武将の銅像と墓参り

武将の銅像と墓参り~武将ゆかりの地巡礼から見える戦国ロマンをご紹介しています

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金剛寺の皆川広照の墓

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栃木県栃木市、皆川城の麓の金剛寺には、皆川広照のお墓があります。

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お墓の由緒などは詳しく分からないんだけど、金剛寺には皆川広照が着用した南蛮鎧兜や
広照の子、隆庸が寄進した薬師如来像などがあって市の文化財となっているとのこと。


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住職さんとかお寺の人がいたら話を聞きたかったんだけど、お彼岸の最中で忙しいのか、
人影はなく・・というより墓地もあるのに墓参りの人すらおらずシーンとしていました。


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本堂の左手に皆川歴代の墓所がありました。案内板には↓なことが書いてあります。

藤原秀郷を祖とする皆川氏は長沼五代を経て、長沼五郎秀宗の時にこの地に移り
その子氏秀に至り皆川姓を名乗り、永享元年(1429)観音山に皆川城を築きました。
皆川広照の代、秀吉の小田原攻めに際し家康のもとに降伏し、旗本として幕府に仕えました。


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ずらーーっと並ぶ皆川氏歴代の墓石が。戦国時代から遺骸は必ず菩提寺である金剛寺に葬られ
一代も欠けることなく現在に至るんだそうですよ。これはなかなかすごいことです。


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入口から見て一番奥にあるのが広照さんのお墓。石の劣化が少なく一番きれい。


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墓石にはもれなく歴代藩主の名札が立っているので非常に分かりやすい。

皆川歴代城主の中で一番名君だったと言われているのがこの広照さん。
信長の野望だと浪人登場で扱いイマイチ悪かったりする場合もあるんだけど、
先見の明があり、乱世を生き抜く嗅覚が冴えてる人だったようです。

広照さんは天正9年(1581)、信長に馬を贈って礼状をもらっていて、
家康もそれを喜んだという記録があるのだとか。武田がようやく滅ぶかって頃に
栃木にいる広照さんが信長に誼を通じておこうとしたって結構すごい。

残念ながら信長は翌年、本能寺の変で死んでしまい、広照さんはその後、
時節の流れで北条方として小田原攻めに参陣するけれど、開城前に城を抜け出し
家康を通じて投降、皆川は安堵されたんだから、はしっこいことこの上ないです。


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広照さんの墓の並びには初祖や初代など始め、皆川の中でもビッグネームがずらり。


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広照さんのお墓からは、在城した皆川城跡がよく見えます。小田原攻めの後、
広照さんは栃木城に移ったけど、やっぱり生まれ育った城ですからね。


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門前でもう1度、皆川城を~別名を「法螺貝城」というだけにマキマキですw



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| 武将の墓 | 12:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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勝願寺の小松姫と仙石秀久の墓

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埼玉県鴻巣市にある勝願寺には小松姫、戦国秀久、真田信重のお墓があります。

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この地に建立されたのは天正年間(1573~1592)。2世住職円誉不残上人は学僧の誉れ高く、
慶長11年(1606)に後陽成天皇から、僧として最高位の紫衣を与えられたそうです。
浄土宗の関東十八檀林の由緒あるお寺で、仁王門もどっしり年季入った堂々たるかまえね。


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徳川家康が鷹狩りの際、この勝願寺を何度も訪れていて、文禄2年(1593)には
不残上人の学識に感銘を受け帰依したそうで、以来、徳川家の庇護をうけました。


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そんなわけで将軍家の定紋である「三つ葉葵」の使用も許されていたそうで、
本堂にかかる幕には、イヤでも目に入るアノ紋所があります。すっごい存在感ですw


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屋根の上にも三つ葉葵。写真には写ってないけど軒下丸瓦ももちろん御紋入り。


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本堂の中もふすまから壁からふんだんに三つ葉葵がちりばめられています。
軒下のちょっとしたところも含めて、「使用を許されてるアピール」すごいですw


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お墓は本堂の左手にありました。向かって左の見えづらい小さいのが仙石秀久さん、
真ん中が真田信重さんとその室の墓、右が真田小松姫のお墓となっております。

最初、案内版がどっちの五輪塔のなのか分かりづらくてまいったね。


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仙石秀久さんは秀吉の最古参の家臣の一人で、もっとも早く大名になった人です。
淡路洲本で5万石>島津相手の九州攻めで大失態を犯し、高野山に追放されますが、
天正18年(1590)小田原征伐に、浪人を集めて家康の後押しを受けつつ陣借りで参戦。
功績を挙げたことにより信州小諸5万石の大名に復活しました。

秀久さんは慶長19年(1614)江戸から小諸への帰路、ここ鴻巣で病没し、
遺名により長野県上田市の本廟から勝願寺に分骨されたそうです。

秀久さんの墓の隣にあるデカい方のが、なんとまさかの真田信重の室の墓w
その奥の控えめなやつが真田信重さんですよ。信重さんは信之の三男。
慶安元年(1648)に鴻巣で病没し、母の小松姫の縁で勝願寺に埋葬されたそうな。


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で、こちら右が小松姫のお墓。真田お兄ちゃん信之の正室で、本多忠勝の娘。
ワタクシはこういう気丈でしっかりした女性が好きなので大大大ファンです。

小松姫は元和6(1620)年、病いの療養のため江戸から草津に向かう途中、
ここ鴻巣で亡くなりました。享年48歳。遺骸は火葬され上田市の芳泉寺に葬られ、
鴻巣の勝願寺、沼田市の正覚寺に分骨されました。

お墓参りの人の目も気にせず、丁重に手を合わせて拝んでおきました。
近いうち上田市の芳泉寺にもお参りに行きたいと思ってマス。


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| 武将の墓 | 16:28 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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善導寺の榊原康政の墓

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群馬県館林市の善導寺には榊原康政のお墓があります。

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善導寺は和銅元年(708)、行基により開山され、赤井氏、由良氏、長尾氏、小田原北条氏など
歴代領主に庇護されながら戦国時代の戦火で建物や寺宝が焼失し、一時衰退していたところ、
天正18年(1590)、館林城主になった榊原康政が再建、諸堂を建立し菩提寺としたお寺です。


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正式には「終南山 見松院 善導寺」。浄土宗の関東十八檀林の由緒あるお寺です。
関東十八檀林というのは、家康が定めた浄土宗の学問所のことなんだって。
家光には朱印地百石、明治天皇から勅願寺の勅命ももらったというからすごい!
なかなか広いお寺で本堂の他に薬師堂、観音堂、不動堂、弁天堂などもあります。


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本堂の左手を進むと墓地があり、墓域手前にある榊原康政の墓所が見えてきます。


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一角には5つのお墓が。写真では見えないけど南直道という人のが最左にあって、
左の大きいのから榊原康政、大須賀忠政、榊原康勝、花房氏と並んでいるようです。
花房氏ってのは、榊原康政の側室で康勝の生母なんだそう。


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榊原康政のお墓は高さ5m46㎝の宝筐印塔。法名「養林院殿前大守職上誉見向大禅定門」。
墓の解体復元に伴う調査で、康政さんたちの火葬された遺骨が確認されたそうです。
お骨の入ってないお墓もたくさんあるから何となく感慨深い。さすがは菩提寺!


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康政さんの墓奥に見える宝筐印塔が南直道さんのお墓。康政さんの側近で殉死した人だそう。

榊原康政は天文17年(1548)、三河国上野郷に生まれ12歳で徳川家康の家臣となりました。
15歳で三河の一向一揆に初陣して功績を挙げ、家康に一字をもらい小平太康政を名乗ります。

以後は姉川合戦、三方ヶ原の合戦、長篠の合戦、小牧長久手の戦いなど主な戦で功績を挙げ、
本多忠勝、井伊直政、酒井忠次と共に徳川四天王に数えられます。小牧長久手の戦いでは、
侮辱的な高札を立てた康政に激怒した秀吉によって10万石の懸賞をかけられますが、
秀吉と家康の和睦後、従五位下式部大輔に叙され、京都への使者を務めました。

天正18年(1590)家康の関東に移封とともに康政は10万石を与えられ上野館林に入ります。
関ヶ原では徳川秀忠軍の軍監として従軍、遅参に激怒した家康に身を賭してとりなしました。
廃嫡の危機を免れた秀忠はたいそう感謝し「榊原家を粗略にしない」と約束したのだとか。

四天王の一人として「向かうところ打ち破らずということなし」と称された康政でしたが、
本多忠勝らと同じく次第に武功派の旧臣は遠ざけられていき、慶長11年(1606)館林で死去。
享年59才。の訃報を聞いた本多忠勝は館林に駆けつけ、亡骸を抱いて号泣したそうな・・


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で、こちらが大須賀忠政さん(手前)と榊原康勝さん(奥)のお墓。五輪塔です。
忠政さんは榊原康政の長男で、横須賀城の大須賀家を継ぐため養子にいった人です。

康勝さんは榊原康政の三男で、二男が夭折したため跡を継いだものの、大坂夏の陣中で病没。
康勝さんには後継ぎがなかったので本来は取り潰しなんだけど、秀忠の「粗略にしない」が
ここで効いたんでしょうね。幕府はなんと大須賀家に養子に行った康勝の兄、忠政の子に
榊原家を継がせます。おかげで榊原家は無事存続。でも大須賀家はこれで断絶だから気の毒だわ~
そんな微妙な関係にある二人のお墓が並んでいると、見てる方がなんか複雑な気持ちね。


德川幕府が出来ていく過程では、邪魔な外様に限らず、三河時代からの譜代だって
言いがかりつけられちゃ容赦なく取り潰されたことを考えると榊原家はミラクル。
子が無くて断絶のところ幕府の配慮で存続したのもすごいけど、もっとすごいのは
実は康勝には子がいたことが後に発覚しても、大した咎めがなかったらしいところ。


榊原家やりますな~


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| 武将の墓 | 20:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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延命寺の里見三代の墓と八遣臣の墓

千葉県館山市の延命寺には里見氏のお墓があります。

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延命寺は永正7年(1510年)、里見家4代の里美実尭が開基した里見家の菩提寺。
曹洞宗の有名な古刹で、多くの雲水僧が修行した禅寺なんだそうです。


