をしながら奇跡的に完治した右近は
キリスト教への信仰をいっそう強くしたと言われています。

P1090327_R.jpg

天正6年(1578)村重が信長に謀反を起すと右近も高槻城に籠城しますが、
信長に「従わなければ宣教師とキリシタンを皆殺しにする」と脅され降伏。
父友照に家督を返して信長の前に出頭したため、高山家と所領は安堵されます。

本能寺の変後、右近は秀吉につくものの天正15年(1587) バテレン追放令が
出されると棄教を拒否して出奔。小西行長の助けで淡路島や小豆島に隠れた後、
前田利家に引き取られ、前田家の相談役として加賀で暮らします。

しかし慶長19年(1614)德川家康のキリスト禁教令により宣教師らが国外追放されると、
右近もフィリピン・マニラへ渡海。マニラでは「偉大なキリストの騎士」として
歓迎されますが間もなく体調を崩し、慶長20年(1615)に病没。享年64歳。


右近さんって武将としての能力も高く茶道もたしなむ文化人で、人柄もよかったから
友人もたくさんいたっていうよね。信仰心がなけりゃ豊臣政権でもっと出世したかも。
しかし高槻6万石や家族や友をすべて捨ててマニラに渡るって・・・すごすぎますよ。

想像で建てられた銅像だけど、高潔で知的な感じがにじみ出てるので高得点かと。


高山右近さんの同じ銅像は、高槻や小豆島にもあるのだとか。
そのうちジュスト様には高槻でもお目にかかりたいと思っていますw



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| 武将の銅像 | 15:52 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

サムライ銅像研究会さま こんばんわ!

ちょうどポジ取りしたい所の駐車とか、
訪れた時間の不運で逆光になっちゃうとか・・
銅像ハントもなかなか苦労しますね(´Д`)

トラックの人に乗らせてもらうって手は思いつきませんでしたw
子供向け配布の忠勝バッチをドン引きされながらねだるくらい
図々しいのにwww 次に機会があったらチャレンジしてみよw

| あも | 2014/11/02 23:00 | URL | ≫ EDIT

こんばんわ 私も高岡の右近像の正面が撮れませんでした。トラックいなかったけど、直射日光が厳しくて…。
あもさんならトラックの持ち主に理由話して荷台に載らせてもらって撮ればよかったのでは?笑顔の一つもつければ断る野暮もいないでしょうに。

| サムライ銅像研究会 | 2014/11/02 21:44 | URL | ≫ EDIT















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