北の庄城跡の柴田勝家の銅像
[柴田勝家] ブログ村キーワード
越前北の庄城跡には柴田勝家とお市プラス三姉妹の銅像があります。

北の庄城跡は現在、北の庄城公園になっていて柴田勝家とお市さんを祀った柴田神社も建てられています。
その北の庄城公園のど真ん中で柴田のオッサン・・もとい、柴田勝家が睨みを利かせております。
信長が若い頃には信長の弟、信行に肩入れして信長排除を画策、一時は信長と争いながら、
戦いに敗れて剃髪して降伏。それが許されたのも信長の後年にはあり得ないミラクルΣ(゚Д゚)!
六角氏に兵糧攻めを受けた時は、残りの水を兵士に分けた後、水瓶を叩き割って出撃したため
「瓶割り柴田」などとも呼ばれ、勇猛で猪突猛進、戦以外の細かいことに頭が回らないみたいな
イメージの武将ですが、お市さんが添い遂げたくらいだし、小説やドラマで作られたイメージより
実際は豪快ではあるけれど、非常に気持ちの優しい気配りのできる人だったのではと思います。

ワタクシ親しみを込めて、柴田勝家のことを「柴田のオッサン」と呼んでおります。
無骨一辺に語られることが多い武将ですが、個人的には不器用だけど暖かい優しい人だと思っていて。
どう贔屓目に考えてもイケメンでもないし品もないだろうけど、人間的な魅力がありますね。
この銅像はちょっと小柄でワタクシのイメージする「鬼柴田」感が少し足りない気がしてマス。
顔ももうちょっと・・豪快でいかつい雰囲気があったらよかったな~なんて思ったりw

北の庄城の片隅にある柴田神社の鳥居をくぐったところにはお市さんの銅像もあります。
お市さんは天正10年(1582)10月、柴田勝家に嫁ぎますが翌年4月24日、北の庄城は落城。
勝家は娘と共に城を出るよう諭しますが、お市の方は娘3人を秀吉の陣に送った後、
勝家と静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害したと言われています。
「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 夢路を誘う ほととぎすかな」
短い夏の夜の眠る頃合いだというのに、別れをせかすようにほととぎすが鳴いています・・
お市さんの辞世の句です。今風に言ったらこんな感じの雰囲気なんじゃないかしら・・。
1年と満たない結婚生活ながら夫とともに自害する道を選んだお市さんの心中はいかばかりか。
「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井に揚げよ 山ほととぎす」
そしてこれが柴田のオッサンの辞世の句。無骨なだけじゃないことがうかがえる句だと思います。

お市さんと少し離れて茶々、初、江与・・浅井三姉妹の銅像もあります。
茶々が伸ばした手は、義父勝家とと母の市が残る北の庄城に心を残す様子を表現したものかしら?

5人の銅像の位置関係はこんな感じ・・なんでお市さんを柴田のオッサン側にしてあげなかったの?
それでなきゃ、せめて娘3人と同じところにするとかね。お立ち台スペースの関係かと思いますがw
北の庄城は結城秀康の福井城築城に際し取り壊され、現在の公園には目立つ遺構はありませんが、
柴田のオッサンとお市さんに思いを馳せに、近くに行った際はぜひ立ち寄ってみてください。
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越前北の庄城跡には柴田勝家とお市プラス三姉妹の銅像があります。

北の庄城跡は現在、北の庄城公園になっていて柴田勝家とお市さんを祀った柴田神社も建てられています。
その北の庄城公園のど真ん中で柴田のオッサン・・もとい、柴田勝家が睨みを利かせております。
信長が若い頃には信長の弟、信行に肩入れして信長排除を画策、一時は信長と争いながら、
戦いに敗れて剃髪して降伏。それが許されたのも信長の後年にはあり得ないミラクルΣ(゚Д゚)!
六角氏に兵糧攻めを受けた時は、残りの水を兵士に分けた後、水瓶を叩き割って出撃したため
「瓶割り柴田」などとも呼ばれ、勇猛で猪突猛進、戦以外の細かいことに頭が回らないみたいな
イメージの武将ですが、お市さんが添い遂げたくらいだし、小説やドラマで作られたイメージより
実際は豪快ではあるけれど、非常に気持ちの優しい気配りのできる人だったのではと思います。

ワタクシ親しみを込めて、柴田勝家のことを「柴田のオッサン」と呼んでおります。
無骨一辺に語られることが多い武将ですが、個人的には不器用だけど暖かい優しい人だと思っていて。
どう贔屓目に考えてもイケメンでもないし品もないだろうけど、人間的な魅力がありますね。
この銅像はちょっと小柄でワタクシのイメージする「鬼柴田」感が少し足りない気がしてマス。
顔ももうちょっと・・豪快でいかつい雰囲気があったらよかったな~なんて思ったりw

北の庄城の片隅にある柴田神社の鳥居をくぐったところにはお市さんの銅像もあります。
お市さんは天正10年(1582)10月、柴田勝家に嫁ぎますが翌年4月24日、北の庄城は落城。
勝家は娘と共に城を出るよう諭しますが、お市の方は娘3人を秀吉の陣に送った後、
勝家と静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害したと言われています。
「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 夢路を誘う ほととぎすかな」
短い夏の夜の眠る頃合いだというのに、別れをせかすようにほととぎすが鳴いています・・
お市さんの辞世の句です。今風に言ったらこんな感じの雰囲気なんじゃないかしら・・。
1年と満たない結婚生活ながら夫とともに自害する道を選んだお市さんの心中はいかばかりか。
「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井に揚げよ 山ほととぎす」
そしてこれが柴田のオッサンの辞世の句。無骨なだけじゃないことがうかがえる句だと思います。

お市さんと少し離れて茶々、初、江与・・浅井三姉妹の銅像もあります。
茶々が伸ばした手は、義父勝家とと母の市が残る北の庄城に心を残す様子を表現したものかしら?

5人の銅像の位置関係はこんな感じ・・なんでお市さんを柴田のオッサン側にしてあげなかったの?
それでなきゃ、せめて娘3人と同じところにするとかね。お立ち台スペースの関係かと思いますがw
北の庄城は結城秀康の福井城築城に際し取り壊され、現在の公園には目立つ遺構はありませんが、
柴田のオッサンとお市さんに思いを馳せに、近くに行った際はぜひ立ち寄ってみてください。
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