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里見といえば滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」が有名。江戸時代のベストセラー。
しかしワタクシちゃんと本を読んだことありません。正直、伝奇ってあんま興味がなく・・
なので戦国武将としての里見さんだわ~と思って墓所のある本堂横へ進んでいきます。


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本堂横には「此奥に里見氏の御墓あり」の石碑が。

里見氏は源氏の流れをくむ新田氏の庶流。里見氏は何代もいるけれど、
侵攻してきた北条氏と何度もやりあった挙句、撃退した義堯さんが印象強いです。


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本堂の後ろにある裏山を登って行くと・・・ありました。里見三代のお墓が。
冬の午後3時頃だったので、日差しの按配が悪くイケてない写真になりました(ノД`;)

6代義堯さんは戦上手で武将としての器量が高い人だったそうで、
北条氏を撤退させたこの頃に里見氏は領地拡大して全盛期を迎えます。

義堯さんの死後、北条討伐への遅参、私闘を禁ずる惣無事令違反により
上総下総を没収されてしまうものの、関ヶ原では東軍について加増され、
一時は関東最大の外様大名になります。が、そういう家を家康が残すはずもなし。

10代忠義さんは伯耆に改易>その地も取り上げられて29才で病死。
里見家は断絶しました。8人の家臣が殉死したそうです。(八遺臣)


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正安三年(1301)記銘がある板石塔婆は県指定文化財。後期里見氏の家祖とされた里見実堯(4代)、
里見の全盛期を築いた義堯(6代)そして義弘(7代)三人の墓所です。

まぁそれにしても行った時間が悪かったので、どんなに立ち位置変えようが、
露出を調整しようが、ワタクシの腕前じゃ写真はどうにもなりませんでしたわ・・。


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こちらの写真は里見氏の居城だった館山城跡にある八遺臣のお墓。

8人の戒名の上下には必ず心・賢の二字が配されているんですって。
だから八賢臣ともよばれ、里見八犬伝のモデルじゃないかとも言われているそう。


延命寺と館山城は遠くないので、里見氏めぐりはセットでどうぞ。


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| 武将の墓 | 20:10 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

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良玄寺にて本多忠勝の墓

千葉県夷隅郡大多喜町新丁にある良玄寺には本多忠勝のお墓があります。

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良玄寺は天正18年(1590)10万石で大多喜に入城した本多忠勝が、菩提所として建立したお寺です。
建立当時は良信寺といったそうですが、関ヶ原合戦の翌年に忠勝は伊勢桑名に移封となり、
次男忠朝が5万石で大多喜城主になるものの、元和元年(1615)忠朝は大阪夏の陣で戦死。
跡を継いだ忠朝の甥にあたる本多政朝が、寺の名を忠朝の法名をとって良玄寺と改めたそうです。


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忠勝といったらコレ! という有名な肖像は良玄寺所蔵なんだそうです。
飾ってるのは本物じゃないけど、伝わってるのは間違いないから気にしない。

絵の正式名称は「紙本著色本多忠勝像」。良玄寺に納められて伝わっているそうです。
とはいえ本物は現在、千葉県立中央博物館大多喜城分館に保管されています。

忠勝は関ヶ原の後、武勇が必要とされなくなっていくことを嘆き、武将たる自分の姿を残そうと
しまっていた甲冑を身に着けて肖像を書かせたそうです。気に入るまで何回も書き直させたとか。
これはそうして出来た納得の1枚ですよw この肖像の甲冑は現在も残っています。

本堂は開いてないんだけど、ガラス戸には親切に覗く用の穴があいてるので、
顔をガッツリつけて堪能し、カメラのレンズも思い切り突っ込んで撮影しましょうw


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良玄寺の右手に進んでお墓に向かう途中に「忠勝公園」があります。
日本庭園チックな一角と、大多喜城が見える物見台と公衆トイレがある公園。
別にこれはいらなくない? と思いましたしw Tadakatsu Park ってのも微妙ね。


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忠勝公園を過ぎると墓域に入り、一番奥に進んだところに忠勝のお墓がありました。
忠勝(中央)・次男忠朝(左)・忠勝夫人(右)と並んでいます。


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忠勝は慶長15年(1610)10月18日、63才で亡くなると桑名の浄土寺に葬られますが、
遺言によって大多喜の良玄寺にも分骨されました。大阪夏の陣で戦死を遂げた忠朝も
大阪一心寺に埋葬して分骨され、この地に眠っています。墓所は町指定文化財です。


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きれいにお手入れされてお供えまであって・・・桑名の浄土寺とは大違い!! 

大多喜城主 本多中務大輔忠勝 慶長十五年十月十八日卒去行年六十三歳 

と後ろに立つ碑には忠勝の法号「長誉良信西岸寺」も一緒に刻まれていました。


忠勝さんは初めて城主になった大多喜に思い入れがあったんでしょうね。
忠勝さんは大多喜城の見える良玄寺で静かに眠っています。念入りに合掌。



良玄寺で忠勝さんのお墓参りをしたら、すぐ近くの行徳橋も絶対行きましょう。
忠勝さんの銅像 魅惑の2ポーズ・・見逃さないようにぜひセットでどうぞ!!



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| 武将の墓 | 20:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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撰要寺にて大須賀康高の墓

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静岡県掛川市の撰要寺には大須賀康高の墓があります。

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横須賀城の近くにある撰要寺。奥に見える山門は横須賀城不明門の移築門です。

撰要寺は天正9年に大須賀康高が岌屋春阿上人を請じて創建した浄土宗のお寺で、
寺領50石を寄進して菩提寺として以降も歴代城主の庇護を受け、
10万石の格式を与えられた遠州一の寺格を持つ歴史あるお寺なんだそうです。


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本堂の左手に大須賀康高と二代忠政のお墓があります。高さ4メートルのデカい宝篋印塔。
向かって右側が康高さんで、左側が二代養子の忠政さん。それにしても目立つお墓です。


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高天神城攻略のため家康の命で横須賀城を築城、城主となった大須賀康高は天正17年死去。享年63歳。
康高の死後、養子の忠政(榊原康政の子で母が康高の娘)が城主を務めますが、家康の関東移封により
上総の久留里へ移ります。しかし元和元年(1616)榊原家に後継ぎがないことから忠政の子、忠次が
榊原家を継ぐことになり、再び後継ぎのなくなった大須賀家は断絶してしまったそうです・・・
何とでもしてやれたろうに、活躍した譜代でも容赦なく取り潰す幕府ってマジえげつないと思うわ。


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大須賀さんのお墓の横を登って墓域の奥に行くと、本多利長一族のお墓もあります。
利長さんは岡崎から5万石で横須賀城に入りますが、悪政を行ったとされて改易されてしまいました。
本当に悪政だったのか、またまた幕府お得意の言いがかりだったのか実際は分からないけどね。


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墓石は利長が横須賀城主だった時に前任地の岡崎城から海路運ばれたものなんだそうですよ。
父・祖父のお墓が一緒に。そしてこの石玉垣の外にも一族の墓塔がずらっと並んでました。


ワタクシはウロウロ探すのがはばかられ、結局、見つけられなかったのですが
こちらの撰要寺には高天神城の小笠原一族の五輪塔もあるみたいです。


横須賀城主の菩提寺ですから、もちろん横須賀城とセットでどぞ!




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| 武将の墓 | 13:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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長慶寺の今川泰範と太原雪斎の墓

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静岡県藤枝市の長慶寺には今川泰範と太原雪斎のお墓があります。

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ナビには出てきたけど、車じゃなきゃとかなり厳しい感じもところにありました。
住宅街ではあるんだけど、電車やバスのアクセスがめちゃ悪そうなんです。


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長慶寺は嘉慶年間(1387~1388)今川氏三代の泰範が開創した由緒ある寺院。
今川泰範は足利義満に仕えて、駿河と遠江の守護職に任ぜられていたそうです。


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駿河今川氏三代 今川泰範菩提寺と書かれています。
ワタクシ的には太原雪斎様の方がむしろ興味なんですがw


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元は真言宗だったけど、太原雪斎が再興した時に臨済宗になったのだとか。
枯山水プラス紅葉で、こじんまりしてるけど素敵なお庭ですよ~


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お庭を眺めながら本堂の左に進むと、藤枝市指定史跡の案内板が見えてきます。
今川泰範の五輪塔と雪斎長老の無縫塔と書かれてますね。要するにお墓ですw


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案内板の奥に墓所があります。左が今川さん、右が雪斎さんのお墓です。


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今川さんは嘉慶2年(1409)76歳で亡くなり、遺骸は長慶寺に葬られたと言われているそうです。
そんなわけで五輪塔が残っているんですね。きれいなお花も活けられ手入れがされています。


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で、こちらが太原雪斎・・雪斎長老の無縫塔。無縫塔というのは僧侶のお墓のことなんですって。
太原雪斎は今川氏の家臣の出で、9才で富士の善得寺に入寺し、その後、今川義元とともに京都に上って
建仁寺や妙心寺で修行を積んだ人。今川義元も出家していて還俗して今川家を継いだんですよね。


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太原雪斎の無縫塔の後ろには小さな五輪塔がたくさん!!

太原雪斎は今川家を継いだ義元の軍師となって多くの戦に出陣しただけではなく、
外交にも秀で、人質時代の家康に兵法や帝王学の教育を行ったとも言われています。

諸説あるかと思うけど、まぁでもすごい人だよね。信長の野望で交渉に来られたわw

ちなみに今川義元が桶狭間で敗れた時、太原雪斎はすでにあの世の人でした。
雪斎さんがいたら、歴史変わっていたんですかね・・イフは禁止でも興味わきますw


長慶寺・・アクセスよくないのでセットでおすすめするところが近くにないの。
ワタクシは武田流築城術の残る諏訪原城の帰りに寄った感じで。


でわまたね!



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| 武将の墓 | 15:35 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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誓願寺の片桐且元の墓

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静岡県丸子市の誓願寺には片桐且元夫妻のお墓があります。

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丸子城跡のすぐ横、とろろ汁で有名な「丁子屋」のすぐ近くです。
行くまでの道が細いけど、広い駐車場が完備で墓参り&城めぐりにおっけw


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山門をくぐると長い参道が続き、山を背に立つ本堂はちょっと日本昔話風の佇まいです。
駐車場も参道もどこもかしこも綺麗に手入れされた気持ちのよい境内でした。


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まだ3時くらいなんだけど秋の夕暮れは早く、誰もいないから非常にひっそりしてます。
お寺の創建は古く、建久年間(1190~1199)に源頼朝の両親追善のために建てられて、
天文年間に丸子城の戦火で類焼したのを惜しんだ武田信玄が再建したんだそうですよ。


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本堂の左手の方に進むと「片桐且元公の墓」と書かれた案内があります。
この後、本来の目的である丸子城跡に登らなきゃいけないのでさっさと行きましょう。


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案内板がところどころに出てるので迷うことはありません。4つぐらいあったかな?


