武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

五郎山の仁科盛信の銅像と洞

[戦国] ブログ村キーワード

長野県高遠市の五郎山山頂には仁科盛信の銅像と祠があります。


5_201312101258409f8.jpg

仁科五郎盛信さんは武田信玄の五男で、武田勝頼の異母弟です。
信玄は信濃攻略をする際、その地の有力豪族と婚姻関係を結んで支配したので、
勝頼は「諏訪勝頼」に、盛信さんは仁科を継いで「仁科盛信」というわけです。

信玄は勝頼が諏訪の名を継いでいたため、後継者には勝頼の子、信勝を指名し、
勝頼を信勝が成人するまでの後見にしたとも言われてますね。余談ですけど。


7_2013121012584288c.jpg

石碑と洞、そしてでっぷりとした仁科盛信さんの銅像がある五郎山の山頂。
盛信さんは天正10年(1582)武田滅亡の時には高遠城を守っていました。


8_201312101258436e2.jpg

アップでどーん!! ・・でっぷりはいいとして、もうちょい若さがほしいとこねw

5万の軍勢を率いて高遠を包囲した織田信長の嫡男、信忠は盛信に降伏勧告をします。
しかし盛信は使者である僧の耳を切り落として追い出し、徹底抗戦をアピール。


14_201312101258451f5.jpg

なかなか貫録のある厚みは甲府駅前に鎮座するオヤジ様に通ずるもんがありますねw

高遠城の兵はわずか3000。押し寄せる大軍に挑んで討たれる者、恐れをなして投降する者・・
しかし盛信は最後まで城に踏みとどまって織田軍を迎え撃った後、十文字に腹を掻き切り、
はらわたをつかんで唐紙に投げつけるという壮絶な最期を遂げました。享年26歳。



12_201312101258467c2.jpg

勝頼の数少ない味方だった盛信さん。哀愁漂う男の背中をどうぞw 

ちなみに・・盛信の討ち死を知った勝頼は新府城に火をかけ、逃亡を開始。
岩殿城を目指すも小山田信茂に裏切られ、天目山で自害・・武田家は滅亡しました。
盛信さんの壮絶な死から9日後のことだと言われています。


9_20131210125955451.jpg

盛信さんの死に際やら祠の説明なんかが書かれている記念碑もあります。
盛信さんの遺体は地元の農民たちの手により、この地に葬られたんだそうです。
以来この山は仁科五郎盛信・・「五郎山」と呼ばれるようになったのだとか。


10_201312101259568c1.jpg

盛信さんが眠る五郎山からは高遠城下が見えます。どんな思いで見てるだろうか・・。
一人になっても最後まで戦い続けた盛信さんは、地元で大切にされているんだと思いました。


1_20131210125950d98.jpg

ちなみに場所なんですが・・ちょいと分かりづらい(ノД`;) ので書いておきます。
ハイキングコースになってて登山客なんかも来るらしいけど、車のが便利だね。

車の場合、高遠城から白山トンネルに向かって走りトンネルを通過。
トンネル出たらすぐ左折。するとすぐ写真のような案内版が見えますのでまた左折。


2_20131210125952812.jpg

で、ひたすら登る・・ずっと離合困難な道が続きます。心配になるけど進みます。
ちなみに写真は不安げな心持の行きには撮れず、帰りに撮ったので下ってるとこよw


3_20131210125953022.jpg

で、こういうところが見えたら到着。車は路肩にギリで停めとくしかありません。
この先は未舗装で離合困難どころじゃないので、停め場所探してうろついてはダメw

車を停めたら登って行けば5分足らずで仁科盛信さんのでっぷり銅像が拝めますよ!





応援お願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村


関連記事
スポンサーサイト
Related Posts Plugin for WordPress, Blogger...

| 武将の銅像 | 15:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://amoyoroshi.blog.fc2.com/tb.php/86-cd3290b8

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT