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武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

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撰要寺にて大須賀康高の墓

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静岡県掛川市の撰要寺には大須賀康高の墓があります。

P1080279_R (2)

横須賀城の近くにある撰要寺。奥に見える山門は横須賀城不明門の移築門です。

撰要寺は天正9年に大須賀康高が岌屋春阿上人を請じて創建した浄土宗のお寺で、
寺領50石を寄進して菩提寺として以降も歴代城主の庇護を受け、
10万石の格式を与えられた遠州一の寺格を持つ歴史あるお寺なんだそうです。


P1080288_R.jpg

本堂の左手に大須賀康高と二代忠政のお墓があります。高さ4メートルのデカい宝篋印塔。
向かって右側が康高さんで、左側が二代養子の忠政さん。それにしても目立つお墓です。


P1080287_R.jpg

高天神城攻略のため家康の命で横須賀城を築城、城主となった大須賀康高は天正17年死去。享年63歳。
康高の死後、養子の忠政(榊原康政の子で母が康高の娘)が城主を務めますが、家康の関東移封により
上総の久留里へ移ります。しかし元和元年(1616)榊原家に後継ぎがないことから忠政の子、忠次が
榊原家を継ぐことになり、再び後継ぎのなくなった大須賀家は断絶してしまったそうです・・・
何とでもしてやれたろうに、活躍した譜代でも容赦なく取り潰す幕府ってマジえげつないと思うわ。


P1080290_R.jpg

大須賀さんのお墓の横を登って墓域の奥に行くと、本多利長一族のお墓もあります。
利長さんは岡崎から5万石で横須賀城に入りますが、悪政を行ったとされて改易されてしまいました。
本当に悪政だったのか、またまた幕府お得意の言いがかりだったのか実際は分からないけどね。


P1080293_R.jpg

墓石は利長が横須賀城主だった時に前任地の岡崎城から海路運ばれたものなんだそうですよ。
父・祖父のお墓が一緒に。そしてこの石玉垣の外にも一族の墓塔がずらっと並んでました。


ワタクシはウロウロ探すのがはばかられ、結局、見つけられなかったのですが
こちらの撰要寺には高天神城の小笠原一族の五輪塔もあるみたいです。


横須賀城主の菩提寺ですから、もちろん横須賀城とセットでどぞ!




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