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墓域の割りと奥まったところにありました。片桐且元夫妻のお墓。
子孫の片桐貞昌という人が建てたものらしいです。


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水平じゃなくてね、灯籠も石段も年季が入った感じになってます。
お花がないだけじゃなく、あまりお手入れされていないようでなんだかさみしげ。


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方広寺の鐘銘「国家安康君臣豊楽」は家康の名前を分断し、
豊臣の子孫繁栄を望む意味だと徳川方が難癖をつけたあの事件。

片桐さんは大阪の陣のきっかけになったこの「国家安康」の文字について、
駿府城の徳川家康に申し開きするため、この寺に滞在したそうです。


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片桐さんは海千山千の金地院崇伝や本多正純相手にすっごい頑張ったんだと思うよ。
それなのに豊臣方に裏切りモノ呼ばわりされて大阪城から追放されちゃってね・・

片桐さんが追放された翌年の大坂夏の陣で豊臣家は滅びてしまいました。
そして大阪落城から20日後、後を追うように片桐さんも病死したそうな。

自害じゃないのかな?とも少々思ったりしないでもないけど、
そんなにがっちり食いつくところじゃないからまぁいいかw


お寺のすぐ前は丸子城跡、すぐ近くにはとろろの丁子屋。
お腹空いてなくて行けなかったけど、とろろ飯食いたかったわ~




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| 武将の墓 | 21:16 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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建福寺の由布姫の墓

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長野県伊那市の建福寺には、信玄の側室となって武田勝頼を生んだ由布姫のお墓があります。

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建福寺は高遠城からほど近いところにあります。駐車場ないので近くの商店街のを利用。
商店街からエッチラオッチラ階段上っていくと、山門が見えてきます。


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立派な本堂。鎌倉時代からあるお寺で武田勝頼や保科正之など
高遠城主との関わりが深く古文書なんかもたくさん持っているのだそう。


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本堂の左手にある墓域の最前に、由布姫 with 保科正光・正直のお墓があります。

由布姫は諏訪頼重の息女で、天文11年(1542)に諏訪家が武田信玄に滅ぼされた時、
側室となって甲府に移り、勝頼を生みました。体があまり強い性質ではなかったらしく、
勝頼が10歳の時に病没。勝頼が城主であった高遠の建福寺に葬られたそうです。


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3つのお墓が並んでいまして・・向かって左から保科正光、正直、そして由布姫です。
・・・てか保科正光と正直って誰? 保科正之ならともかく超~違和感ある並びだわ。


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謎の保科さん2名の墓はおいておき、左側の由布姫の墓にフォーカスしますw

父を殺した敵の側室となった由布姫は、諏訪氏再興を願って勝頼を産みます。

信玄は諏訪衆を取り込むため、勝頼を武田の後継ぎに指名せず、
「諏訪四郎勝頼」と名乗らせて高遠城主としました。勝頼は由布姫がなくなると供養に努め、
元亀2年11月に大龍山臨済寺の鉄山和尚を招来して17回忌を高遠城で執り行ったそうです。


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敵の側室となって子を産み、その子、勝頼が成人する前に亡くなった由布姫。
信玄はとても大事にしたというけど、由布姫はどんな思いだったんでしょうね。
戦国の世の女はこんなものと割り切ってそれなりに幸せな短い人生を過ごせたのか、
イヤだイヤだありえない・・と思って世をはかなんだ末に短い人生を終えたのか・・・


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法名を乾福寺殿梅岩妙香大禅尼。甲府では諏訪御料人と呼ばれていました。
諏訪家を滅ぼし由布姫を側室にして子を産ませた信玄でしたが、武田家が滅亡した時の当主は
信玄が後継ぎに指名しなかった諏訪家の血を引く勝頼でした。まぁ結果論ですけどね。


由布姫の墓はきちんとお花が活けられ、丁寧に扱われているのがよかったわ。
由緒あるお寺にある有名武将の墓でも、ろくに手入れされていないのとかもあり、
そういうの見ると何だか物悲しい気持ちになるものでね・・・年かなwww



建福寺は高遠城のすぐ近く。五郎山には仁科盛信の銅像もあります。ぜひ全部セットで!



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| 武将の墓 | 21:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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長岳寺の信玄と馬場美濃守の墓

[武田信玄] ブログ村キーワード

長野県下伊那郡阿智村駒場の長岳寺には武田信玄と馬場美濃守のお墓があります。


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信玄のお墓は以前、ご紹介した愛知県設楽の福田寺甲府の信玄公墓所とか
有名な恵林寺の他にも色々あるのですが、今回はリアリティある駒場の長岳寺でのお墓まいりです。


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こちら長岳寺は信玄を火葬にしたお寺なんだそうです。
甲府の信玄公墓所も火葬塚と言われていて「どゆこと?」と思いますけど、
野田城攻略中に病に倒れた信玄は甲府に戻る途中、駒場で亡くなったと言われます。

信玄は自分の死を「3年の間は秘密にせよ」としたそうだから、
実際にどの地点で亡くなり、遺骸や葬儀はどうだったのかハッキリしてません。
でも駒場で急逝したというのが定説のようなので、そういう意味でここはリアルよ。


P1080066 (3)

信玄のお墓は本堂から右手に回ったところにありました。

野田城攻略中に肺の病が重くなった信玄は、甲府へ戻る途中、駒場の山中で死去したため、
この地を守っていた馬場美濃守と図り、信玄公の死を秘めて身代わりを甲州に送り火葬にした

といった説明が書かれていました。


P1080069.jpg

お墓の下の部分には「武田信玄公供養塔」という文字が刻まれています。
この塔は四百年祭りに火葬塚より灰を移し、供養塔としたものなんだそうです。

駒場で亡くなって「火葬された」っていうのが多分アリなんだと思いますよ。
でも「諏訪湖に沈められた」ってのも大物ならではでロマンがあっていいけどねw


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で、ここでもやはり「信玄のあるところ美濃守あり!」ってな感じで、
設楽町の福田寺と同じく馬場美濃守信房のお墓・・というか供養塔もありました。

ちなみに馬場さんのお墓は長篠城近くにもあります。


P1080092.jpg

2つのお墓の位置関係はこんな感じで。信玄のお墓の右手に馬場美濃守の五輪塔があります。


このお寺には信玄の遺品があり、拝観料を払うと見られるとのことだったのですが、
ワタクシが訪問した時、住職さんがちょうど階段を下りてお出かけするところでした...orz
本堂横のお住まいらしき建物に声をかけてみたのですが、どなたもいないみたいで残念~


どっかの登城のついでに通りかかるような場所ではないんだけど、
もし機会があればぜひ、遺品を見に再訪問してみたいと思っています。




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| 武将の墓 | 19:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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正覚寺の小松姫の墓

[本多忠勝] ブログ村キーワード

沼田市の正覚寺には真田信之の夫人、小松姫の墓があります。

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立派な山門は万延元(1860)年建造、欅素木造り。周りは住宅街なのでめっちゃ目立ちます。

小松姫は本多忠勝の娘で、稲ともよばれたようです。ゲームで稲姫として登場しますね。
徳川家康の養子となり、天正17年(1589)に真田信之のもとへ嫁ぎました。
慶長5年(1600)の関ヶ原では東軍とし家康方につきました。


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小松姫のお墓は山門から奥に進んだ、墓地の左奥の方になります。
ワタクシ若干、うろつきましたが。墓地の中のお堂を目指すと分かりやすいです。


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しっかりものの・・いやものすご~く気の強そうな小松姫のお墓です。

敵味方に別れた信之の父、真田昌幸が「孫の顔が見たい」と沼田に立ち寄っても
自ら武装して「城には入れぬ」と追い返したエピソードが有名。

でも翌日、小松姫は子供を連れて昌幸の宿泊した寺を訪ねて対面させてやったり、
また関ヶ原の後、九度山に蟄居した昌幸・幸村に仕送りを続けたりもしたらしいから
気が強い反面、情に厚い心の豊かな女性だったのだろうとも思います。

さすが忠勝の娘! ワタクシこういう強い女性は大好きよ。
おまけに小松姫、容姿端麗だったというからパーフェクトだわw


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信之は徳川についたことで沼田3万石を加増され、上田沼田合わせて10万石となりますが、
上田は破却を命じられ、沼田城主を本拠としました。子孫は松代に移封し幕末を迎えます。

小松姫は内助の功で真田家を支えますが、元和6(1620)年に病いの療養のため
江戸から草津に来る途中、埼玉県の鴻巣で亡くなりました。享年48歳。

信之は「わが家の燈火が消えたり」といって悲しんだそうです。

小松姫の遺骸は火葬され、巣鴨勝願寺、沼田正覚寺、上田芳泉寺に分骨されました。

大蓮院殿英誉皓月大禅定尼 案内版には「大連院殿の墓」と書かれています。



正覚寺の近くには沼田城もあります。もうちょいいくと名胡桃城もあります。
真田太平記の世界を味わう際はぜひ、こちらの正覚寺にもお参りしてください!


