蕃松院の依田信蕃の墓

龍岡五稜郭の近くにある蕃松院。背後の山は信蕃さんの城だった田口城。

元は明法寺と呼ばれ元亀の頃に戦火で焼かれ、現在の場所に移されました。
天正11年依田信蕃が討死すると信蕃の子で小諸城主の松平康国が供養のため
居館跡に堂宇を再建し、戒名を取って蕃松院と改めました。曹洞宗の古刹です。

本堂は平成になって修理されてるらしいのでモダーンな感じで。
お墓参りをするには本堂の左手の方に進んで案内通りに行けばよし。

依田信蕃は佐久の豪族で武田氏に仕えた武将。元亀3年(1573)岩村城攻略戦で、
700の手勢で5000の織田勢を破る戦功を上げ、勇知を認められます。
天正3年(1576年)には父信守と二俣城を守っていましたが長篠の合戦後、
二俣城奪還を狙う徳川に包囲されると籠城し、わずかな手勢ながら抵抗します。
8月には二俣城の東にあった武田の拠点である諏訪原城が落とされ依田信守も病死。
信蕃は守り続けますが12月、兵糧が尽きると全ての城兵を助けることを条件に開城しました。
おりしも開城の日は雨。信蕃は雨の中、蓑笠を着た姿で退去するのは見苦しいとして、
雨が上がった翌日、整然と城を明け渡し、高天神城に退去しました。
天正10年武田家滅亡の直前には城将として田中城に入り、再び徳川軍と対峙します。
家康はすでに武田を離反していた穴山梅雪に勧告を届けさせ「信州に本領を与える」と
交渉しますが信蕃は「主家の安否が分からぬうちに寝返るのは臣下にあらず」とこれを拒否。
勝頼自刃の後ようやく開城し、自領の佐久郡芦田に引き上げました。
家康は二俣城、田中城での信蕃の堂々たる爽やかな武人ぶりに惚れたんでしょうね。
旧武田家臣に強硬姿勢を取る信長に家臣にすると呼び出され、諏訪の織田信忠の陣に
向かおうとする信蕃に「殺されるから行くな、自分のところへ来い」的な書を送り、
家臣になる話をつけると、ほとぼりがさめるまで・・と二俣の小川郷にかくまうんです。
そして本能寺の変後、信蕃は旧武田家臣の取り込みや北条との戦いで活躍。
家康の信頼を得て佐久に領地をもらった後、岩尾城攻略でやんちゃして討死・・

左が信蕃さんのお墓。ともに岩尾城攻略で討死した弟信幸と仲良く並んで・・
ものすっごいビッグネームな超メジャー武将じゃないかもしれないけど
ワタクシ依田信蕃になぜだかとても惹かれてしまうんですよね~
真田丸・・ちらとくらいは、名前くらいは出るんでしょうかww
色々語りたいことはあるんだけど、墓参りのエントリーなんでこのくらいでw
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| 武将の墓 | 17:12 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑
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| | 2015/11/25 19:52 | |