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| 武将の墓 | 12:30 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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来迎寺にて長野業政の墓参り

[武将] ブログ村キーワード

群馬県高崎市の来迎寺には長野氏累代の墓があります。

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奥まったところにあるので通り過ぎて戻ってきました。長野氏のお墓もこれで3エントリー。

長野業政(と他5代)のお墓がある長年寺(ここが一番ホントのお墓)

長野業政の供養塔がある長純寺(箕輪城に一番近い)

そしてここ来迎時は「長野氏累代」てことで正直、誰かはわかりませんが(!)
他の2つのお寺から遠くないので帰りに寄ってみた次第。墓所は本堂の左手にあります。


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墓所の入口にある案内版によると・・・

長野氏が武田信玄に攻められて滅亡して後、周囲の畑の中に崩れ落ち
埋没していたものもあったが、大正12年の墓地整備の際に子孫の人に発掘され、
現在の場所に安置したものである。五輪塔・宝篋印塔合わせて30数基が並んでいる。

だそうです。業政さんとか業盛さんとかモロ「長野氏」じゃなくて
女子供から分家から何やら・・箕輪にいた長野さんたちなのかもしれないねw


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箕輪城主長野氏始め武士の墓 と書かれた卒塔婆じゃないけど、そんなのが建ってます。
苔むした五輪塔の中には年号が刻まれたものもあり、古いのは間違いないようです。


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散々あちこち回った最後に寄り道したので、すっかり秋の夕暮れ・・

やっぱ長野業政のお墓は長年寺が一番 雰囲気あってよいです。




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| 武将の墓 | 12:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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長純寺の長野業政の供養塔

[武将] ブログ村キーワード

群馬県高崎市箕輪町にある長純寺には、長野業政の供養塔があります。

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長野業政のお墓や供養塔は長年寺、来迎寺、そしてここ長純寺にありますが、
ここ長純寺が一番、箕輪城には近いです。が、墓ではなく供養塔だというw


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山門をくぐって本堂を正面に見て左に向かうと、こんな案内版が見えてきます。
案内版では「墓所」となってますね。でもあるのは供養塔です。


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また案内板が出てきました。いったいどこまで行けばいいんだ?


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えーーー!!どんだけ奥というか上にあるのよ。ちょいと心細くなってきます。


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それらしいところに着いたけど、まだ先があるようです。じらしプレイですね。
変な虫が飛び交う木々のトンネルの中を歩いて、供養塔に向かいます。


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うわ、暗っ!! 夏はヤブ蚊が多そうで来るのにとても勇気がいる場所ですね。

業政公は長野氏60年間の箕輪城主の中でも最も智・仁・勇を兼ね備えた
名将の誉れ高い城主であり、武田信玄の数度にわたる猛攻にも屈せず、
長野氏の全盛期を築き上げた武将である・・・ということが案内版に書かれてます。


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地味なローカル戦だけど、何がなんでも上野がほしいしつこい武田信玄と
どんな手を使っても撃退したい長野業政の攻防はちょっとすごい。6度もだからね。


業政の死後、嫡男・業盛の奮闘むなしく、箕輪城は陥落します。

武田・北条・滝川と支配が変わる中、長年寺や来迎寺などとともにお墓や供養塔が
きちんと残っているというのは、地元の人に愛されていたからだと思います。


これらのお寺+箕輪城は全部ちょいと回れる距離にあるのでぜひセットでどうぞ!

次回はラスト長野一族のお墓がある来迎寺を紹介します。


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| 武将の墓 | 20:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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長年寺の長野業政の墓

[武将] ブログ村キーワード

群馬県高崎市の長年寺には、長野業政ら長野氏の墓があります。

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長野氏の菩提寺です。開基は鷹留城の初代城主長野尚業。創建は文亀元年(1501)古いお寺です。


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お墓の場所が分からずウロウロしていたらお坊さんが出てきたので思い切ってお尋ね。
「長野様のお墓は本堂を上がって左手に行くとありますよ」と素敵なバリトンで教えてくれましたw


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お坊さんのおっしゃるとおり、本堂の左手に案内版が出ていました。
お寺の裏は戦国の当時、箕輪城防衛の重要拠点である鷹留城があったそうです。


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小道を進んでいくと、何やらすごいような雰囲気が漂ってきました。密集度高っ!!


長年寺

初代長野業尚から左右に3基づつ七代の五輪塔が並んでいるようです。
墓石の最下段である方形石の地輪正面に、それぞれ戒名が刻まれている・・と。


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長野氏は関東管領山内上杉氏に属する箕輪の豪族で、
周囲の豪族をまとめており、その集団は箕輪衆と呼ばれていました。

上杉氏が北条氏康による川越野戦で大敗し、上野を追われた後も北条氏に従わず、
関東管領職と山内上杉氏の家督を継いだ長尾景虎(上杉謙信)に従って北条氏と戦います。

上野には武田信玄も侵攻を開始しますが、箕輪衆は6度にわたってこれを退けました。
信玄は「業政ひとりがいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と言ったそうな。


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その業政さんの五輪塔(右から2番目)に刻まれた戒名がこれ。「一清長純居士」 
死に際、業政さんは嫡男、業盛さんにこんな遺言を残しています。


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我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。
弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。
力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし。

業政の死を知った信玄は「上野を手に入れたも同然」とすぐ箕輪城に兵を出します。
業政の嫡男、業盛は1500の城兵で武田軍2万を迎え撃ち、力の限り奮戦しますが、
上杉の援軍も間に合わず、城内で自刃。箕輪城は陥落しました。


大国にはさまれ、他にもっと生きる道があってもそれを良しとせず、
俺流を貫いた業政さん、滅亡しても「我が人生に悔いなし」なんですかね。
不器用で下手な乱世の生き方だろうけど、ワタクシは業政さん案外好きですw


近くの長純寺、来迎寺にも長野氏の墓所があります。(次回エントリー予定)
箕輪城の見事な土塁もぜひセットで見てほしいです。



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| 武将の墓 | 00:52 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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崇福寺の織田信雄七代の墓

[武将の墓] ブログ村キーワード


群馬県の甘楽郡小幡の崇福寺には、織田信雄から七代のお墓があります。

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小幡陣屋(楽山園)の通りを道沿いに進むと、「織田宗家七代の墓」という看板が出てきます。
そこを左にはいって車を停め、つきあたりを右に進むと墓所の案内版が見えてきます。


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甘楽町の指定文化財になっている織田家七代の墓。七代というのは織田信長の次男、信雄から
信良、信昌、信久、信就、信右、信富までのこと。信雄以外の人は良く知りませんがお参りですw


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元和元年(1615)、織田信雄は大和と上野合わせて5万石の領主となり、子の信良が小幡に入封して
織田藩政が始まりました。当初、菩提寺は宝積寺でしたが4代信久の時、ここ崇福寺に移されたそう。


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五輪塔が並ぶお墓の中、信雄さんのお墓は向かって一番右にあります。

信雄さんと言えば、信長の息子3人の中で一番出来が悪いと言われていて、本能寺の変後には、
血迷って安土城に放火したと言われてしまっている人物。清州会議で織田重臣の誰も味方なかったし、
小牧長久手の戦いでも後ろ盾だった家康を放って、勝手に秀吉と和睦してしまったり、その後も
秀吉の口車に乗って弟である信長の三男、信考も自害に追い込んでしまったと言われている
暗愚で残念なイメージの人です。ワタクシも信長の野望であてにしたことはありません(´Д`)


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墓地の先に進んで崇福寺の境内に入るとすぐ位牌堂があります。写真手前は本堂。

悪い言われようがあまりにかわいそうすぎる信雄さんですが(ワタクシもゲームで全く信頼してないけど)、
織田家中でも常に「三介殿(信雄)のなさることよ・・」と呆れられていたのは事実の様子。
ワタクシは安土城に放火というのは、いくらなんでも・・とひそかに思ってはいるんだけど、
そういうことにされても不思議ではないおバカさんぶりを発揮してたのは間違いないんだと思います。


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位牌堂がこちら。案内板には信雄が小幡を支配するにいたった経緯や、152年間この地を統治したこと、
昭和61年に建設され、歴史的に価値の高い位牌を安置保存している・・と言ったことが書かれてます。


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宗家初代である信雄さんの位牌は真ん中かと思いきや、なんと右から2番目のやつなんですね~

残念なイメージの信雄さん最大の功績は、織田信長直系の血を後世に残したことと言われています。
信長の三男で信雄さんの弟、信考さんは子供作る前に自害させられちゃってるし、信長の嫡男、
信忠の子、三法師・・秀信はたしか子孫は残したと思うけど・・この人って何だかよくわからない。
ワタクシは何百年も後の子孫には何の感慨も覚えないので、どうでもいいっちゃいいんですけどw


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信雄さんのお墓は安土城にもありましたけど、そういえばやっぱ代々引き連れてたねwwww


近くには小幡城(小幡陣屋)跡や、信雄さんが作った大名庭園 楽山園もあります。


庭園は素晴らしいのでこれはぜひセットでw




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| 武将の墓 | 16:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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守綱寺と随應院の渡辺守綱の墓

[渡辺守綱] ブログ村キーワード

愛知県豊田市の守綱寺には渡辺守綱のお墓があります。

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豊田市内ということで国道323号線を走って、走って、橋を渡って・・けっこう走るなΣ(゚Д゚)!
左手に「真宗大谷派・守綱寺」という看板が見えたら曲がって住宅街を進むとお寺がありました。


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渡辺家の菩提所である守綱寺。入って右側の駐車場に車を停めて歩き出すと、
山門に行く手前の植え込みのところに碑が建っていました。


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山門をくぐると本堂があり、中からお経の声が聞こえてきます。渡辺さんのお墓はこの裏手。
ちなみにこの本堂は伏見城の軍議評定所を拝領して移築したと言われているそうです。


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夏の夕暮れなのでヤブ蚊がハンパないですが、薄暗い本堂の裏手の墓所でしばらく頑張ねば。

渡辺守綱は「槍半蔵」と呼ばれた槍の名手で戦上手、徳川十六将の1人に数えられる武将です。
先祖は源頼光四天王の一人・渡辺綱だというから、肝っ玉の太さは筋金入りと思われますw


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墓所の入口には石塔配置図がありました。親切なお寺ですよ。

守綱は御三家設置の時、尾張徳川家の軍事担当として尾張藩家老となり寺部を領しました。
元和6年(1620)に没した際、守綱の子である2代重綱が墓を作ってお堂を建て菩提を弔い、
寛永16年(1639)3代治綱が渡辺山守綱寺として渡辺家の菩提寺としたそうです。


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石灯籠の並ぶ通路を抜けて墓所の入口に来ました。正面に見えているのが守綱さんのお墓。


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守綱さんのお墓を中心に整然と並ぶ渡辺家代々のお墓。
お寺の手入れが行き届いてるわね。忠勝さんが眠る浄土寺とは大違い!


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守綱さんのお墓にお参りします。法名「守綱院殿心空釈道喜居士」。

主たる戦に出陣して何度も功を上げ、徳川十六将にも数えられた守綱さんだけど、
最終は1万石で尾張義直の家老。譜代の人生も色々だな~と思います。

ただワタクシのイメージだと守綱さん、槍一筋だけに器用じゃなさそうだから、
家康は武があって実直ってところを見込んで義直を任せたのかなとも思ったり。


と守綱寺はここまでなんだけど、今回は特別バージョンちょいと長いよw


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翌日は足助城に行くので豊田市内に泊まったんだけど、飲みながらアレコレ見ていたら
守綱寺の近くにもう1つ渡辺家墓所があることが分かり、翌朝、行きがけの駄賃で寄ってみた。
で、行ってみたらホントに守綱寺の目と鼻の先にありました。こちらは随應院というお寺。


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蓮のお寺としてとっても有名だそうです。ネットで蓮の花だらけの素敵な写真を見て、
夏だしあわよくば・・と思ったけど、こちらの蓮は全部咲き終わった後でした・・・


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気を取り直して山門を入り本堂に向かいます。「随應院 渡辺家墓所」の碑があります。
渡辺家墓所といっても、こちら随應院は守綱から治綱3代までの夫人が眠るお墓です。


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本堂の周りも蓮は終わった後・・でも植物の手入れが行き届いたお寺です。
渡辺家の墓所は本堂の裏手らしいので、通路に沿って歩きます。


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ありました。たぶん住職の奥さんがちょうど墓所内をお掃除しているとこだったけど、
挨拶したら「どうぞ~」そして「本堂も開いてるから入って見て行ってください」と。


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ちなみにこちら随應院での配置はこのようになってます。正面が渡辺家のご婦人方。
左手の方は鈴木下野守重明とか鈴木日向守重教の供養塔で、右手の方は・・・よう分からん。


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鈴木下野守重明、鈴木日向守重教ってワタクシ不勉強であんまり知らないんだけど、
寺部城主で今川方から織田方に寝返り、当時は松平元康と名乗っていた家康に攻められ落城し、
以降、かくかくしかじかあって、討ち死にしてしまった方のようです。
渡辺家の前に支配していた所縁の地なので一緒に供養塔が建てられたのかしらね。


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右から渡辺守綱の夫人、2代重綱夫人、3代治綱夫人 一番左の小さいのは2代重綱の娘みたい。
4代以降の夫人は守綱寺の方に葬られているようです。


夫人の墓はおまけだけど、守綱寺と随應院は近いので見る場合はセットでね。
随應院はできれば蓮の時期に行くと良いと思われます。




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| 武将の墓 | 11:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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福田寺の武田信玄と馬場信房の墓

[武田信玄] ブログ村キーワード

愛知県北設楽郡設楽町の福田寺には武田信玄公塚と馬場信房の供養塔があります。

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福田寺は少々分かりづらかったです。車の場合は設楽町役場に車を停めて区役所並び沿いを歩くと
住宅の間に挟まれるように入口だけ出現。入口自体も少し奥まっているので見逃さないで。


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入口から山門までけっこうあるのよ。住宅の間を抜けて階段を上り、山門まで行きます。
福田寺は臨済宗妙心寺の末寺で応永9(1402)年の開山と伝えられているなかなか古いお寺です。


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本堂です。本堂の左手にある池のほとりに信玄塚と信房の供養塔があります。

天正元(1573)年武田信玄が野田城攻略中に病に冒され、本国に引き上げる途中、
この寺で療養したと伝えられているそうです。


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木々に囲まれた池のほとり、石の見えるところがお二方の塚です。


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近づいてみます・・・向かって左の高い方が信玄の塚、一段低い右側が信房の供養塔です。


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天正元年6月26日甲州太守武田大膳大夫信玄法性院殿機山玄公大居士当所尊体を埋む、と書かれてます。
梨県甲府市には信玄の遺体を荼毘に附したという信玄火葬塚なる墓がありましたが、
信玄クラスのビッグネームになると、やっぱりあっちこっちに墓やら塚やら供養塔やらがありますねw


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武田信玄は野田城で病に伏した後、甲斐への帰国途中に駒場で他界したとされていますが、
実際に死去した場所がどこだったのかハッキリしたことは分かっていません。
ここ福田寺の信玄塚は小さな石塔でお墓ではなく供養塔の類なんだと思うけど雰囲気があります。


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数いる武田家臣の中で馬場美濃守信房がお屋形様の塚のとなりに・・信頼関係がうかがえます。
馬場さんのお墓は長篠城の近くにもあります。長野県の駒場にもあるそうなのでそちらも行ってみたいわ。

ワタクシ馬場さんみたいな武将は大好物w 供養塔ではありますが心をこめて合掌・・・です。




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| 武将の墓 | 15:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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筒井順慶歴史公園の順慶の墓

[筒井順慶] ブログ村キーワード

奈良県大和郡山市の筒井順慶歴史公園には、筒井順慶の墓があります。

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住宅街の中にひっそりと区画があります。それと思って探してないと見逃すかもしれません。
ワタクシはナビで近くまで行けたものの核心にせまれずウロウロした挙句、たどり着きましたw
駐車場はないので路駐です。少し離れても広いところに停めましょう。見学時間はかかりません。


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入口入った正面に案内版が。地味でひっそりしてますが、国の指定文化財ですよ!
順慶さんは天正12年に郡山城中で亡くなり、奈良の円証寺に葬られましたが後に改葬し、
この地に埋葬されたそうです。1944年(昭和19年)重要文化財に指定されました。


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山崎の合戦で明智光秀が加勢を求めたものの、兵を動かさなかった順慶は日和見で
有利な方につこうとしたと伝えられ、「洞ヶ峠」なんて良くないイメージに言われてるけど、
本当は洞ヶ峠にいたのが光秀で、順慶は大和郡山城で軍議をしていたとかで城にいたようです。

戦国史全般でもスポットは当たりづらいし、信長の野望とかでもあんまパッとしないけど
大和でしぶとく生き抜いたのはミスター下剋上の松永久秀ではなく、筒井さんなんだよね。

おまけに家臣にはあの「島左近」もいました。島左近は順慶の死後、士官の誘いを断りつづけ
三成に仕えるまでずっと浪人していた武将。そういう意味でも筒井さんすみに置けない人よ。

18歳の時に興福寺で得度した筒井さんは、出陣する時も常に頭巾をかぶり、
金襴の守り袋をかけていたそうな。能や和歌、茶の湯にも明るいインテリでもありました。


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五輪塔覆堂は天正12-13(1584-1585)年頃の建築で、桁行や梁間は一間、本瓦葺。
五輪塔は中にあるので見えません。法要とかそういう時だけ開かれるみたいですね。


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筒井順慶歴史公園はこんな感じ。周りは住宅街、目の前は一般の墓地。普通すぎて見逃すw
大々的に看板とかあるわけじゃないのでGooglemapに登録してナビにするといいです。


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| 武将の墓 | 00:31 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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浄土寺の本多忠勝の墓

[本多忠勝] ブログ村キーワード

三重県桑名市の浄土寺には本多忠勝の墓があります。

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桑名城からもほど近い浄土寺。本多忠勝が葬られ、菩提寺でもあったお寺です。
2013年8月の訪問時、本堂建て替え工事中であまりに寺らしくなさすぎて通り過ぎましたw
本当は奥に本堂があって、この碑の手前にお寺の門があったんですよね、以前見た写真では。
1049年創建の古刹なんですが、建て替え前も古刹っぽい雰囲気ではなかったです。


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堂々たる碑が建っているのですが、忠勝の墓がどこだかの案内とかは全くありません。

幽霊アメ・・アメを買いに来る女がいるけど様子がおかしいのでアメ屋の主が後をつけると
墓で消え、赤ん坊の泣き声がするので墓を掘り返したら死んだ女に抱かれた赤ん坊がいて。
で、女性を手厚く葬って赤ん坊を育て、幽霊が買いに来たアメとして店は繁盛した。

そういう昔話? はここのお寺の話らしいです。その説明は書かれていますw


P1070032.jpg

で、ただでさえ場所が分からないのに、工事中で立ち入り禁止エリアもあるので、
非常にウロウロしてしまいました。お盆でお墓詣りに来た人に聞いてようやく発見。

本堂があろうがなかろうがお墓の位置は変わらないと思われるので書いておくと、
お寺に向かって左手奥の方にあります。一般の方のお墓がそっちの方にあってその中の一角にある。

分かんなかったら緑の屋根のお家を目指してそっちの方に墓の中を歩いていくのが正解ぽい。
寺なのに忠勝のお墓の前には鳥居が立ってるので、それを目指してもいいと思う。

本堂がなかったら見つけやすい。本堂ができあがったらとにかく墓地を目指す・・これで。


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本多忠勝は桑名城の銅像のところでも書いたけど、大小五十余度の戦いで
一度も傷を負わなかったといい、徳川四天王として
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と謡われた名将。

関ヶ原の合戦の後、桑名城主となり、慶長15年10月18日、63歳で死去。

法号は長誉良信西岸寺。菩提寺であったここ浄土寺に火葬されたそうです。

忠勝のお墓は他に、元いた大多喜の良玄寺に分骨もされているので、こちらも近く行くつもり。
高野山の奥ノ院はすでにお参り済みだけど、こちらはたぶんお骨はなし。


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本多家の家紋「立ち葵」が刻まれています。
供えられたお花がカッピカピなのがちょっと許せなかったり・・ヽ(`Д´)ノ
大好きな大好きな武将なので、いつもより念入りにお参りしておきました。


桑名城に訪れた際はぜひ浄土寺もセットで。ちなみに駐車場はありますw



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| 武将の墓 | 00:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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昌福寺の上杉房憲・憲盛の墓

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埼玉県深谷市の昌福寺には上杉房憲と憲盛の墓があります。

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人見山昌福寺は上杉右馬助房憲が古河公方に備えて深谷城に移った時、父祖の冥福を祈るために創建、
慶安4年(1648)には寺領20石を拝領した名刹と言われるお寺なんだそうです。深谷市内にあります。

扇谷上杉家とか、山内上杉家とかよく出てくるけど、こちら深谷の上杉憲房さんは
山内上杉家の庶流で14代関東管領上杉憲実の孫にあたる人です。


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でこちらが本堂。本堂内には釈迦三尊像・千手観音像・開山禅師などがあるそうです。
裏に室町時代と推定される禅宗庭園があって、特別の時だけ見せてもらえるのだとか。


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本堂の左奥を入っていくとすぐ、上杉房憲のお墓が見つかります。
立てた時期とか誰がとか説明がなく調べてもよく分からないのですが、なかなか立派な佇まい。


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累代の墓ということで憲房だけでなく、何代か血筋の人のお墓も並んでいるようなのですが、
昌福寺自体の説明には「房憲と憲盛の墓」としか書いてなく案内板もないのでよくわかりません。
房憲は室町の頃の深谷上杉氏初代。憲盛は川越野戦の後、北条に乗り換えた時の城主です。

市の文化財なので案内板詳しく書いてもらえるとありがたいですね。


深谷城や深谷上杉氏の詳細はLove城!の方でご紹介しています。




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| 武将の墓 | 11:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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大和郡山市の豊臣秀長の墓

[豊臣秀長] ブログ村キーワード


奈良県大和郡山市には豊臣秀長のお墓、大納言塚があります。

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住宅街の中にあり、駐車場はありません。通り沿いに業務用スーパーがあるので
そちらの駐車場に停めさせてもらい、帰りにジュースとおやつを買って感謝の意をw
その業務用スーパーから歩いて3分くらい。住宅街の中の月極め駐車場の奥にひっそりあります。


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ちゃんとしてます。お寺とかの中にあるわけじゃなく「大納言塚」として存在するんだけど、
ものすごいちゃんと整備されている感じです。敷地内から五輪塔のある中に門をくぐって入ります。


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安永6年(1777)に五輸塔が建てられ、昭和50年、市指定文化財になったそうです。

天正13年(1585)豊臣秀長は大和郡山100万石の城主となりますが、51 歳で他界しました。
秀吉が大光院を建立しますが、元和元年(1615)の豊臣家滅亡後、大光院は藤堂高虎の手により、
京都大徳寺の塔頭として移築され、秀長の位牌は東光寺(現・春岳院)に託されますが墓地が荒廃し、
その後、春岳院の僧・栄隆らによってこの地に五輪塔が建立されたそうです。(案内板より抜粋)


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これが秀長さんの五輪塔・・写真撮ろうとしたら後ろの木陰に笑顔認証が反応。
誰もいないのに笑顔とか検出するの、怖いからマジやめてほしいんだけど・・

秀長さんは秀吉の異父弟。とても有能だったようで、秀吉はもちろん諸大名からの信頼も
とても厚い武将だったそうです。秀長さんが長生きして秀吉死後も存命していたら、
家康のやり方も、そして豊臣家の有り方もきっと変わっていたんだろうと思います。


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大納言塚の入り口には「お願いの砂」というものがありまして。

秀長様は優しく賢く、とても立派なお殿様で学問の智将とも呼ばれています。
お参りしたお礼を申し上げた後、「自分の名前」と「願い事」を言いながら、
3回または7回、門前の石の箱へお砂を通すときっと願いを聞いてくださいます。

ということらしいです。


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門の前にこんなのがあるわけ。せっかくだからもちろんやるでしょw


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↑の写真のところに「お願いの砂箱」と書かれた蓋が。
穴に通す砂がしまわれているみたい。ここから砂を出して穴を通すわけだ。


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人が誰もいないので若干、大きい声で名前と願い事をリアルにぶつぶつ言いながら
砂を通すこと7回・・念入りにΣ(゚Д゚)! 「埼玉から」来ましたとも付け足しておくw


大和郡山城からすぐ近くなので、登城の際はぜひ、こちらにもお立ち寄りください。



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| 武将の墓 | 19:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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達磨寺の松永久秀の墓

[松永久秀] ブログ村キーワード

奈良県北葛城郡の達磨寺には松永久秀の墓があります。

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正式名は片岡山達磨寺。臨済宗南禅寺派の寺院だそうです。聖徳太子が達磨像を刻み、
安置したことに始まると伝わっているそうです。本堂は2002年に建て替えられたものだそうです。
お寺の案内板を見ると重要文化財になっている千手観世音菩薩像、聖徳太子像、達磨大師像などがあるらしく、
拝観料100円を払うと本堂の中でそれが拝めるようなのですが、ワタクシ今回それに用はないので割愛w


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で、松永さんの墓はどこだ!?とキョロキョロすると、本堂の左手の方に絶対それだってのを発見!
さて、ここでクイズです。3つならんで墓石がありますが、どれが松永さんのお墓でしょう?

・・・答えは一番右はしのこじんま~りしたやつ(´Д`) 

片岡八郎公十七代、片岡春利二十七代というお墓の方がドーンとしていて、豪快オヤジ松永久秀は地味。
そうなると「片岡なにがしって・・いったい誰?」と不勉強なワタクシは思うわけで。

以下、現地案内板を抜粋してみます。

片岡八郎利一は王寺の人で、南北朝の頃、鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇の皇子、
大塔宮護良親王の重要な家来だったそうです。京都で幕府軍と戦いますが戦況は不利となり、
矢田彦七(誰?)と紀州熊野に逃れようとした途中、玉置荘司盛高(誰?)が待ち構えていて、
宮に協力するよう頼んだけど聞き入れてもらえず、仕方なく宮に危機が迫っていることを報せるため
引き返そうとすると追手に追われて深手を負ってしまい、彦七に宮への伝言を頼んで敵中に切りこみ、
桜花の散るように勇ましく戦死。八郎の忠義の死によって大塔宮は危機を脱したそうな。
で、大正4年(1915年)国家につくした者として正五位が贈られた・・人なんだそうです。

片岡春利は片岡城の城主で、永禄12年(1569)に松永久秀に攻められてよく守った。

とこういう説明。筒井順慶配下の武将だったみたいね。だけど結果、松永さんにやられちゃったみたい。

八郎さんとかこの際どうでもいいけど、しかし戦国史は奥深いね・・もっともっと勉強しなければ。


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で、右側の松永久秀さんのお墓にズームイン! 戦国の梟雄の墓はあまりにも地味地味しいね。
松永さんと言えば足利を裏切り、興福寺を裏切り、三好も裏切り、東大寺の大仏を焼き・・
戦国史に燦然と輝く謀略と裏切りの武将ですw 出自ははっきりしないそうですが有名なところは
三好家に仕えて13代室町幕府将軍、足利義輝を襲撃するも三好家と諍いが起きると三好家が
立てこもる東大寺を大仏もろとも焼き払う。その後、信長が上洛すると九十九髪茄子の茶器を
差し出して仕えるものの、足利義昭が織田包囲網を展開するとこれに乗って信長に造反します。

織田包囲網が信玄の死によって失敗に終わると、多聞山城を明け渡して信長に再び従属。
しかし本願寺攻めが開始されると、そのどさくさに乗じて信貴山城に立てこもり謀反を起こします。
信長軍に包囲された松永久秀は降伏することなく信長が欲しがっていた平蜘蛛の茶釜を抱いて爆死しました。
2度目に裏切りにもかかわらず「平蜘蛛の茶釜を渡せば許す」と信長は言ったそうですが、
松永さんの心中やいかに・・渡したところで2度目はないと思ってあてこすったのかもしれないね。


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あの信長にして「普通は生涯かけて1つできるかの悪事を3つもやってのけた」と言わしめる松永さん。
松永さんはある意味「ミスター戦国」よw 謀略、裏切り・・ワタクシは松永さん嫌いじゃありません。
下剋上の世の中、きれいごと言ったって始まらない。この時代にモラルの大小問うても仕方がないし、
正々堂々としてるつうかね、二枚舌だったり玉虫色だったりいやらしいやり方だったら嫌いだけど、
分かりやすいっていうか、愛すべき悪役というか・・天下とか狙ってないんだよね、松永さんは。
天下狙ってたら将軍やらないでしょw その時のフィーリング? 本能のままって感じがいいのよw

信貴山城で爆死した松永久秀の遺骸は、同じ大和にいてライバル関係だった筒井順慶が
この寺に葬ったと言われているそうです。信貴山城に籠城した松永さんを攻めたのは筒井さん。
同郷のよしみなのか、何かしら縁あってのことか分かりませんが、地味にグッとくるエピソードw



達磨寺には他に聖徳太子の愛犬「雪丸」の像などもありました。

近くには松永さんが爆死した信貴山城跡(朝護孫子寺)もあります。
ワタクシは信貴山城へ行く前に立ち寄り。何だかリアルだったわ~



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| 武将の墓 | 06:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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正龍寺の北条氏邦の墓

[北条氏] ブログ村キーワード

埼玉県大里郡寄居町にある正龍寺には北条氏邦のお墓があります。

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正龍寺の歴史は古く、元は花園城主藤田五郎政行が創建し、貞和4年(11348)臨済宗の僧實翁和尚が、
山号を青龍寺と改号。天文元年(1532)に乾翁瑞元和尚が教化して十五代城主藤田康邦が開基となり、
天正19年(1591)に正龍寺に変わりました。現在は曹洞宗のお寺だそうです。

正式な名前は「曹洞宗 高根山藤源院 正龍禅寺」。北条氏邦夫妻と藤田康邦夫妻のお墓があります。
北条氏邦は北条氏康の3男で氏政や氏照の弟、藤田康邦は当時の花園城主で氏邦の養父であり義父です。


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藤田氏は古くから一帯を治め、室町時代には関東管領上杉氏の重臣でしたが、川越野戦の後、
北条氏の支配下に入ると、氏康の三男、乙千代(後の氏邦)を娘(後の大福御前)の婿に迎えて
天神山城と花園城を譲り、康邦自身は男子の重連・信吉を連れて用土城に移って隠居となります。
氏邦が鉢形城主となったのは永禄年間。この時に大規模な改修が行われ北条最大規模の支城となりました。


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お墓の中をちょいちょい登りながら進んで氏邦さんたちのお墓に到着。霊廟のようになってます。
2組の夫妻のお墓はそれぞれ埼玉県指定史跡及天然記念物に指定されているそうです・・天然記念物?


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供養祭など特別な時以外、普段は鍵がかかっていて中に入ることはできないようです。
向かって左に北条氏邦と大福御前、右側に藤田康邦と西福御前の宝篋印塔が並んでいます。
戦国期の宝篋印塔としては大型で、笠に彫られた蕨手や竪連子の模様などに特徴のあるこの四基の墓は
戦国末期の領国支配と戦国大名の動静の一端を如実に物語っています・・と説明がありました。


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氏邦は豊臣秀吉による小田原攻めの際、野戦での撃退を主張したとも言われる武闘派で、
兄の氏照とともに勇将の誉れ高い武将でした。子供の頃には氏政を何度もケンカで負かせており、
家臣の中には氏邦や氏照の方が世継ぎに向いているのではという声も上がっていたほどだったとか。
父の氏康は後継ぎ問題を恐れ、氏邦を藤田氏へ、氏照を大石氏に養子へ出したと言われています。

氏邦は野戦を得意とする武勇の将でしたが、鉢形城改修と同時に城下町を整備して養蚕を奨励し、
領国経営にも力を入れていたそうです。小田原攻めの際には抗戦を主張しますが評定に従い、
3千あまりの兵とともに鉢形城に籠城しました。しかし上杉景勝、前田利家ら5万の兵に包囲され1ヶ月後、
氏邦は城兵の助命を条件にやむなく開城。正龍寺で出家して前田利家のもとに降伏したと言います。

その後、氏邦は前田利家に預けられて加賀に移り、7年後に死去しました。享年57歳。
氏邦の夫人、大福(おふく)御前は正龍寺で仏門に入っていましたが落城の後、自害したそうです。


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用土城に隠居した藤田康邦が亡くなったのは天文24(1555)年。ここ正龍寺に葬られました。
この時、康邦が連れて出た2人の実子・・重連は19歳、信吉は3歳だったそうです。
天正6(1578)年、重連は沼田城主をめぐる問題から存在を危険視した氏邦によって毒殺されます。
沼田城代となっていた弟の信吉は氏邦を恨んで武田勝頼に寝返り、武田氏の滅亡後は上杉へ仕えると、
鉢形城攻めでは上杉軍の先鋒を務めました。一説によると信吉は姉の大福御前に頼まれて
氏邦の助命嘆願をしたとも言われていますが、寝返るほど恨んでいた兄の敵だし・・どうなんだろ? 

氏邦の遺骨は加賀から家臣が持ち帰り、藤田氏康夫妻の眠る正龍寺に葬ったと言われています。


義弟毒殺とかぶっそうな話もあるけど家のため家臣のため・・戦国時代だから何でもありますよ。
それでも数々の戦功をあげ、堅固な鉢形城を築き、領地経営にも力を注ぎ、抗戦派にも関わらず、
城兵の命を救うため開城を選び・・そんな氏邦の葬儀には弟氏規や北条旧臣や領民などを含め、
一山を越える人が集まったと言われています。今でも地元の人からは慕われているそうです。


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正龍寺の近くには藤田氏の菩提寺である善導寺もあります。鉢形城も近いので全部セットで。



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| 武将の墓 | 07:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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安土城の信長廟所と信雄供養塔

[安土城] ブログ村キーワード

安土城には織田信長の廟所と信長の次男、信雄の供養塔があります。

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まずは順番的に信雄の供養塔から。本丸方面に向かう黒金門を越えた左手の方にあります。
正確には信雄以降四代の供養塔で、右から初代信雄、四代信武、三代長頼、二代高長と並んでいます。


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信雄と言えば、無断で伊賀国に出陣して大敗し信長に譴責されたとか、
本能寺の変後、安土城を燃やした張本人ということにされていたりとか、
小牧長久手の戦いでは家康に無断で秀吉と単独講和をしてしまったりとか、
とにかく愚将のイメージが付きまとう人ね。安土の放火の真偽は別として、
やっぱり考えが浅いというか、周囲からの評価は低い人だったんだと思う。
ワタクシも信長の野望をやる時、頼りにした試しは1度もないですw


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信雄の供養塔・・写真じゃなくて供養塔そのものが少し傾いているのよw

清州会議でも次男ながら家老は誰ひとり信雄を推戴しなかったといいます。
多少アフォでも父親が信長じゃなければ、そこまで評価低くされなかったかもね。
傾いた供養塔に偉大な父を持った信雄の悲運というか・・哀愁漂ってますね。


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二の郭には信長の廟所があります。元は信長一周忌に伴って羽柴秀吉が建立したそうです。
手前は百名城スタンプを押すところ。なんでこんなところにあるのか違和感あって謎w


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安土焼失といっても二の郭なんかは大丈夫だったみたいで整備された後、
遺骸の代わりに信長の太刀や烏帽子なんかを埋めて弔われたんだって。
ワタクシは秀吉の「信長ラブ」アピールのためのパフォーマンスと見ますw


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この廟が建てられた翌年、安土城は廃城になりました。秀吉だけに何か意味深。
ワタクシは信長の太刀や烏帽子を見たいわ。発掘とかしないのかしら?

この廟所が完全に当時のまま残っているものなんか分からないけど
廃城になっても徹底的に破壊されず安土城が今日まで残ってよかったと思いマス。

信長のお墓はあちこちにあり、ワタクシ先に高野山の名前入りお墓を見ているし、
本拠地、安土城の中・・しかも普段生活していたという二の丸に立っているので
そっちの方が感慨深く、廟所にはイマイチ興奮しきれませんでした(勝手な女)w



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| 武将の墓 | 14:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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常楽寺の源義経と大道寺政繁のお墓

[源義経] ブログ村キーワード

埼玉県川越市の常楽寺には川越重頼、源義経と京姫、大道寺政繁のお墓があります。

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常楽寺は平安時代末~南北朝時代に、武蔵国(関東)で大きな勢力を持っていた河越氏の持仏寺。
常楽寺の真裏には国史跡の「河越館跡史跡公園」なんかもあって当時はこのお寺も館の一部だったとか。


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山門、鐘楼門を潜ると本堂に至る手前左側に川越重頼と源義経、京姫(郷御前)のお墓があります。

真ん中が河越重頼さん。平安時代末期にこの地で最も強い勢力を持っていた武将です。
源頼朝が伊豆で挙兵した際、頼朝の御家人となり平氏討伐に参戦、その縁から頼朝の弟、
義経に娘の京姫を嫁がせます。しかし後に頼朝と義経が不仲になると、義経に荷担したと目され、
重頼さんは誅殺されてしまいます。


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義経といったら静御前の方が吉野の別れとか、鎌倉での舞とか有名なエピソードが多いけど、
京姫は奥州藤原氏を頼って東北に都落ちする義経についていった義経最後の女性らしいです。
義経モテモテ。ワタクシ、頼朝か義経だとうっかり義経になるけど、男性としてはどうでもいいですw


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本堂の方へ進んで左手にある一般の墓地の中に北条氏の家臣だった大道寺政繁の墓もあります。
一般の墓地の中に紛れているので分かりづらいのなんのって・・探し回ってしまったわ。

大道寺さんは北条家の重臣で本家からの信頼が厚い武将でしたが、1590年の小田原攻めの際には
本領安堵を条件に籠城していた松井田城を開城したばかりか、豊臣方の北国勢に加わって
長年忠義を尽くしてきた主家、北条家の忍城攻めの先峰を務めてしまいます・・・


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松井田城は北条家にとってとても重要な拠点、そこを任されるほどの大道寺さんは
決しておバカさんではありません。家のため、家臣のためと思い、大道寺さんなりに
生き残る道を模索した結果、秀吉に上手く利用されたのかもしれません。

大道寺さんは北条家滅亡後、秀吉に不忠を責められ切腹を命じられています。
松井田城の前に城代を務めていた川越にあるここ、常楽寺で切腹をしたそうです。享年57歳。
政繁の子供たちは家康の懇願によって秀吉に許され、徳川の家臣として秀忠に仕えました。


となりにある国指定遺跡の河越館跡史跡公園とぜひセットで。



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| 武将の墓 | 21:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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長浜市石田町の石田三成供養塔

[石田三成] ブログ村キーワード

長浜市石田町には石田三成公一族及家臣の供養塔があります。

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一族の供養塔のある場所は石田町に着いたら八幡神社を目指します。車だと細い道なので注意!
八幡神社となっていますが境内に「石田神社」という標柱があるので三成ファンの方お見逃しなくw


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神社の横を抜けていくと、塀に囲まれた石田一族の供養塔がある一角があります。
造作もちゃんとしているし敷地も何気に広いです。綺麗に手入れされているのがすぐにわかります。
ワタクシが写真を撮っていると、地元の方らしきオジサンがやってきました。
オジサンまっすぐ供養塔に向かうと長いこと手を合わせます。三成ラブ度合にちょっと感動。


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昭和16年に八幡神社の地中より故意に破壊された五輪塔の残欠が発掘され、墓石の残欠が石田三成公の先祖に
関係のあるものと推定されました。関ヶ原の戦いの後、徳川方の追求を逃れるため、神社を隠れみのに
里人が密かに埋め隠していたものと考えられているのだとか。その後、仮の墓所で30年間供養していましたが、
昭和48年この地に「石田三成公一族家臣供養塔」が建てられたんだそうです。


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香炉堂なんかもある立派な供養塔です。ガラスもぴかぴか!地元に人の手入れなんでしょうね。
命日なんかは特に、全国から石田ファンが押し寄せる石田三成の聖地なんだそうですよ。
ワタクシ東軍より断然西軍。もちろん石田三成は好きです。頭がいいのだからもっと突き抜けて、
人を転がすためには何でも出来るバカになってしまえばいいのに、それが出来ない不器用さが何かねw


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大きな五輪塔の周りに小さな五輪の塔が置かれています。石の様子から時間が経っている感じがします。
三成は善政を敷いて領民に慕われたというから、三成ラブだった当時の人々が、徳川に見つからないよう
埋めたり壊したりして、大切に守ってきたものだったんだなという感じが伝わってきますよね。
ここでも遠藤直経のお墓同様、綺麗にシャンとしたお花が綺麗に活けてあるのが印象的でした。


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供養塔の近くには石田三成の辞世の句が掘られた碑も置かれていました。

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

筑摩江にともるかがり火が消えるように、自分も消えていくのだな・・

筑摩江は滋賀県の琵琶湖東北端にある場所を指すようです。三成が処刑されたのは京都の六条河原。
処刑場への護送中、のどが渇いたと言って柿を勧められ、痰の毒だと断ったエピソートが有名だけど、
どのタイミングで読んだのか・・辞世の句を見るとちょっとエピソートが示す印象と違う気もします。
でも死に際に及んで変にかっこつけたり気取ったお高い句を読んでいないところに逆に好感を持てたり。


近くには三成ファンの聖地 石田会館もあります。
長浜に行った際は、あるいは三成ファンの方はぜひ行ってみてください。



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| 武将の墓 | 19:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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平林寺の増田長盛の墓

埼玉県新座市の平林寺には増田長盛のお墓があります。

増田長盛の墓

最初に知った時、あまりに脈絡ないように思えて「マジで?」と思ったのですがマジですw

増田長盛は豊臣秀吉に仕えた豊臣五奉行の一人。大和郡山20万石の城主でしたが関ヶ原で敗戦し、
所領没収の上、高野山に追放されると、元和元年(1615)5月27日自刃。享年71歳でした。
岩槻の平林寺に葬られ、野火止移転に際し、この場所に改葬されたのだそうです。
政権にいたころは埼玉なんておそらく全く縁のなかっただろう土地で眠っているんですね。


見性院の墓

こちらは見性院・・武田信玄の二女で穴山梅雪の正室の供養塔。梅雪の死後、梅雪と懇意だった家康に養われ、
秀忠の子幸松丸(後の保科正之)と母お静の方を引き取り養育しました。お墓は浦和市の清泰寺にあるそうです。
家康や禅師と懇意だったため、後に建立されたものなのだとか。

ちょっと話が飛ぶけれど、ワタクシ何かで、武田勝頼が母である諏訪御料人の供養を平林寺に頼んだという話も
聞きかじった記憶があります。古刹には戦国にまつわるエピソードが何かしらあるものね。埼玉だとしてもw

平林寺は新座市役所近くで駐車場あり、バス便のアクセスよしで観光しやすい所だと思います。
今回ご紹介した増田長盛らのお墓の他、松平伊豆守信綱の墓もあり、お寺としては指定文化財になっている
総門、山門、仏殿、中門など見どころがたくさん。境内の植栽や四季の花々もとても綺麗!おすすめです。


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| 武将の墓 | 19:08 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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高野山奥の院の武将のお墓その2

[武将の墓] ブログ村キーワード

高野山奥の院の武将のお墓その1の続きです。

石田三成墓所

石田三成のお墓。敗戦の将は奥まったところにあったり規模が小さかったり・・
それでも三成はそんな変な場所じゃないけど。気の毒だと見るか、それでも奥ノ院に
お墓があることでよしと感じるか人それぞれ。ワタクシは石田三成嫌いじゃありません。
徳川時代に抹殺されず、他の武将と並んでここにお墓があってよかったと思いました。


明智光秀墓所

明智光秀のお墓。これまた道からそれたところにひっそりと・・
しかも向きも変で何だか気の毒になりました。三成より奥まってましたし。

順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元

正しい順序と逆の順序には一本の道しかないのであろう。
人の大道(人の守るべき正しい道)とはなんであろうか。
五十五年の夢が覚めたような今、心の源に到達したような気がする
私はいま土へと帰るが、己の生き方に悔いはない。

何しろ信長が一番ですがだからといって光秀が嫌いではないんです。
辞世の句。清廉潔白で品があってわたくしはとっても好きです。
次に好きなのは謙信の辞世の句。秀吉のはあまり好きじゃないです。

榊原康政墓所

榊原康政のお墓。榊原君は言わずと知れた徳川四天王。本多忠勝のお墓はあるけど
伊井君と酒井君はあったかな? ビッグネームだらけなので四天王でも正直目立ちませんw


本多忠勝墓所

ワタクシの好きな武将ベスト5のひとり本多忠勝君のお墓。
お墓をくぎる柵みたいのもなくドーンとね。囲いがないと取ってつけたみたいな・・
忠勝君は千葉の大多喜にもお墓があるから、そのうち本拠地のそちらにも行こうと思う。


豊臣家廟所

秀吉のお墓は大きいです。一族分あるので敷地?区画?が大きい!!
でも墓石がいまいちしょぼかったので「?」な感じがしました。
秀吉はもしかしてあの世で派手な廟を欲しがっているかもしれないね。
誰が建てたか分からないけどセンスはいまいちだと見ましたw


織田信長墓所

信長のお墓もメインルート沿いではなく横道を登ったところにあります。
ただメジャー中のメジャーですからちゃんと案内の看板が出てるので見逃すことはありませんw
信長はワタクシ的超カリスマ。中学生の時から今日までずっとナンバーワンカリスマ。
骨なんかもちろん入っていませんが気持ちの問題。神妙に手を合わせておきました。
しかし・・・秀吉より低い場所にあることには地味に納得いきませんでしたが。

安土城の二の郭にある信長廟所より、奥ノ院の方がモロお墓でお参りモチベが上がりますよ。


筒井順慶墓所

筒井順慶のお墓。ちゃっかり信長のお墓の隣!!隣は蘭丸君とかがよいんじゃないかw
って、そもそも蘭丸のお墓はここにないけど・・奥ノ院にお墓がある基準は何なのかな?
加藤清正とか蒲生氏郷とか国持ち武将もお墓ない人いるし・・真言宗とか関係なさそうだし。


武将の墓マイラーとしては、ゆかりの地やゆかりの寺院にあるお墓の方が
真剣に手を合わせる度が高くなるし、より思いを馳せれて感慨深いんだけど、
奥ノ院はそれとは違うお得感があり、お腹いっぱいになるからよかったですw


また行って他に見逃した武将のお墓を改めて見たいけど遠いし、不便だし、混んでるし・・
ただ真田君ゆかりの九度山にいずれ行くと思うので、何ならその時気合いを入れてだなw


高野山に行ったら金剛峰寺とかだけじゃなく、奥ノ院も絶対に時間の余裕を持ってて行ってね。



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| 武将の墓 | 21:39 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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高野山奥の院の武将のお墓その1

[武将の墓] ブログ村キーワード

世界遺産 高野山奥の院には武将のお墓が大量にあります。

奥ノ院

高野山は広い!武将の墓所がある奥ノ院は金剛峰寺などの中心部から2キロぐらい離れています。
弘法大師のいるところを奥ノ院というそうです。どういう経緯でそうなったのか分からないけど
奥ノ院にはメジャーからマイナーまで、はたまた近現代の著名人まで多くのお墓があります。
全部見きれないのでピンポイントで墓参りしました。その中でも超メジャーをご紹介します。


島津家墓所

島津家の墓所・・って家単位だからメジャーっていってもピンと来ないかw

奥ノ院は散策マップがあり、もらってから行けばどこに誰のお墓があるかが記されてます。
でも参道沿いに全部があるわけじゃないので、目皿にしてないと奥の方のは見逃します。


武田信玄

武田信玄・勝頼親子のお墓は参道沿いで看板も立っているので大丈夫w
お墓と言っても武将の場合、必ずしも骨が埋まっているとは限りませんが、
お墓は偲ぶ人のためにあるとも言いますから気持ちの問題ということで。


上杉謙信廟所

上杉謙信の廟所。これは奥まったところにあるからボーっとしてるとちょいと危ない。

この廟所は重要文化財なんだとか。謙信の遺言によって建てられた霊廟なんだって。
あちこちにガイドさんを頼んだ団体がいるので、見つけたらさりげなくそばに行き、
何食わぬ顔で説明を聞くのがポイントですw


伊達政宗墓所

伊達政宗のお墓もあります。これも参道沿いなので大丈夫。
ビッグネームだけど信玄や謙信とは違って五輪塔のお墓です。
梵字が入った五輪塔は苔むして年季が入っています。


結城秀康の石廟

結城秀康のお墓は何気に立派です。お墓じゃなくて廟か・・謙信並みの待遇ですな。
ワタクシ的に結城秀康には食いつきどころがないので、ふうん・・という感じで終了w


浅野内匠頭墓所

急に時代が飛ぶけど、浅野内匠頭のお墓。赤穂浪士はいませんよ。浅野さんだけです。


奥ノ院、パナソニックとかメジャーな日本企業のお墓もたくさんあるんだけど
リッチな新しい墓石が妙に浮いてて超違和感。空気読んだ方がいいと思ったわよ。


高野山奥の院の武将のお墓その2に続く。



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| 武将の墓 | 15:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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姉川古戦場の遠藤直経の墓

[武将] ブログ村キーワード

姉川古戦場、信長が当初、陣を置いた竜ヶ鼻の近くの田んぼの中に遠藤直経のお墓があります。

遠藤直経 墓

姉川古戦場マップを頼りに竜ヶ鼻の陣跡に続いて、来てみたのですが最初「どこ?」と思いまして・・
地図と風景を首っ引きで長めていたら、真ん中に怪しげな「こんもり」を発見! ロックオンしました。


遠藤直経 墓

地元の方なんでしょうね、草木の手入れもされて切ったばかりのきれいな花が活けてあります。
以前は40m先の畑の中に遠藤塚と呼ばれる墓があったそうですが、平成9年に圃場整備のため
ここに移転されたのだそうです。少し移動してますが遠藤直経が討死した場所と伝えられています。


遠藤直経 墓

浅井の重臣である遠藤直経は喜右衛門と名乗り、磯野員昌と並ぶ力自慢・戦上手の武将でした。
小説などで書かれる直経に、ワタクシは自分の信念は曲げない豪気な男のイメージを持っています。
朝倉家の真柄直隆と力比べをするほど力自慢の猛将だけど、たしか智謀もなかなか・・信長の野望を思いだし中w

直経は浅井軍の敗色が濃くなると味方の武将首を持って織田軍になりすまし、信長陣中に忍び込みましたが、
あと一歩のところで竹中重矩(半兵衛の弟)に見破られ、討ち取られたと言われています。

ずっと若い頃、初めて小説でこのシーンを読んだ時、彼の壮絶な死に様はものすごいショックでした。
ワタクシには「討死を決めて突撃」以上のことに思えて、修羅になるってことが分かった気がしたから。
信長贔屓なんだけど、悲壮な覚悟に危うく直経を応援しかけ、討ち取られた時は残念にも思ったり。

そんなことを思いだしながら、直経さんに敬意を表し丁寧に合掌しておきました。

ちなみに朝倉家の真柄直隆も徳川軍と戦い、この戦で壮絶な討死をしています。
真柄さんのお墓は姉川にありませんが、死闘の繰り広げられた場所は「ちはら公園」として残っています。

姉川古戦場を訪れる際はぜひ合わせて行かれることをお勧めします。


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| 武将の墓 | 20:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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